2-3

 司祭館に入ると、ジェレミーは居間の絨毯の大きな茶色いシミを見て片眉を上げた。

「気にしないで。かなり前に紅茶のカップがそこで殉教したんだ」俺は言った。

 コーヒーか紅茶かクリスが聞いてから、思い出したように俺をキッチンへ呼んだ。

「……本当にいいのかい?」

 クリスのもと上司だとかいう司教から、助祭(神父見習いみたいなものだとクリスは説明した)をひとり預かることになったと聞いてから、ひとまず俺がそいつと――そいつがどんなやつだったとしても――同室になることに決めていた。俺の家に個室なんてのはなかったし、もし大学へ行くようなことがあれば寮生活になるんだろうから、その予行演習だと思えばいい。リビングのソファーがソファベッドだったから、移動させればなんとかなる。

 それに、直前の発言で、俺とクリスが一緒の部屋にすると言った瞬間にやつの頭にうかぶだろうシーンは、聖書に詳しくない俺にも簡単に想像がついた。

「今まで寝てるあいだに変身したことはないから大丈夫だよ。いざとなったらあいつを殴って、夢だったのかと思わせるからさ」

「お前にそんなことをさせるぐらいなら、ミスター・ノーランに頼んで記憶を消してもらったほうがましだよ」

 焦っているのか、クリスは自分がかなりヤバいことを口走ったのに気づいてないみたいだ。

ニックあいつに頼むと高くつくからやめなよ。それにあいつの術もあやしいもんだよ。前にクリスとスミスさんには効いたけど、効かないやつもいるみたいだからさ」


 その日の午後をかけて、俺とジェレミーは、俺の部屋――もとレオーニ神父の部屋――を掃除して模様替えをした。クリスは完全にプライベートは俺の自由にさせてくれていたから、ベッドの下やすみっこにものすごいほこりやお菓子のクズがたまっているのに、やつは顔をしかめて俺を見た。でも、お堅い聖職者が一番気にするような悪徳が満載の雑誌のたぐいは出てこなかったから、そこは妙に感心してるみたいだった。

 馬鹿め、最近は暗証番号が必要な箱に入っていることのほうが多いんだよ。

 夕飯の準備も手伝いますよとジェレミーは申し出た。

「いいよ、キッチンが狭くなるからさ」と俺は言った。クリスと話しておきたいこともあるし。

「明日の朝からはお願いするけどね。今日のところは君はお客さまだよ」

 とクリス。

 クリスのこの態度は今に始まったことじゃなかった。「訪ねてきた人には誰であれ親切にすべきだよ。旅人に身をやつした天使かもしれないんだからね」とよく言っている。

「そいつが吸血鬼ってこともありうるよ」と俺は言った。「もう忘れたの?」

 クリスはため息をついた。

「ミスター・ノーランのことはひとまずおいておこう。このあいだ告解にきたしワインも飲んでいったから、またすぐ訪ねてくるようなことにはならないだろう。お前のところに連絡がくるんだよね?」

「うん」

 夕飯ができると俺はジェレミーを呼んだ。

 彼とクリスが向かい合って座り、俺は踏み台代わりに使っているスツールに腰かけた。

 クリスがいつものようにお祈りを始める。ジェレミーもそれに加わる。べつに最近死んだ誰かの魂の平安を祈るようなものでもなかったから、俺はいつものように皿に手を伸ばした――ところ、ジェレミーに止められた。

「彼はお祈りをしないのですか?」

「言い忘れていたけど、彼は信者ではないんだ。いろいろ手伝いはしてくれるけど、お祈りはしないよ」

「求道者というわけでは?」

 聞いたことないけどカッコいいな、ちょっと〈スター・ウォーズ〉のジェダイみたいな響きだ。

「違うよ」とクリス。

「でも教会に住んでいるんでしょう。だったらお祈りをするべきだ。郷に入りては郷に従えローマではローマ人のするようにしろというでしょう」

 ジェレミーの顔は大真面目だった。俺とクリスは顔を見合わせた。

 クリスの眼に申し訳なさそうな色がうかび、言いたくもないことを口に出させる前に、俺はさっさと胸の前で手を組み、見よう見まねで――何百回も聞かされてりゃ、嫌でも覚える――食前の祈りを唱えた。なんたって俺は“聖人の家に仕える女中”なんだから。

 ジェレミーはクリスの作ったサーモンのムニエルとキノコのソテーを誉め、

「立派な司祭になるためにはこういうこともできないといけないんでしょうね――困ったなァ、僕はあまり器用なほうじゃないから……」

「べつに、司祭になるのに必須というわけではないけれど……」

「でもまあ上手うまいにこしたことはないよね。よくあんたがたは人は神の言葉によって生きるって言うけど、説教じゃ腹はふくれないからね。俺がここにいる理由のひとつは、クリスの飯がうまいからだよ」

 俺が言うと、ふたりの聖職者は食事の手を止めてこっちを見た。

 クリスはなんだか(最近覚えた言葉だ)してるみたいだが、ジェレミーのほうは目をキラキラさせている。……俺なんかマズいこと言ったかな。


 新しい居候はいびきも歯ぎしりもしないやつだったが、寝る前に俺にお祈りをさせようとするのには閉口した。

「寝る前にその日一日の反省をしたくならないかい?」

「あんたがするのは勝手だよ」俺はうんざりして言った。

「あんたが口に出してお祈りをするタイプなら、俺はなにを聞いても誰かに言ったりはしないからさ」

「僕が言っているのは君のことなんだが」

「俺がいつどこでお祈りをしようとあんたには関係ないじゃないか。俺の時計はメッカに合わせてると思ってくれればいいよ」

 俺はそのまま布団をかぶって寝てしまった。

 まあそんなふうだったから、いつもだったら絶対に起きない朝五時に目が覚めて、いつもみたいにすでに起きていたクリスと、ジェレミーと一緒に朝飯を食うはめになった。

 俺が、チーズをのっけた厚切りのトーストを三枚と、オレンジジュースをコップ二杯、目玉焼き二個とフランクフルトソーセージ三本を平らげ、さらにボウル一杯のカフェオレでシメるのを見てやつは目を丸くした。サラダボウル半分のグリーンサラダは勘定には入っていない。

「……その体のどこでカロリーを消費してるんだい?」

「クリス、今日は俺、先に行くね」

 バックパックを取り上げて、俺はさっさと司祭館を出た。学校まで走っていこうと決めて。

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