神の慈悲なくばⅢ 〜La Maledetta〜

吉村杏

Prologue

1-1

「まさか本当にあなたひとりとはね。お目付役は?」

 夜のように黒いスポーツタイプの車で待ち合わせ場所に現れたノーラン氏は、窓を開けてあたりを見回した。

「いませんよ」私は苦笑した。

 黒いコートの上に、街灯の明かりの届く範囲からはずれていたのに、苦もなく見つけられるなんて。

「それはよかった。どのみちこの車に三人は乗れないからな。どうぞ」

 吸血鬼の車に乗り込むなんて自殺行為だとディーンが騒ぎ立てる声が聞こえるような気がしたが、助手席のドアを閉めるとすぐに、車は都心部に向かって走り出した。

 車内にはほのかに花の香り――おそらくは百合がベースの――が漂っていた。

「しかし、よくあの小うるさい小姑が、あなたに私の電話番号を教えたものだね」

「ディーンは私とあなたがふたりきりになるのを嫌がるので、古い友人と飲みに行くと言っておきました。あなたの携帯電話に電話をかけるのに、彼の暗証番号を盗み見たことを告白します」

「ははあ」

 ヴァンパイア氏は心得たように片眉を上げた。

「あの人狼の坊やはたしかに鼻がきくからな」

 三十分ほど走って着いた先は、中心部にほど近い、十五階建てのアパートメントだった。エントランスはガラスに白と灰色のタイル張りで、たまたまなのかもしれなかったが、コンシェルジュのカウンターにも、ほかに人影はなかった。

 ますます自分が馬鹿なことをしているのではないかという思いがつのってくる中、彼についてエレベーターで最上階へ上がる。

 通されたフロアはひとつの階がまるごと居住空間ペントハウスになっていた。白と黒を基調とした無機質なインテリアで、アイランドキッチンの白い人工大理石の天板が、ストリップライトの光を反射して輝いている。リビングの、南東に向いた大きな窓のブラインドは全部開いていて、ビル街の夜景が見渡せた。

 生活感の感じられない室内で、唯一、観葉植物の鉢があちこちに置かれているのが奇妙な取り合わせだった。

「いかにも吸血鬼ヴァンパイア然とした内装インテリアだとか思っているんじゃあるまいね?」ノーラン氏が面白そうに言った。

「言っておくがこれは私の趣味じゃない。前の住人の趣味だよ。私がこの部屋に持ち込んだのはベッドと――もちろん、年代ものの四柱式寝台なんかじゃないよ――パソコンと、あといくつかの私物だけだ」

「ずいぶん広いんですね、その……ひとりで住むにしては」

「城よりはマシさ」

 あなたが来るとわかっていたら、ギネスかスミティックスでも用意したんだが、と言いつつ、彼は冷蔵庫を開けてなにかを取り出した。

 カウンターの上に置かれたのは二本のコロナビールの瓶だった。

「ご希望ならライムもあるが」

「……あなたが?」

「ハウスキーパーのメキシコ人女性が買って置いているんだ。ミネラルウォーターなんかと一緒にね。いくらといっても、水も飲まない人間はいないだろう。金を払っているのは私だから、彼女は気にしない」

 二本とも栓を開けたものの、彼は口をつけようとはしなかった。

「気にしないでくれ。ホストの義務つとめというやつだ」

「あなたが誰かをもてなすだなんて、ディーンでなくてもすぐには信じられませんね」

「私は誰かを家に招いたりはしないし、吸血鬼は常に招かれざる客だよ。神父、あなたを除いてはね」

「ええ、軽率だとディーンに叱られましたよ」

「まったくだ」

「ノーランさん、あなたに相談したいことが」

 ビールの助けを借りて本題を口にする。

「私はカウンセラーでも神父でもないが」

 彼の口調は墓のように静かだった。

「レオーニ神父が生きていたら彼に相談したでしょう。どこの教会に、人狼の子と吸血鬼と、ふたつもの問題を抱えていてと告白しに行けると思いますか? 私はこの先、赦しの秘蹟を受けられないかもしれない」

 ノーラン氏はL字になっているバーカウンターに寄りかかって、頬杖をついた。

「私の血には力があるとあなたは言われた。そのためにディーンは夢魔に襲われ、彼のクラスメイトは魔女に狙われた――結果的に追い払えたからといって、私の存在が、私の周囲まわりの人たちを危険にさらしているということでしょう。私はレオーニ神父のように市井で人の助けになりたいと思って今の教会にいますけれど、どこかの修道院にでも入ったほうがいいのかもしれない」

「……あの坊やは反対するだろうな。あなたが大好きなようだから。飼い主に捨てられた犬みたいになるのが目に浮かぶよ」

 その言葉に思わず目をつむって、カウンターの上で両手の拳を握りしめる。

「……そうです。それがわかっているから、無責任だと思うんです。彼を預かっておきながら――というより、私が彼を一族クランから引き離したようなものですから。彼は虐待同然の扱いを受けていても、一族と一緒にいたがった。それなのに……」

「……やれやれ。めんどうみた相手には、いつまでも責任があるんだよ、というわけか。私はその考えには賛成しないね」

 あきれたような響きだった。

「どうしてこう聖職者というのはクソ真面目なんだろうな。そのうえあなたは、神の命じた正しいことをやろうとするだけでなく、自分の信じる“正しいこと”をも貫こうとして余計に苦しむ――それがさらに“力”を増す原因になっているというのに」

「ノーランさん……」

 目を開けたときには、音もなく、彼がカウンターのこちら側――それも文字どおり目と鼻の先にいた。飛び越えたわけでも回ってきたわけでもないのに。

 驚いているひまもなく両手首をそれぞれつかまれ、耳の横までひねりあげられる。軽く握られているだけなのに、はりつけにされたようにその場から動けない。あたたかな血のかよっていない手は氷のように冷たく、指先から肘へと骨に染みる寒気さむけが這い上がる。

「まさに悪魔の殉教者だな。私にはまだ良心があるとあなたは言ったが、良心があるということと、それに従うかどうかはまたべつの問題だからね」

 ノーラン氏が目を細め、かすかに歯をみせて笑った。

「もうひとつの解決法がある。私があの坊やに言ったことだが」

 彼の瞳はグレーのままで、ちまたでよく言われているようにあかくなったりはしなかったが、その色が、曇った冬の朝に張った池の氷みたいにどんどん薄くなっていく。

 ふつうに考えたら今すぐ逃げるべき状況なのだろうけど――彼に対しては祈りの効力があることはわかっている――どこかで見ただ、とふと思う。最初に遭ったときではなくて、もっと昔に……。

「いっそのこと堕落してしまえば、それ以上悩むことはなくなる。おまけにすぐに地獄に堕ちるわけでもない。半永久的に地上を彷徨さまようことにはなるが、私にはそれができる――あなたが望むならね」

 彼はまるで愛撫でもするように、首筋に、長く伸びた犬歯を滑らせた。押し戻そうとしても暖簾に腕押し空気を叩くようだ。

 悪魔憑きデモニアックといい人狼ウェアウルフといい、パラノーマル世界に軸足をおいている人はどうしてこう、揃いも揃って人並みはずれて力が強いんだ!

「放してください、ノーランさん」

 整髪料なのか香水オーデコロンなのか、麝香ムスクとシダーウッドの香りが強くなる。

「ニックと呼ぶまではダメだね」

 冷たい唇が耳のうしろを伝う。

「ニック、やめてください」

「……つまらない男だな、君は」

 吸血鬼は不服そうに、それでもすぐに手を離した。

 血流障害チアノーゼを起こす寸前の両手と両手首を擦ってあたためる。

 ノーラン氏はきちんと距離をとってバーカウンターにもたれた。口許にはあるかなきかの笑み。

 ……からかわれていたのだろうか、やっぱり?

「神と教会に背くのはおそろしいかね? 今だってじゅうぶん背いているじゃないか」

 外見上は三十代にみえるのに、たしかに不死者アンデッドだと認識を新たにさせられるのは、彼のこの言葉づかいだ。まるで懐古趣味のヴィクトリア朝愛好家かシェイクスピア劇の俳優としゃべっているような気にさせられる。あるいは『ファウスト博士』のメフィストフェレス?

 そういえば、堕天使もいつか天界に帰る望みを捨てていないと言ったのは彼だったっけ……。

「正直に言うと、少し誘惑されました」

 と私は言った。

 悪霊ブニが裏切り者と呼んだように、吸血鬼が闇の眷属なら、それらとつきあうどころか血まで与えたと知られれば、よくて破門はまぬがれないだろう。火刑が廃止されているのが唯一の慰めといえるかもしれない。

「神父だからといって聖人ではないし、いつもいつも願ったとおりに人の助けになれるわけじゃない――今みたいにすべてがめんどうになって投げ出してしまいたいと思うことだってあるんです」

 でも二度目はない、と思う。もう一度逃げたらそれこそ永遠に逃げ続けなければならなくなってしまう。

「でもそのたびに、自分に残されたもののことを考えるんです。それはべつにディーンや教会の人たちといったものだけではなくて……。そうすると、あと少し踏みとどまろうと思うんですよ。あなたが今のようになるまでには、得たものもあったでしょうが、失ったもののほうが多かったのではないかと思うんです。あやういバランスなんですよ、いつも。――だからそのことに気づかせてくれたあなたには感謝していますし、なおのこと、それを失うわけにはいかないんです」

 ノーラン氏の顔になんともいえない表情がうかんだ――ほうけたような、というか、それこそ幽霊でも見たような。

 しばらくの沈黙のあと、放心状態から回復したらしい氏は口をひらいた。

「……今のは『ヨハネ伝』を暗唱されるより強力な祓魔エクソシズムだったな」

「そうですね、あなたのためにも祈っていますよ。ビールをもう一本いただけますか」

 ノーラン氏は口がつけられないままぬるくなった自分のビールと、三分の一ほど残っていたもう一本を捨て、冷蔵庫から新しいのを一本取り出し、ついでに八つ切にしたライムまで添えてくれた。

「こういうことをどこで覚えたんですか」

 私は妙におかしくなって尋ねた。

「たかだかあの程度の量で酔ったわけじゃないだろうね? どうして小娘みたいに笑っているんだ。――学生の相手をしていれば、知るつもりがなくても覚えるさ。神父、あなたは少なくとも飲酒可能な年齢に見えるが違うのか?」

「さすがにそこまで若く見られたことはありませんよ。それに、あなたの生きていた時代には、法的に飲酒を許可する必要なんてなかったでしょう?」

「それはそうだが――とんだ意趣返しだな」六百歳の吸血鬼は憮然としてつぶやいた。

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