第21話 葉山風太③

 カームダウン症候群。病魔を寄せつけないはずのナノンが唯一避けられない心の症候だ。


 原因は不明だが、長く生きれば生きるほど顕著に出てくるその症状は、ナノンから感情の起伏を奪い去ってしまう。


 ある者はそれを「感情の希薄化」と呼び、またある者は「究極の成熟」と見なし、そうした現象を積極的に症候とは認めなかった。


 ヒュームの高齢者が身体的機能の低下によって暑さや寒さを感じにくくなるように、ナノンは心的受容器官の感度が鈍くなっていくのではないか、と仮説を立てた学者もいる。とにかく、ナノンとして生き続けるにあたってつきまとうこの病魔が、風太の運命を大きく変えてしまった。


 今から18年前、ひとりの男の子がナノン研究者の夫婦のもとに生まれた。ナノンは生まれたときからナノンなわけではなく、生後すぐにチェインという医療用ナノマシンを体に注入されることでナノンとなる。


 風太ふうたもナノンの家系に生まれた常で、産声を上げてすぐにチェインを取り入れた。


「お前の本当の両親はな、ナノン社会で問題になっているカームダウン症候群、それをケアするための研究を行なっていたんだ」


 500年という長い歳月を生きる途中、植物のように感情の起伏がなくなってしまう。それは危険な兆候だ。人間らしさが消え、ただ合理的に動く生身のアンドロイドに成り果てた先には、多様性を失い均一化した社会が待っている。


 ある学者集団が主張したそうした終末論は、多くのナノンを納得させるだけの倫理的示唆に富んでいた。


 そんな未来は望むべくもなく、あくまで健康的で人間らしい生活を送りたい。ナノン化の根底にある技術思想は、「人間として幸福であること」なのだ。その幸福を守るために生まれた技術のひとつに、感情再建プログラムというものがある。


 脳に極小のデバイスチップを埋め込み感情の起伏を再現することで、喜怒哀楽を表現し、また感じるというものだ。しかし希薄化回避の主流ではあるのだが、人道的な理由から忌避するナノンは多い。


 主観の数だけ幸福の形があり、そこに至る過程も様々だということだ。そのためいまだ多種多様なアプローチで感情の希薄化回避は研究され続けている。


「だがな、その研究でも踏み入れてはいけない領域ってものがある。それはナノンからチェインの機能を取り除くことだ」


 ナノンにとって一度取り込んだチェインは、白血球や赤血球と同じ、なくてはならない細胞のひとつになる。その機能をなくすということはナノンに死を与えることと同義で、そのためチェインの機能は強固な法で守られ、体にとって有益な機能を加えることこそ許されるものの、機能を奪うという行為は殺人と同等の罪に問われるのだ。


「どこでどう狂ったかは知らないけどな、お前の両親はその禁忌を犯してしまった。ひとりのナノンからチェインの機能を消し去ってしまったんだ」


 科学者としての強い知的探究心がそうさせたのか、ナノンの命題を研究する只中で風太の両親はその禁忌に取り憑かれていった。


 チェインの機能をなくせば、ナノンはヒュームに戻れるのだろうか。もし戻れるとして、その際の身体的・精神的影響の程度はどれほどのものか。様々な未知がその先には待ち構えていた。


「そのナノンていうのが風太、お前だ。お前の両親は実の子を使って人体実験を行なったんだ」


 被験者なんて得られるはずのない禁じられた研究に、彼らは5歳になったばかりの風太を利用した。チェインにかけられた堅牢な法的プロテクトをすべて除去し、風太の体内で働く人工細胞を死滅させてしまったのだ。


「元々公安にマークされてたんだろうな。マッドサイエンティストたちは捕まり、研究室には死体がひとつ残された。でも奇跡って起きるもんなんだな」


 役場で死亡届が受理され、いざ検死解剖だという段階になって、風太は静かに息を吹き返したのだ。


 体内にとどまったチェインの残骸が主人の命を必死に繋いだのか、はたまた神の気まぐれか。原因はいまだ不明だが、とにかく風太は生き返ったのだ。


「お前の父親の兄、お前にとっては叔父だな。それが伝蔵でんぞうさんだよ。脳死状態のお前を引き取ったんだ。実の親から玩具のように扱われたお前が哀れだったんだろう。伝蔵さん、病院には入れずに自宅でお前を看るって聞かなくてな」


 意識の戻らぬまま颯太は引き取られ、村の診療医、たちばなが定期的に訪問診療しながら伝蔵が身の回りの世話をする、そんな空白の3年間を白狩背で過ごしたのだった。

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