007


 こっくりさんの事件に巻き込まれてから数時間ほどが経過したらしい。

 らしいというのも、俺の記憶は雪崩込んできた救急隊員によって病院に担ぎ込まれ、手術室に押し込められ、麻酔をかけられたところで意識が途切れたからだ。

 そうして次に意識を取り戻したのはついさっき。

 自分が寝かされている真っ白いベッドにはぽかぽかと陽気な温度が差し込んできて、あの夜のことは夢だったんじゃないかと思ってしまう。

 だが、肩口に残るじわじわとした鈍痛があれは夢でも幻でもなかったんだということを教えてくれた。

 しんと静まり返った病室はなんだか寂しくて、誰か居ないかを確認しようとゆっくりと身体を起こす。

 すると病室のドアががらがらと音を立てて開いた。


「仄? 仄、目を覚ましたのね?!」

「母さん……?」


 病室に入ってきたのは母だった。

 母は俺を見るなりベッドに駆け寄ってきて、瞳にうるうると涙を溜めながら俺の頭をそっと抱きしめる。


「もう、心配したのよ……!」


 ふいと見上げると彼女の目の下には薄っすらと隈ができていて、少しやつれているように見えた。

 こんなに弱っている母を見るのは初めてで……恥ずかしさのあまり母を振り払おうとした手をそっと元に戻す。


「ごめん、母さん」

「いいの、いいのよ。無事でよかった……!」


 どくどくと母の心臓の音が聞こえる。

 少しの間、どこか安心するその音を聞いていると、やがて母は俺の髪を撫でてからそっと離れていった。


「傷はまだ痛むの?」


 不安そうな母の視線の先には、ぐずぐずにされた右肩。

 包帯で覆われてはいるけれど昨日うっかり見てしまったあの傷口がフラッシュバックして、痛みが数割増したような気がした。


「……まだちょっとだけ」


 ちょっとだけ、なんてやせ我慢だ。

 本当はめちゃくちゃ痛い。

 この世にこんな痛みがあってたまるかってぐらい痛い。

 けど、それを言ったところで母を困らせるだけだから飲み込んだ。


「そう。無理しちゃダメよ。私は一回家に帰るわね。暫く入院になるそうだから着替えとか持ってくるわ」

「ん、さんきゅ」


 少しだけ笑顔を浮かべた母がゆっくりと病室を出ていくと、室内は再びしんと静まり返る。

 今俺が寝かされているのは個室なので時折病室の前を歩いているらしい誰かの足音だけが聞こえてちょっとだけ寂しい。

 そういえば、暁さんはあの後どうしたんだろう。

 俺はさっさと救急車に運び込まれてしまったから彼女があの後どうしたのか全然知らないんだよな。

 無事に家に帰ってるといいけど。

 そういえば彼女、どこに住んでいるんだろう。

 ああ、だめだ。

 一つ知るともっと彼女のことを知りたくなる。


「仄ッ!!!!」


 脳裏に白い彼女のことを思い浮かべていた俺は、突然病室に飛び込んできた悲鳴にも似たその声にびくりと肩を揺らした。

 病室の入り口で息を切らしながらぼろぼろと大粒の涙を零している縁と目が合う。


「ゆ、縁?」


 縁が号泣しているところを見るのなんて小学生以来で驚いていると彼女はつかつかとベッド脇に歩いてきて……俺の腰にしがみついた。


「仄っ、仄ぁ……っ! よかった、生きてる……生きてる……!」


 わんわんと泣きじゃくる縁。

 そういえば昨日の夜、彼女の静止を振り切って学校に行ったことを思い出した。

 縁のことだ、きっと自分を責めただろう。


「……えと、ごめん、縁」


 そう零すと彼女はばっと顔を上げてこちらを睨んだ。


「何がごめんだよ、この馬鹿っ! ホンッッット心配したんだからね! 夜中になっても仄が帰ってこないっておばさんから連絡があって……! 学校行ったら救急車と警察がいっぱいいて……! う、うぅう……」


 すごい剣幕でまくし立てた彼女の目からは一度怒りで引っ込んだらしい涙が再び零れ落ちて、シーツにシミを作る。

 よく見ると彼女の目の下には母と同じく隈が出来ていた。


「あたしが……あたしが止めなかったせいで、仄が死んだらどうしようって……っ!」


 涙でぐしゃぐしゃになった縁の頬を病衣で拭ってやり、そっと頭を撫でる。

 いつもは丁寧に結ばれている髪も今日は下ろしたままだった。


「ごめんな、縁」

「ん。反省してんなら、よし」


 改めて謝罪を告げると彼女は目尻に残っていた涙を服の裾で拭い、少しだけ微笑む。


「さて。そんじゃしょーがないから、今日は縁ちゃんが一日仄くんの面倒を見てあげます」

「……別に右手動かしづらいだけで日常生活に支障はないんだけど」

「怪我人は黙ってて!」

「アッハイ」


 なにやらうきうきと楽しそうな縁はサイドテーブルに置いてあった林檎を手に取った。


「まずは林檎を剥いてきてあげましょうねー。仄きゅん、何の形がいい? うさぎさん? それともねこさん? ライオンさんがいいかなー?」


 こいつ。

 さっきまであんなにしおらしかったのに。


「…………ドラゴン」

「ドラゴンね! よーし任せなさい!」

「できんの?!」


 切ってくるね―!と元気よく病室を飛び出していった縁を見送った後、肩口を庇いながらそっとベッドに倒れる。


「っはぁ……」


 色んなことがあった。

 暁さんのこととか、怪異のこととか、今まで知らなかったことに急に触れてこんな大怪我まで負って。

 結構な代償を払ってやっと暁さんに近付けたと思ったのに、本人にはもう近付くなと言われたし。

 それにしてもあの言葉は一体どういう意味だったんだろう。

 単純にめちゃくちゃ俺のことが嫌いっていう線も考えたけど……それはまあ、最後の最後に考えよう。

 勝手に期待しておいてなんだけど少しは仲良くなれたと思ったから拒絶されたのがショックすぎて……。

 一体どうしたら俺の片想いは成就するんだ。


「お待たせー!」

「ああ、おかえり」


 うじうじ悩んでいたら、縁が病室に戻ってきた。

 彼女の手には林檎が…………おっと、マジか。

 本当に林檎でドラゴン作ってるよコイツ。

 しかもまあ出来たとしても顔だけだろうと思いきや全身ちゃんと作ってあって、なんというか、器用通り越して怖くなった。


「はい、召し上がれ!」


 召し上がれって。

 ドラゴンを?

 この完成度のもの口に入れるの申し訳ないんだけど。

 どっかに飾っときたいぐらいだ。


「えと……あとで食べるよ、とりあえず」


 悩んだ末にとりあえずサイドテーブルに置いておくことにした。

 すぐ食べないと怒るだろうかと縁の顔を見上げたが、彼女は特に気にする様子もなくベッド脇に置いてあったパイプ椅子に腰掛ける。


「それで、何があったの?」

「え?」

「昨日」

「ああ……えっと」


 一瞬、本当のことを話してしまいそうになった。

 が、言葉を飲み込んで、昨日暁さんと合わせたあの口裏をそのまま説明する。


「つまり、学校行ったらたまたまあの転校生ちゃんも忘れ物取りに来てて、二人揃って学校に居た不審者に襲われた、ってこと?」

「う、うん……」


 俺が頷くと縁は怪訝そうに眉を顰めた。


「……仄、あたしになんか隠してるでしょ」

「え?!」

「自分で気付いてないかもしれないけど、アンタ、嘘つく時ぎゅって両手握りしめるもん」

「そうなの?!」


 もっと早く教えてくれよ。

 じゃあなに?

 今まで縁に吐いた嘘、全部筒抜けだったってこと?

 ほとんど嘘なんて吐いたことないけど。


「あたしには話せないこと?」


 真剣な眼差しにまっすぐ見つめられて動けなくなる。

 俺が言葉に詰まっていると、縁は小さく溜息を零した。


「わかった。聞かない」

「え? いいのか?」

「どうせ話してくれないんでしょ?」


 俺がまたぐっと口を噤んだのをみて彼女は困ったように笑う。


「仄が手を握って嘘を吐くのってね、誰かを守ろうとしてる時なんだよ。……だから、聞かない」

「縁……」

「そ、の、か、わ、り!」

「?」


 元気よく立ち上がった彼女は俺にゆっくりと顔を近づけてきて……。


「いっ?!」


 俺のほっぺたを、思いっきりつまんだ。

 縁はそのまま俺のほっぺを引っ張り回す。


「たーてたーて、よーこよーこ、まーるかいてちょんっ」


 うわ懐かしい。

 昔流行ったよなぁ……って今それどころじゃねえ!

 痛い!

 めっちゃ痛い!


「にゃにすっ……ひょ、はなひぇって!」

「あははー。変な顔ー」

「てンめぇっ」


 あまりの痛みに、縁の手から逃れようと身を捩る。

 瞬間、彼女の顔はくしゃりと歪んだ。

 ゆっくりと彼女の手が頬から離れていく。


「もう、危ないことしないでよね」


 また泣きそうになっている彼女の言葉にゆっくりと頷きながら、俺はぎゅうと手を握りしめた。

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