邂逅の怪

005


「はー、食べた食べたー」


 腹部を撫でながら縁が満足そうにそう零す。

 一方俺はと言うと予想よりスッカスカになってしまったお財布を手に、泣くのを必死に我慢していた。

 ゲーセンで散々遊びまくった後、俺たちは約束していたファミレスに入ったのだが、なんと縁は食いたいもんを見境なく全部頼みやがったのだ。

 いくら学生向けの安いファミレスとは言え、テーブルいっぱいの料理を頼んでしまえばそれなりに値段はするわけで。

 おまけにデザートまでしっかり頼んだもんだから貰ったばっかりのお小遣いは雀の涙ほどしか残っていない。


「うぅ……俺が、じゃんけん弱いばっかりに……」

「まあまあ仄、そう泣くなってー。次遊びに行く時は私が奢ってやるからさっ」


 ぽんぽんと俺の背中を叩く縁に、いつかステーキを奢らせてやると心に固く誓いつつ、財布をそっと鞄にしまった。

 その時、やけに鞄が軽いことに気が付く。


「あれ?」

「仄、どしたの?」

「やべ、数学の教科書忘れてきた」


 そう言いながら顔をあげると、縁は、なんだ、と言いたげに小さく息を吐いた。


「そんなこと? 仄、いっつも置き勉してるじゃん」

「いやそうだけど……確か明日までの宿題出てたよな」


 俺の言葉に彼女は、そういえば、と手を叩く。


「教科書見ながらやりたいなら貸そうか?」

「そうじゃなくて。数学の教科書に宿題のプリント挟まってるんだよ」

「……ああ、そゆこと」


 それはやばいわ、と縁が呟いたことで、徐々に焦りが湧き上がってきた。


「うちのクラスの数学担当、プリント提出でほぼ成績決めてるもんね。で、仄、どうすんの?」

「どうするもなにも、取りに戻るに決まってるだろ」

「え、今から?! もう9時過ぎだよ? 鍵が開いてるかもわかんないのに……」


 慌てて通学路を引き返そうとした俺の腕を縁が掴む。

 振り向くと不安そうにした彼女と目が合った。


「ほら、コンビニ行ってさ、私のプリントをコピーしたらいいじゃん」

「前に同じことやって怒られてる奴いただろ。紙の質感違いすぎてバレるんだよ」

「むぅ……」


 縁の気遣いはありがたい。

 が、残念ながら数学担任は融通が利くような性格ではないので、ちゃんと配られたプリントを提出しなければいけないのだ。

 ……理不尽だって思うよな、俺もそう思うよ。


「でも今から一人で戻るなんて危ないよ。もう暗いのに……あのさ、私も一緒に、」

「ダメだ」

「な、なんでっ」


 不満そうな顔をしている縁の頭を撫でると、彼女はぷく、と頬を膨らませた。


「こんな時間までお前のこと連れ回してたら親父さんに怒られちゃうよ。もう家はすぐそこなんだし、縁は先に帰ってな」

「でも……」

「俺と違ってお前は女の子なんだから。万が一何かあったら困るだろ。な?」


 できるかぎり穏やかに説得したつもりだが、縁の頬はどんどん膨らんでいく。

 ……サイズ感も相まってハムスターみたいだ。


「仄になんかあったら私が困るんだけど」

「はは。大丈夫だって。俺男だしさ」

「男だからって何もないとは限らないじゃん!」

「ったく、相変わらずお前は心配性だな。学校戻るだけなんだから大丈夫だってば。じゃ、また明日」


 俺の名を呼ぶ縁の声を背に、足早に通学路を逆走する。

 じっとりと湿気が肌に吸い付いてべたべたとした汗が頬を伝った。 

 数十分歩いてやっと辿り着いた夜の学校はどこか陰湿な空気を纏っている。

 背筋をぞっとした何かが走って、思わず二の腕を擦った。

 とりあえず正面玄関は開いていないだろうから教職員入り口がある方へ回って、来客用のインターホンを押してみる。

 遠くで呼び出し音が鳴ってるのが聞こえるけど……応答はなし。 

 警備員ぐらいはいるだろうと踏んでいたがどうやら当てが外れたようだ。

 とはいえ誰も居ないのなら学校には入れないだろうし、諦めて家に帰ろうとした、その時だった。


「っ?!」


 ぎぃ、と蝶番が軋む音がする。

 驚きながら振り向くと、強く風が吹いているわけでもないのに校舎のドアがゆらゆらと開閉を繰り返しているのが見えた。

 気味の悪い光景に思わず心臓が跳ねる。

 しかし、俺は何故かその場から立ち去ることが出来なくて……吸い寄せられるように、恐る恐る校舎の中に足を踏み入れた。

 常夜灯しか点いていない校舎はいやにひんやりと寒く、俺は思わず生唾を飲み込んだ。


「……さっと教科書回収して、さっと帰ろう」


 自分自身を奮い立たせるようにそう呟き、薄暗い廊下をスマホのライトを頼りに進む。

 自分の足音だけが周囲に響き渡って、今この空間には自分しかいないのだという事実が自然と歩くスピードを早めた。


「やっと着いた……」


 廊下、なんかいつもより長かったような……。

 気のせいだろうけど。

 そんなことを考えながら、俺は教室のドアを開けた。

 瞬間、つんと、嗅いだことのない生臭い匂いが鼻孔を突き上げる。


「んぐ?!」


 思わず口元を覆って呼吸を止めた。

 なんだ、この匂い?

 生臭さと鉄臭さが混じったような……とにかく、嫌な匂いだ。

 何が起こっているのかわからないまま、教科書が入っているはずの自分の机へと向かう。

 瞬間、視界の端に広がったのは、水たまり。


「ん、床濡れてる?」


 なんとはなしに、その水たまりにスマホのライトを当てたことを後悔した。

 教室の床に広がっていたのは真っ赤な血だまりだった。

 そしてその血溜まりの中央には、


「ひっ?!」


 まるで物のように人の体が転がっている。

 それも一人ではなく三人分の体。

 真っ白く、生気の籠もっていないその瞳はどれも苦悩に歪み、涙を流していた。

 そして血溜まりのなか、くしゃくしゃになった紙と十円玉がぷかぷかと浮いている。

 その光景に膝から力が抜けて思わず教室の床に尻餅をついた。

 胃が痙攣して、中身がせり上がってきそうになるのを必死に抑える。


「なん、だよ! なんなんだよ、これ! とりあえず、警察に……っ」


 震える手でスマホで警察に電話をかけようとした瞬間。

 背後に嫌な予感を感じて、恐る恐る振り向いた。

 そこには何もいないように見えたが……断言できる。

 絶対に、そこに"何か"がいる。


「……っ」


 ぞわりと寒気を感じた俺は足を縺れさせながらも教室を飛び出した。

 逃げる俺の背後をぺたぺたと"何か"の足音がついてくる。

 怖くて振り向けないまま、ひたすら走った。

 そうして命からがら正面玄関にたどり着いたというのに、俺を待っていたのは絶望だった。

 玄関のドアが、ぴったりと閉まったままびくともしない。

 さっきは風が吹かずともぎしぎしと揺れていたのに。


「なんっで、開かないんだよ……ッ!」


 鍵は開いているのに取手を引いても押してもやっぱりドアはうんともすんともガタとも言わなかった。

 本来ならドアが開かないとわかった時点で他の出口を探すべきだったかもしれないが、このときの俺は人の死体を見てしまった不快感と何かが自分を追いかけているという恐怖に苛まれ、冷静な判断ができてなかったんだ。

 だから……足音が、すぐ後ろまで迫ってきていたことに、気が付かなかった。


「つーかまーえた」


 耳元でそう囁く声がして、次の瞬間、右肩に気を失ってしまいそうな痛みが走る。


「っひぐ、ッ?!」


 血が、滴り落ちていく。

 ドアのガラス越しに、俺の背後で微笑む、少し古いデザインの制服を着た少女と目が合った。


「う、うわぁああっ!」


 情けなく悲鳴を上げながら駆け出す。

 痛い、痛い痛い痛い、痛い!

 なんだこれ、何が起こってるんだよ、これ?!

 背後からは相変わらずぺたぺたと足音が俺を追いかけてきていて、ただただそれから逃げることしか出来ない。

 じゅくじゅくと痛む肩にそっと触れると、手のひらに血がべっとりとついた。

 時折霞む視界の中、なんとかこの場から逃げ出す術はないか必死に考えたが、うまく考えがまとまらない。

 どうしたらいいかわからない。

 っていうかこれ、俺とあの子の胸キュン恋愛ストーリーじゃなかったのかよこれ!

 なんで俺は五話目でいきなり死の危険に直面してんだ?!

 こちとら初めての鬼ごっこは初恋のあの子と夕暮れの浜辺でって決めてたんだぞ!

 ……と叫ぶことは出来ず、体力の限界を感じ取った俺は咄嗟に適当な教室に入り、掃除用具ロッカーに身を隠した。

 中で小さく縮こまりながら口に手を当てて必死に呼吸を整える。

 心臓がどくどくと暴れまわって痛い。


「なんで、こんなことに」


 ただ忘れ物を取りに来ただけなのに俺が何したっていうんだよ。

 数学嫌いになりそう。

 俺を追いかけていた足音はと言うと、遠くから少しずつ迫ってきているようだった。

 暗闇で息をひそめるのがこんなに恐ろしいとは。

 ホラーゲームとかホラー映画とかではよくあるシーンだけど、ここで隠れてるだけで心臓止まりそう。


「もーいいかーい」


 ひゅ、と喉が鳴る。

 声が……あの声が、すぐ近くで聞こえる。

 教室内に、いる。


「まぁーだだよぉー」


 まるで楽しんでいるようなその声色に、冷や汗が頬を伝う。

 祈るような気持ちで息を殺すしかできずにいると、俺の希望を打ち消すように、ゆっくりと、ロッカーが開いた。


「みぃつけたぁ」


 少女の気味悪い笑みと、ぎらりと光る包丁が眼前に飛び込んでくる。

 窓の外から差し込んでいる優しい月明かりはまるで俺の死に際をせせら笑っているようで……俺は怯えて目を閉じることすらできず、迫りくるきっさきをただ、見つめていた。

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