第133話.切札ト禁忌

海戦から数日。

作戦司令部に召集された私は、再び阿蘇大将と顔を合わせる事となった。今回は皆が参加する会議のようで、卓上を囲むように並べられた木椅子に軍服を着た男たちが所狭しと並んでいた。


「拿捕した船からは毒ガス兵器というのは見つからんかったらしい」

「明而海軍の艦隊から逃れた船の中に、それを積んでいるものがあると?」

「可能性はある。載せた船がすでに沈んだとも考えられるが、楽観視するにはあまりに危険だ」


ここで言う毒ガスとは、一時、ルシヤの塹壕地帯で使われたあの兵器だ。

ガスに触れると皮膚はただれ、肺を侵してしまう。それから真っ先に粘膜を破壊するために、目をやられて光を失う者が続出した。

広範囲に急速に広まり、あまりに殺傷力が高い大量破壊兵器。今なお後遺症に苦しむ者が多数いる、悪魔の発明品である。

一度撒かれればしばらくは何者も立ち入る事もできなくなる。

それがもし、もし万が一札幌に持ち込まれたら。民間人を含めて何万人の犠牲者が出るか想像もつかない。


「……しかし、ルシヤはそこまでやるかな」


阿蘇大将がこちらを向いて言った。上官らの手前黙って話を聞いていたが、大将に振られれば応えない訳にはいかない。

もし毒ガスが存在していたとして、あれだけの被害を出す兵器を、民間人で溢れる札幌で使うのかと言う事だ。


「普通であればやりませんね。我々の感覚から言えば、禁忌だ」

「それでもか」


普通などと言うのは、所詮自分のモノサシだ。なんでもする人間なんていくらも見て来た。


「そうですね。戦争というのは、人間を変えてしまう。平穏な世であれば考えもしなかったことが平然と行われる事もある」


青島を出たルシヤの軍艦。

その中に毒ガスらしきものが積み込まれたという情報が清国を経由して我々に届いていた。

しかし。我々の勝利で海戦が終わって、彼奴等の船を調べてみても、それらしきものは影も形もない。どの捕虜(ほりょ)に問うてみても、知らぬ存ぜぬである。


「毒ガス毒ガスと言うが、本当にそんなに強力な兵器なのか」


隣の男が横から口を挟んだ。

以前大打撃を受けたあの化学兵器だが、直接見ていない者達にはイマイチ脅威が伝わっていないようだ。


「私はこの目で見ました。そのガスが広く土地を侵すのも、人が黄色の雲に包まれて負傷していくのも」

「見たと言ってもな、煙にまかれれば目もやられる。程度の問題であるともいえるが」

「私の言葉に信用がなければ、野戦病院を実際に覗いてみれば良い。負傷した者たちが今でも苦しんでいる姿が見られるだろう」

「信用ならぬと言っているわけではない。いくらなんでも一つの兵器で万人が負傷するなどと。それほどの威力があるとは、にわかに信じられんだけで……」


一人の男と私が言葉を交わしているところを、阿蘇大将が制した。


「報告は受けている。毒ガス兵器というのはルシヤに確かに存在するし、中尉言うように想像を絶する威力がある。最悪の場合も想定して動かねばならない」


大将は、椅子に掛け直して一呼吸置いて続けた。


「とは言っても。石狩湾から、留萌沖合にかけて哨戒。津軽海峡には機雷による封鎖を図っているらしいが、成果は無いようだ」

「どこかですでに上陸を許しているのかも。悪い方向で想定をしておいた方が良いかもしれません」


船底に穴が開いて人知れず沈没でもしてくれていれば良いが、そんなことを期待していても始まらない。悪い目が出たとしても、対応できるようにすることが肝心だ。


「ふん。どちらにせよ、敵は間近まで迫っている。この最終防衛線を抜かれれば、我々の敗北だ。それは変わらない、ここは絶対に死守する」



......



ルシヤ軍、作戦司令部。

ソコロフ少将は焦りの中にいた。

黄海の海戦で、ルシヤ帝国の艦隊が日本の艦隊に破られたのだ。

これは何を意味しているのか、一つの戦いで敗北を喫したというのが問題なのではない。


今後、制海権は日本国側に大きく傾く事となる。我々はこの雑居地において本国からの補給が細くなる、もしくは考えたくもない事だが、それが断たれる可能性すら出てきたということである。

そして、もっとも悪い事に国内の機運。

つまりルシヤ本国での情勢が、極東から手を引いて、ヨーロッパに注力すべきだという流れになって来たことだ。

あくまで日本討つべしと、今回よりさらに大掛かりな艦隊を、バルト海から引っ張ってくる事などは、もはや期待できそうにない。


ソコロフ将軍率いるルシヤ軍は、日本国の妨害工作を受けながらも、いくつもの日本の堡塁を占拠し、防御拠点を踏破して来た。

そして目前。おそらく天下分けめの最終防衛ラインであろう塹壕地帯を目の前にして。

兵数も、銃の数も、精度も、国力も。

全て日本国を上回っておきながら、この重大局面で、戦争に勝てないという事実が濃厚に見えてきたのだ。


「将軍閣下!」


慌てて飛び込んだ士官に、ぎろりと鋭い視線を送って、ソコロフ少将は「なんだ」と問うた。


「本国より入電あり。日本と講和会議が行われる事が決定したとのことです」

「講和だと……!」


将軍は強く奥歯を噛んだ。

この状況下で講和するというのは事実上、彼のソコロフ将軍の失態を意味する。

どのような条件になるかはわからないが、雑居地における権利というものは、日本に手渡す事となるだろう。

そうなれば、極東での南下政策に邁進したソコロフ将軍は、まず左遷。一生出世からは無縁となる。悪ければ責任を追求され、命すら危うい。


「あの猿どもが、ここまで。ここまで噛み付いてくるとはな。予想外でしかなかったわ」


立ち上がって拳を握りしめたまま、将軍は言った。


「……こうなれば使うか、毒ガスを。海軍から届いたはずだ」

「あ、あれは。以前塹壕地帯で使用した際には味方の兵まで犠牲になりました。我々に制御できる代物ではありません。本当に使用されるのですか」


その言葉に、近くにいた側近の男がすぐに咎める。

彼は以前の塹壕線の最中、化学兵器の威力の実験報告を見たのだ。結果は威力絶大。日本の部隊を壊滅させて、その後数週間にわたって周辺の土地を地獄に変えることに成功した。

しかし、殺傷能力は一級だが制御が効かない。風向きによってガスが流れるので、使用にあたったルシヤの技師と兵隊が多数犠牲となった。

ルシヤからしても、毒ガスは優秀な新兵器というよりは、敵味方構わず呪いを撒く悪魔の兵器であった。


「兵が千人死んでも、日本人を万人殺せればそれで良い。敵根拠地を滅ぼして、講和も何も全てをひっくり返す」

「……!」


札幌にそれを持ち込む事が出来れば、どれだけの人間が死ぬだろうか。一度それが発露すれば、人は住めなくなり、侵された土地だけが残る。

そうなれば講和も何もなくなる。講和会議は流れ、戦争はいよいよ続くだろう。


「しかし、味方にも甚大な被害がでます」

「いや、やる。全軍で総攻撃をかけるのだ。何人死んでも構わん。敵防衛網を突き抜けて、毒ガス部隊を札幌に入れろ。講和会議の前にだ!」


絶望を前にした人間に、たった一つの希望が与えられたらどうなるだろう。溺れた人は藁をも掴む。形振り構わず一つの希望を目指すだろう。

進退窮まったソコロフ将軍は、それを命令した。新兵器による札幌に住む人間全ての殲滅を。彼の目は血走り、もはやまともではない。


「そうだ、結果さえ出してしまえば何があろうと後の祭りだ。必要なのは結果だ。日本人を駆逐し、敵の根拠地を滅亡させたという結果だ」


将軍の表情を見た側近の男は、震える声で言う。


「……歴史に残るかもしれませんね」

「良きも悪きも、歴史など後の世が決める事。今いくら批判を受けようが、敵も味方も何人殺そうとも、この雑居地を征服すれば、我々は祖国の英雄となるだろう」

「そこまでのお考えが……」

「お前は俺を止めるかね」


ここで、はじめて将軍は男に問うた。

こうだと決めたら、これまで他の者の意見など聞く耳を持たなかったソコロフが見せた、わずかな変化だ。


「私は閣下の判断に従います。たしかに、強く誇り高い帝国のためには他に手はない」

「兵を殺すことになるな」

「我々の正しさが、いつか本国でもわかって貰える時が来ます。今はなんとしても日本を討たなければ、ルシヤの栄光に影を落としてしまう」


眼光鋭く、ソコロフ将軍は命令を発した。


「第一次総攻撃の準備をしろ。この大地の猿どもを一人残らず殺すのだ」

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