第103話.岩棚
背中に女の寝息を感じる。意識を手放した身体は、グッと重くなった気がした。
ありったけの清潔な布や水で、出来る限りの手当てはした。私の左目も、ルシヤの女兵士……ルフィナ・ソコロワの足も。今後どうなるかは、当人の生命力次第だろう。
しかし、鷹とは。
いや、呼び方などどうでも良いのだ。まだやってもいないことを、未来にこうなるからお前を殺すなどと、暴論もいいところである。
彼女が見た未来はそうだったのだろうが、こちらとしては何とも言い難い。
ぐっしょりと濡れた半長靴が、良い感じに不快感を増幅して、歩きづらさを演出している。滑落のせいで現在位置すら定かではない、絶望感がゆっくりと首に手をかけている。
今は滑落した地点から離れて、頂上に向けて登っている最中だ。闇雲に麓を目指して下っても良いが、この地形だと崖に出くわす可能性も高い。一人で五体満足ならばなんとでもなるが、手傷を負っている上、荷物を抱えている状態では迂闊な事は出来ない。
山頂に向けて登れば、現在位置の特定も用意になるだろう。自分がどこに居るのかわからないというのは恐怖でしかない。
空は薄暗く、これからの事を暗示しているかのようだ。暫く無言で登り続けていると、雨が降ってきた。
霧のような雨だ。
じっとりと身体が濡れる。水分を含んだ軍服が、体温を奪っていく。
まずい、まずいな。
頭のどこかでそう思いながらも、白いもやがかかったように考えがはっきりしない。足が動くから前に進む。
ぴしゃり。
頭上の木の葉に溜まった雨が、大きな雨粒となって顔に落ちた。同時にハッとする。
今目覚めたような、動きながらも寝ていたような感覚。身体が冷え切って思考が停止しているのだ。
「駄目だ、せめて雨が止むまではどこかで休息しないと持たん。雨宿りだ」
自分に言い聞かせるように、声に出して言った。自分自身に命令する事で必然性を持たせる意味もある。
雨が避けられるところへと思って付近を見回すと、ちょうど岩棚を見つけた。ひさしのようにせり出した岩が、雨を遮ってくれている。洞穴というほど奥に深くは無いが、一時しのぎには十分だろう。
天の助けと言わんばかりの岩棚の影へ、ルフィナ・ソコロワと共に転がり込んだ。未だ眠っている彼女。その脈を見て、生きている事を確認すると奥の方へ仰向けに寝かせた。
その後、一息つく間もなく火を熾す事にする。焚き火によって敵に位置が露見する恐れもあるが、背に腹はかえられぬ。湿った薪に四苦八苦しながらも、火の確保に成功した。
岩肌が頼りない柑子色に照らされた。火の光と音に、身体の奥底から生きる活力が湧いてくる。
湿った衣服と半長靴を乾かしながら、湯を沸かす事にする。久しぶりに足の裏が乾かせると思うと嬉しくてたまらない。
しばらくそうしていると、女が目を覚ました。仰向けのまま、顔をこちらに向けている。はたと目が合う。
「気がついたか」
『ここは、どこだ』
「滑落地点からはそう離れてはいない。今は雨に降られて雨宿りの最中だ」
『そうか』
彼女は、ため息のような大きな息を一つ。ごろりと反対側に顔を向けた。
沸かした白湯を持って近づく。
「上体は起こせるか。白湯を用意した、飲め」
女は黙って言う通りに上体を起こした。足を引く際に顔をしかめていたので、痛みはあるようだ。差し出した両手に白湯のカップを持たせてやる。
「火傷しないようにな」
ジッと、手の中にある白湯の揺らいだ液面を眺めた後、それを口にした。
『……美味い』とぼそりと呟いた。
「もう日も暮れる。今日の所はここで野営になる」
背嚢から乾パンを取り出してそれも差し出す。
「食べられるか?」
『いや、私はー……』
「食べる事ができるのか聞いている。返答は可能か不可能かのどちらだ」
何か言いかけた所を、遮って言った。
『食べられる……とおもう』
「では一枚喫食しろ」
ひとかけの乾パンを細かに震える手のひらに、そっとのせてやった。しっかりと受け取った彼女は、それを黙って食べた。
その夜は、火の番をしながらであったが、疲労も重なりいくらか眠る事が出来た。女の方は傷が痛むのだろう、うつらうつらとはしていたが中々眠れぬ様子であった。
翌日。
昨日よりの雨は降り続き、風も強くなっていた。
昼まで天候の回復を祈って待っていたが、一向に好転しない為に、もう一日この場所で野営する事に決めた。
火を絶やさぬように、なるべく乾いた薪を拾い集め、雨水が貯まるようにカップを並べ置いた。
捕虜とした女とは殆ど会話をする事は無かったが、残り僅かな乾パンを分け与え、白湯を飲ませた。
他人の世話を焼いてみてはいるが、私の健康状態も良くは無い。どうやら熱もありそうだ。
何とか現状維持で保っているような、そういった一日だった。なるべく早く脱出しなければ動けなくなる。
明日は出発しよう、そう思ったのだった。
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