第73話.侵攻
十二月。
浅間中将は未だ退院しておらず、私は札幌で勤務していた。
中将もその部下も優秀であり、彼が軍内で裏切り者と呼称するもの、すなわち今回の事件に関与した者は、ほぼ拘束された。
しかし彼が言うには、末端の将校を捕らえても大した意味はなく、背後にある勢力を潰さねばならないという。
カビの根のように、明而日本の内部に巣食う者達が居る。しかもそれらはカビのように不快な色形をしておらず、見た目は鮮やかで本当に魅力的な姿で現れるのだ。
……
十二月十一日。
私が浅間中将の病室を訪れていた時。それは告げられた。
「浅間中将閣下!報告しますっ……!」
慌てた様子で病室に飛び込むように入ってきた男がそう言った。何事かとそちらの方を見ると、その男と目があった。彼はそれでようやく、私の存在に気がついたようだ。
「少尉、席を外してくれ。中将閣下に緊急の報告である!」
よく見れば陸軍の将校である。随分と急いでいたのか、肩が上下している。
「おい、将校は何があっても慌てて見せてはいかんぞ。君が動揺を見せれば、その背中を見る兵は十倍動揺する。心が揺れれば士気が下がる。急ぐのは胸の内だけにしろ」
そう中将に言われた彼は、真っ直ぐに姿勢を立て直した。
「はい!失礼致しました!」
「そして穂高少尉はここで良い。何だ、報告しろ」
彼は本当に良いのかと、さっと目線をこちらに向けたが、それ以上は何も言わず驚くべき報告を始めた。
「……はい。昨晩、十二月十日夜。ルシヤ軍が国境警戒線を超えて我が領に侵攻。付近を守備している日本軍が、ルシヤ軍より攻撃を受けました」
「来たか。司令部はどうしている」
「北部国境混成旅団の特設二十一聯隊が対応しています。防御に徹し持久戦を行う算段ですが、消耗が想定以上に激しく、司令部の判断で予備の特設二十二聯隊を増援に向かわせております」
中将がざっと、ヒゲを撫でた。
「敵の数と、状況は」
「昨晩接触した部隊の規模は千から二千程度と推測されます。また後方のルシヤの中心都市では、壱万(いちまん)規模の兵力の移動が確認できています」
「千か、その兵力で陣地を攻撃されて押し返すのに難儀したというのか。二十一聯隊は何をやっている」
国境には防御陣地を敷いていた筈だ。塹壕と機関銃からなる防御陣地を。
ルシヤが小銃と突撃だけで攻撃したとなると、かなりの大部隊でなければ突破されぬはずであるが。
「敵は地形と天候を熟知しているようです。現地では二、三日前から降り続いた大雪によって塹壕が雪で埋まり、さらに新たな掩蔽壕を掘ろうとしても、円匙が凍った土地に刺さらずに守備陣地の維持に難航している状況のようです。それに加えて視界も不明瞭であると」
兵には内地から来た、雪に不慣れな者も多数いる。それに対して、ルシヤは雪中戦のプロだ。攻めて来るなら冬。そうは思ってはいたが大雪と共に来るとは。
しかし、それはルシヤ側にとってもかなりのリスクがあるはずだ。ここを凌ぎ切れれば、彼奴等(きゃつら)にも雪と寒さは牙を剥く。
「つけこまれたか」
中将が誰にともなく呟いた。
「はい。大雪による損害に加え、十全な体勢で待ち受ける事が出来ず、思わぬ苦戦を強いられております」
「だが、それはルシヤも同じ条件のはず。ならば勝敗を決するのは兵の練度と頭数だ。こちらからも増援を送り、戦線を支える。司令部に電話を繋げ」
「はい。ご用意があります」
中将は杖を取り、ベットから立ち上がった。一瞬よろめいたが、すぐに直立する。表情には見せないが、やはりまだ完全には傷は癒えていないようだ。
それでも彼は、はっきりとした声で命令した。
「札幌の師団主力(しだんしゅりょく)も北上するぞ。穂高少尉、君にも行ってもらう。まずは家に戻り、明子に挨拶を済ませて来い。その後に部隊に戻れよ」
「はい、了解しました!」
……
札幌からルシヤ領の中心都市セヴェスクという町、そこまでの移動経路は政府道と鉄道が一本、南北に走っているだけである。
大部隊を移動させるならば、ここは避けて通れない。つまり侵攻の経路は予測できる。
しかし、それはこちらの補給路も容易に想定できるということでもある、が。
防衛を考えた場合は、その方がまだ都合が良いだろうか。
ルシヤの侵攻は、必ず止めねばならない。
そうでなければ、私の二つ目の故郷が、永遠に失われてしまうのだから。
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