死香


 地下鉄のホームでは時々、不思議な甘い匂いがするらしい。


「はぁー! 緊張したぁー!」

「大学の研究棟なんて、高校生の私達には中々縁がない場所だもんね」


 友人達二人は、言葉の割には元気な足取りで地下へ続く階段を降っていく。


 用事を果たして足取りが軽くなったというわけではなくて、何なら行きは今よりも跳ねるような足取りで階段を駆け登っていた。根っからのインドア派である私には付いていくだけでも正直しんどい。


「それにしても、由香里ゆかりのお姉ちゃんカッコよかったわぁー! 白衣をバシッと着こなしててさぁー! タバコとブラックコーヒーがまた渋くて似合うのなんのって!」

「いやぁ、あれ、外に出てる時だけだよ? 家だとただのヤニ臭いオッサンっていうかさー」


『ごめん! ちょっと遊びに行けなくなっちゃって!』という由香里の発言が事の始まりだった。


 今日は日曜日。『どこか遊びに〜』といういつもの軽いノリで集まることになっていた私達だったけれど、直前になって由香里からそんな連絡が入った。


 詳しい話を聞くと、大学生で研究室に所属しているお姉ちゃんが、どうしても今日必要な研究資料を自宅に忘れてしまって、大学まで届けに行かなければならなくなったのだという。タイミングが悪いことに両親は揃って出かけていて、宅配に行ける人間は自宅を出る直前だった由香里しかいなかった。


『お姉ちゃんが取りに戻ってくれば良いいじゃん!』と由香里はごねたらしいが、押しが強いお姉ちゃんは『今研究室から離れらんないの! とりあえず任せたからねっ!』と無理やり電話を切ってしまったらしい。


 話を聞いている分には、どう考えても妹に物を頼む態度ではない。それでも由香里が折れたということは、由香里達姉妹の力関係は圧倒的に姉が強いみたいだ。


 というわけで、私達は『じゃあ一緒に行くよ!』という千夏ちなつの発言に乗っかり、電車を乗り継ぎ、隣県の都心にある由香里のお姉ちゃんが在籍している大学まで出掛けていた。


 横暴ではあるものの太っ腹でカッコいい由香里のお姉ちゃんは、予期せず現れた私達二人分の往復電車賃のみならず『どうせならどっかで遊んできなよ』とお小遣いまで奮発してくれた。三人で相談した結果、そのお小遣いは話題のスイーツに化けることになっている。二人の足取りがいつになく軽いのは、きっとその辺りの事情も関係しているのだろう。


 ──それにしても、地下鉄って、なんっていうか、こう……


 中途半端に田舎な地元には地下鉄なんてものは存在していない。地下道でさえ稀だ。電車にも都心にも縁がない私にとって、地下鉄というものはただそれだけで物珍しい。


 ただ、『物珍しい』がポジティブに受け入れられる部類のものであるとは、限らないのだけれども。


 ──まるで、墓穴を降っていくみたいだ。


 深く下へ潜っていく階段は、空気が停滞していて音も響く。時折響くゴーッという地下鉄が走り抜けていく音は、まるで地の底に封印された魔物が唸り声を上げているかのようだった。電車の圧に空気が押し出されているのか、時折フワリと地下から拭き上げてくる風が余計にそんな妄想に拍車をかける。


 ──電車自体も得意じゃないけど……


 地下鉄はさらに苦手だな、と、私は延々と終わらない階段を降りながら顔をしかめる。


 できることなら、進学先には地下鉄を使わずに通学できる学校を選びたい。期せずして進路希望が見つかった瞬間だった。


 ──場所というか、空間的に苦手ってのもあるんだけど……


 こういう澱んだ場所は、良からぬモノが溜まりやすい。そして私は、その良からぬモノと相性が悪い。


 ──己の身を守るための行動は、大切だからね。


 そんなことを思った瞬間、カツンッと自分の足が改札階の床を踏んでいた。長い階段に終点が訪れたことに私はホッと息をつく。


 元気な二人組はもう切符売場に足を進めていた。電車通学の由香里はICカードにチャージが入っているからそのまま改札を通れるけれど、私と千夏は切符組だ。


「ももっち〜、小銭ある? 纏めて買っちゃっていい?」

「うん、よろしく」


 気を使ってくれる千夏に答えながら、私は意識を目の前のことに切り替える。


 その瞬間、フワリと何かの香りが私の鼻先をかすめた。


「?」


 まるで強い香水を纏った人とすれ違ったかのような匂いの立ち昇り方だった。だが主に大学生が使っているというこの駅は、日曜日の中途半端な時間帯であるせいかどこにも人影は見えない。もちろん隣を通り過ぎた相手もいない。


 ──でも、じゃあ、何の……?


 甘い、香り。


 でも、香水や食べ物が振りまくような、しつこい不快な匂いではなかった。


 ずっとかいでいたくなるような、まるで花のような……


「ももっち?」


 考え込んでいた私は、隣から響いた声にハッと我に返った。反射的に声の方を振り返れば、二人分の切符を手にした千夏と定期入れを手にした由香里が首を傾げている。


「どしたの? そんなヘンなトコで固まって」

「何かあった?」

「え、あ……」


 私はもう一度スンスンッと周囲の匂いをかいでみた。だがもう、あの不思議と心地よい甘い香りは感じられない。


 ──気のせいだった?


「あ、ごめん。何かさ、急に甘い匂いがしたような気がして……」

「甘い匂い?」

「えー、そんなんしないけどなぁ〜?」


 案の定、首を傾げた二人はスンスンッと鼻を鳴らして不思議そうな表情を浮かべる。やはり今、二人にもあの不思議な匂いは感じ取れないらしい。


「あー、気がしただけ、なのかも」

「駅の入口前にドーナッツ屋さんあったじゃん? 空気の流れで一瞬その匂いが迷い込んできたんじゃない?」

「そうかも」


 私のぎこちない誤魔化しに二人はあっさり頷いてくれた。


 そのまま押し流されるように、私は二人と一緒になって改札を通過する。


 電車が走っているホーム階は、改札階よりもさらに下だ。由香里と千夏がまたワイワイと言葉を交わす声を聞きながら、私も二人の後ろにくっついてホームへ降りるエスカレーターへ足をかける。


 その瞬間、またフワリと、あの香りがした。


 今度は一瞬かすめるだけではなく、まるで包み込まれたかのようにかぐわしい香りに取り巻かれる。


「あ、この匂い」


 私は下の段に立っている二人に向かって声をかけた。


「これだよ、さっき言ってた甘い匂い」

「え?」

「何の匂いだろ? すごくいい匂いじゃない?」


 私は思わずスンスンッと鼻を鳴らす。


 だけど二人は不思議そうな顔をするばかりだった。私と同じように周囲の匂いをかぐ素振りを見せた二人は、一瞬顔を見合わせると不審そうに私を見上げる。


「そんな匂い、全然しないけど……」

「え?」

「むしろ排ガス臭いっていうか……。地下鉄独特の臭いっていうか」


 二人の言葉に、私は凍りついた。


 そんな私の鼻はまだ、空気の中を光り輝くかのように漂うかぐわしい香りを拾っている。鼻は匂いに慣れやすいというのに、私の鼻はまったくこの匂いに慣れようとはしない。


「え? こんなにしてるのに?」


 私は思わずポロリと言葉を零していた。


 その瞬間、先頭に立っていた千夏がホーム階の床を踏んだ。次いで由香里、私と滑らかに後に続く。


「ちょっとちょっとぉ〜! ももっち、怖いこと言わないでよぉ〜!!」


 乗車番号が書かれたホーム先へ進みながら千夏がおどけるように声を上げた。


 古いホームには転落防止用の可動柵も設置されていない。突然床が途切れた先には奈落のように薄闇が溜まっていて、その底にギラリと微かに光るレールが走っているのが今いる場所からでも分かる。


「ほら、都市伝説であるじゃん? 疲れ切った人が線路に吸い込まれるような引力を感じた時、一緒に甘い匂いも感じるって話さぁ〜」

「ちょっと! 千夏こそ何怖いこと言ってんのよ!? シャレになんないじゃん今の状況!」

「そういう話もあるって話じゃん! そんなにガチで怒んなくてもいいじゃんかよぉ!」


 その底に、本来ならばあるはずがないモノを見つけてしまった私は、ハッと体を強張らせた。


 白い、大輪の花。


 月下美人や、白の大菊を思わせる、闇の中にポッと白く咲いた花。


 そんな花が、電車が走るべきレールの上に咲いている。


 ──この、甘い香りは。


 あの花が発している香りだ。


 同時に、ユラリと私の足が前へ出た。


 触れたい。あの花に、たまらなく触れてみたい。


 その誘惑に、フラリと体が揺れる。


 きっと触れたら、素敵なことが起きる。もう一生、憂いを感じなくて済む。この世のあらゆる痛苦を忘れて、極楽に、安寧に過ごすことが、きっと……


「モモっ!?」


 そんな思いに、脳が甘くとろかされた瞬間。


 腰にグッと圧がかかり、目の前を空気の塊が通過していった。チリチリと髪が焦げるかのような圧に目をしばたたかせてみれば、私の鼻先を電車の車体が通り過ぎていく。


「何してんのよあんたっ!!」


 耳元で怒鳴っているのは由香里だった。私の腰に後ろから腕を回しグッと体重を落とした由香里は、線路に落ちる一歩手前だった私の体をホームの上に引き留めてくれている。


 視線の先にある私の足先はホームの縁からはみ出していた。


 その光景に、ザッと血の気が引く。


 ──由香里の腕が引き留めてくれていなかったら。


 あるいは、今ここに私一人で立っていたら。


 私はきっと、今頃……


「あ……」


 ようやく小さな声を上げた私はヨロリと後ろへ腰を落とした。そんな私を支えきれずに由香里も一緒に座り込む。


「ももっち!?」

「モモ! モモ、大丈夫っ!?」


 私は凍り付いた視線を無理やり動かして電車が止まるホームを見つめた。


 その、暗がりから。電車とホームのわずかな隙間から。


 ユラリ、ユラリと、花びらがそよぐかのように。私を手招きするかのように。


 細く伸び出た白い手が、ヒラリ、ヒラリと、私を手招くかのように揺れていた。


「────っ!!」


 私はとっさに声を上げないように、反射的に両手で口元を覆う。体は由香里の体にすがるかのように後ろへ下がっていた。


 あの手に応えては、いけない。


 きっと、連れていかれてしまう。甘い甘い香りに、虫が抗えないように。


 またフラリ、フラリと、全てが分からないまま、奈落の底へ落ちていってしまうから。


『ドアが閉まります、ご注意ください』


 アナウンスとともにけたたましいベルの音が響き、電車のドアがゆっくりと閉まる。その音に従うかのように、隙間から生えていた腕はゆっくりと奈落の底へ帰っていった。


 クスクス、クスクスと、微かな笑い声が聞こえたような気がした。その声を引き連れていくかのように、ホームに停車していた電車は軋みをあげながらゆっくりと走りだす。


 私はその光景を、ホームにへたり込んだまま眺めていた。


 ……地下鉄のホームでは時々、不思議な甘い匂いがするらしい。


 それはきっと、あの花が。あの花に擬態したが。


 獲物をおびき寄せるために、甘い香りを振り撒くからなのだろう。


 ──私、多分もう、一人で地下鉄のホームに立てない。


 まだ鼻先をあの死臭に似たかぐわしい香りがそよいでいることを自覚しながら、私は震える手で必死に由香里の腕にしがみついたのだった。


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