第10話『第一現成公案』 第七段〔一方が明らかにされる時、全天地はそれである〕 

〔『正法眼蔵』原文〕                           

身心シンジンを挙コして色シキを見取ケンシュし、                    身心を挙して声ショウを聴取チョウシュするに、                          


したしく会取エシュすれども、                 


かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。


一方を証するときは、一方はくらし。      


〔抄私訳〕                                           

「身心を挙して色を見取し」〈全身心をあげて色(物)を見る〉とある身心は、「諸法の仏法なる時節」〈森羅万象が仏法である時節〉の上での身心である。この身心をそのまま色(物)と説き、この身心を声と説くのであるから、「親しく会取す」(親しく事理を了解する)と言うのである。


身心と色、身心と声は、相対アイタイする二つのものではない。二つのものが相対すれば、「親しく会取する」ことはない。だから、鏡面が物の影像を映し、月影が水面に映るのとは異なる。


身心と説く時は身心以外に何もなく、色或いは声と説く時は、色声以外に何もないところを、「一方を証する時は、一方はくらし」と言うのである。鏡面と物の影像、水面と月影はどうしても二つのものが相対しなければ映らないのである。〔仏法は相対を超越しているから、〕これは仏法ではない。                


〔聞書私訳〕                             

/ただ月は月に映り、鏡は鏡を映すと言ってしまうことができるであろう。だから、「一方を証する時は一方はくらし」と言うのである。                    


/『法華経』に、「もし法を聞く者が有れば、成仏しない者は一人も無い」とあるのも、今の意と少しも違わない。『法華経』の意味するところは、仏は衆生を隔てないから、「成仏しない者は一人も無い」ことも論ずるまでもないということである。「聴取」というのも「もし法を聞く者が有れば」というのと同じくらいのことである。          


〔『正法眼蔵』私訳〕                              

全身心をあげて色(物)を見る時、全身心をあげて声を聴く時、(身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、)                   全天地一体となって親しく合点されるけれども、(したしく会取すれども、)                            


鏡面に物の影像を映すのと同じではなく、水面に月影が映るのと同じではない。(かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。)〔霊雲レイウンは、桃の花を見た時、全天地一ぱいの桃の花と一体となって大悟徹底した。香厳キョウゲンは、小石が竹に当たってカチーンと響いた時、全天地一ぱいのカチーンと一体となって大悟徹底した。〕             


一方が明らかになる時、全天地はそれであり、それ以外は暗い。(一方を証するときは、一方はくらし。)

                                 

注:《 》内は御抄編者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。


                                 合掌

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