会社を定年退職しました。

マダムリン

01 会社を定年退職しました。



私、佐藤辰雄たつお60歳。

新卒で会社に就職して35年以上、本日めでたく定年退職を迎える。

本日は、最後の出社。

定時まで普通に仕事し部下達に見送られて長く勤め上げた職場の通いなれた通勤の帰り道。

ああ、明日からここも通らなくなるのかと、感慨深く、薄暗い道を歩いた。手には長年愛用した、くたびれた通勤カバンとサプライズの花束。

息子よりも年下の部下の女の子から、

「佐藤さん、長い間お疲れ様でした」

と、目を潤ませながら労いの言葉をもらい、少し嬉しかった。


団塊世代のちょい後、高度成長期はまだ学生だったため、恩恵に与らず。学生運動の時は子供すぎて経験せず、バブルの華やかな時代では、すでに就職していた。その頃は我が中堅会社は業績好調だが、人手不足のため、残業は深夜になることもあり、社畜として働き詰めで、遊ぶこともなかった。多少の給料アップと会社で食べる夜食の豪華さだけでバブルを感じたものだった。


会社の上司の紹介で、嫁さんをもらい、ローンで小さなマイホームを建て、息子と娘を授かった。家族を養うためにがむしゃらに働いた。

そんな彼らも今では独立し、それぞれの家庭を持っている。


今後は、次の働き先はパートだが決まっている。今の会社に残ってくれと懇願されたが、もう一生懸命、働くのは、やめた。残りの人生、嫁さんと愛犬パトラッシュ、二人と1匹で穏やかに慎ましく過ごしていきたいと、思っている。

まあ、パトラッシュは私が大好きだから、必要としてくれるけど、嫁さんは多趣味で人生を謳歌しているから、私など必要ないかもしれないが…。


退職金で家のローンの残りも一括返済した。借金もない。

とりあえず、わずかばかりだが蓄えもある。

年に何回か遊びに来る、孫に会うのが楽しみだ。


私の人生を人は平凡だと言うかもしれないが、それが幸せである。性格上、波瀾万丈な生き方は向いていない。ただがむしゃらに一つの会社で働いた。

食べていけて、住むところがあり、健康でいる。それで十分である。

そんな人生に満足している。

何よりもバブル崩壊、リーマンショックなどをなんとか乗り切り、リストラされずに、今日の定年まで勤め上げたのだ。

ただ、がむしゃらに働きすぎて、家庭をかえりみない典型的な会社人間になってしまった。今になって嫁さんや子供にチクチクと言われるのが辛い。





私は最後の通勤の道を歩いていた。


いつもならば、一駅だけ電車に乗るのだが、なぜか歩きたかった。

河川敷の道は人通りもすくなく、薄暗い。

それでも晴れやかな気分で足取りも軽やかだった。



軽やか…だった。


「え? パトラッシュ? 」

川原の道の真ん中で愛犬のパトラッシュがちょこんと座っていた。

街灯の光に照らされた黒い影。あの姿はパトラッシュだ。我が家の犬種ホワイトシェパードのオス、愛犬だ。子供がまだ小さいころ、犬が欲しいとねだられて里親制度で我が家に来た保護犬だ。どこぞの金持ちの家で数ヶ月だけ飼われた。前の飼い主に子犬がこんなにでかくなるのかと無責任に手放された子だった。

来た当初は子供たちが面倒を見ていたが、すぐに飽きてしまい私がずっと面倒を見てきた。そんなパトラッシュだから、私に一番懐いている。頭のいい子で、大人しく、滅多に吠えたりしない。他の家族にはクールだが、本当に私が大好きなようで、私には情熱的で甘えん坊だ。ほら、遠くからでもわかるくらいにちぎれんばかりに尻尾を振っている。

リードを引きずって現れたということは、また、脱走して私を迎えにきたのだろう。

もう、可愛い奴め。

近づくと、老犬の癖にすごい勢いで私に飛びかかり、ベロベロと大きな舌で舐めてくる。

それをよろけながら受け止め、ワシワシと頭を撫でてやる。

「こら、パトラッシュ、だめじゃないか。勝手に来たら」

と、言ってやると、咎められたのがわかったのか、耳が垂れて、シュンとした顔になった。そんな顔も可愛い。

「ふふふ。ありがとう。お前は私が定年になった事をわかったんで、寂しかろうと思って迎えにきたんだな」

パトラッシュは私が微笑むと嬉しそうに尻尾を盛大に振った。

本当に私が大好きなんだ。私も大好きだ。

最近では嫁さんにも相手にされない私だが、このパトラッシュだけは、ずっと私の事を一番に考えてくれている可愛い3番目の息子だ。

そして心の親友。


まあ私と一緒で老犬であるが。








「!」





後ろから轟音が聞こえた。

振り返るとライトをハイビームした車がこちらに突進してきた。

普段は車など通らない道のはずだが、考えているうちにずんずん近づいてくる。体が動かない。

ひかれる!!

そんな私の前に黒い塊が躍り出た。

「パトラッシュ!!」

愛犬のパトラッシュが私と車の間。私を助けようとしている。



気がつけばドスンという衝撃の後、私の愛犬のパトラッシュが宙を飛んでいた。

パトラッシュのつぶらな瞳が見えた。ああ、この子は私を庇ったんだ。

まさに忠犬だ。



パトラッシュは私に体当たりして、命を助けてくれた。


なんて賢くて、優しい子なんだろう。

私は愛犬、パトラッシュに命を救われた。






*




だが、


それから数日後。


愛犬を失った悲しみが癒えぬまま、パトラッシュを思い出しながら一人寂しく散歩している途中で、暴走車に引かれてた。


ごめん、パトラッシュ。

君は命の恩人だ。


せっかく君に助けてもらった命なのに。






パトラッシュ……庇ってくれてありがとう。

なんだかとても眠いんだ……パトラッシュ……



パトラッシュのあとを追うかたちで私は死んだらしい。















*






「のろまな役たたず! グズなお前など、こうしてやるわっ!!」

口から思いも寄らない言葉がでていた。私は手に小さな細い棒を持って、前の従者にむかって振り下ろしていた。


ええぇぇ!!!  私が人に暴力を振るっている!! これはダメだっ!! 

私は思わずその振り下ろした手を止めたが勢い余って、そのしなる棒が私の左手にバチンと当たった。


「痛っ!」


あまりの激痛に左手を押さえて、座り込んだ。

あいた、痛たたたーーーー!!


「タジオ様!! 大丈夫でございますか!」

ワタワタとどこからともなく、男女の人々が私の周りに集まってきた。


タジオ様? 私は辰雄だが…。


ジンジンと自分で叩いた手の甲は赤く、ミミズ腫れができている。

え? 私の血管の浮き上がった、肌にハリがない節ばった手の甲ではない。白くハリがあり、透き通る肌にうっすらと血管が見える、ほっそりとした白魚のような手だ。


しかも細い。


私は確か暴走車にひかれて死んだかもしれないが、

死ぬ間際に見せている夢?

それにしては痛みがリアルだ。


痛みで涙が出て、霞む目で、私が打とうとしていた従者は真っ青になりながら、呆然と私を見ているのが見えた。

知らない人だ…否、私の世話をしてくれる人だ。


私を心配して集まってきた人たちも知らない人達…否、私についている侍女や従者達だ。



ああ、そうだ。私はタジオだ。

王族につぐ位、公爵家の嫡男タジオ・シュガードだ。


途端に自覚した私は、ぐわんぐわんとタジオの記憶と佐藤辰雄の記憶が混じり合う。

許容オーバーで私の頭は沸騰し、私はその場で気を失った。





つづく

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