十の巻「妖の戦」(その二)

「……姫!」

 蛇神の叫びに、姫はその時も彼女の腕の中にあった槌の輔をひしと抱きしめて、弾かれたように蛇神を見上げた。姫には伝わる、蛇神の気色張った顔色。

「一体何者か?この洞の宮に、入りこんだ者がいる!」

 どこからも入れないはずのこの場所に、まさかの侵入者。

 洞の宮の入り口を閉じ、人間と関わることを止めると決めたあの時。蛇神はほとんどの蛇達を己の支配から解放し、逃げ散らせていた。最早地上の、即ち人間達の様子を探らせる必要は無い、そう考えたからだ。ただし、槌の輔の様に姫の愛玩物として、あるいは姫の「護衛」と宮の「警護」のために幾らかの蛇達をまだ残してあった。自分の過剰な警戒心に蛇神自身、半ば首を傾げながらであったが……だが。

 今この時、そのが起こった。それら眷属達の目が侵入者である二人の武者の姿を捉え、彼らの主人にそれを伝えたのだ。

 前に進む黒い毛皮の陣羽織は、中背ながらがっしりとした男だ。黒々と太い眉の下に光る炯々たる眼光、噛みしめたえらのがっしりと張った顎、どちらも我の強さを感じさせる。後に従う赤い兜の方は並外れた大男。これまたぎらつく眼差し、しかしこの男の場合は、それが示すのはあからさまな、凶暴な戦意。

 そして無論、蛇神の目には、彼らの正体は一目で明らかだ。

(姿を偽るか……どちらも人ではない。蜘蛛と百足……【化生の者】!)

 様々な姿形を持った、半生半霊の存在達。これまで蛇神は、諸国を流離う中でそれらに幾度となく出会って来ていた。そして数は少なかったが、蛇神の知っているそれらの多くは大抵、人間以上の力を有していたものだった。なるほど、さもなければこの地底の洞の宮に入り込めるはずもない。

(だが一体、奴らは何故ここに?いや、構わぬ……)

 殺す、と。常のようにそう思った蛇神は、しかしこの時、はたと考え直した。

(待て、吾は姫に誓ったではないか、『これからは決して殺さぬ』と……?)

 当惑。立ち塞がる者、己の意に沿わぬ者、そしてただ気に食わぬというだけの者まで、これまでそれら全てを滅ぼしてきた蛇神にとって、「殺さないという選択」は如何にもまだるこしく、そうすべき理由もまるで思いつかない。しかし如何に不条理であっても、それは「何よりも嘘を嫌う」はずの彼女自身が、他ならぬ最愛の姫に誓った事。違えることは決して許されない。刹那の迷いの後。

(吾は奴らを知らぬ、用も無い。姫とてそうだろう。とにかくあのような奴らを姫に近づけてはならぬ。殺せぬなら、ただ追い払うのみ!)

「蛇神さま……?」

 不安げに自分を見つめる姫に。

「何も心配は要らない、吾にまかせよ。見てくるゆえ、姫はここにいるのだ。決して動いてはならぬ。よいな?

 ……者ども!」

 蛇神の声に、蛇達の中で一際大きく毒牙の鋭いものが、姫の周囲にざわざわと集まって来る。

「姫を守れ!そして姫の、この場の様子を吾に抜かりなく伝えよ!」

 その命はしかし、言葉にせずとも眷属達にはすでに伝わっている。蛇神はひとえに、姫に伝えたかったのだ。自分が見守っているのだと。そして蛇神は姫の傍らを通り過ぎて、かつて地上と繋がっていた洞に消えていった。大河の流れの様なその姿を、姫は我知らず合掌して見送る。槌の輔と、沸き起こる胸騒ぎを共に抱きながら。


「……む!御大将!」「来たな!」

 洞内に伝わる凄まじい鳴動。土蜘蛛も大百足も妖の鋭敏な感覚を張り巡らせて、洞に入った始めから警戒していた。しかし今、彼らに迫り来る蛇神はその気配を一切隠そうとはしていない。その脅威はおそらく、頑是ない子供でもわかる。

「やはり勘づかれたか。良い、これも策の内。大百足!手筈を違えるな、始めは退却さがる。よいな?!」

 土蜘蛛はここで強く念を押す。大百足は武に於いて彼の最も頼りにする股肱の臣だが、血気に逸る悪癖がある。今は落ち着いているようだが、いざ蛇神の顔を見たとなれば、彼がどうなるのか土蜘蛛には不安があった。

「退却ると言っても、逃げるのではないぞ。奴を地上に引き摺り出すため、それにはお前の剛力がどうしてもいるのだ。頼りにしておるぞ」

「御大将……お任せを!!」

 これでよし、と土蜘蛛はうなづきを返す。気性の荒さと短慮という欠点はあるものの、土蜘蛛は大百足のこの忠義の強さと、何より素朴単純をより愛していた。

 そうだ、と土蜘蛛は思う。彼の元に集う妖達、皆彼にとってかけがえのない同胞なのだ。彼は彼等を護らなければならない、から。

(蛍よ……いや、お前にもいずれわかる!)

 ふと心に入り込みかけた迷いを、土蜘蛛は振り払う。そして、いよいよ地響き高鳴る洞の彼方に目をやると。

 見えた。蛇神の眼と口にあふれる鬼火が、闇に揺らめき迫る。そして対峙するまではわずかに一刹那、お互い名乗りもせずに。

「去れ、うぬ等……ここから!」

「蛇神よ、この場では問答無用、外に出てもらおう!……掛かるぞ大百足!!」

「おお!!」

 来るか、と身構えた蛇神の目前で、赤い兜の大男がくるりと背を向けた。そして毛皮の男を置いて逃げる!

(何?!)

 一人その場に仁王立ちの毛皮の男の、しかし不敵な笑み。その背後から現れた巨大な姿。蛇神の造った洞、それは当然彼女の巨体が用意に行き来出来る広さを持っている。しかしその場に新たに現れたそれは、その洞を塞ぐほど。

 即ち、蛇神と同等か、あるいは彼女を超える巨体。

(百足!正体を現したか、だがあれは?尾ではないか?)

 鞭のようにしなる、百足の長い二本の尾。何故後ろ向きに、と一瞬虚を突かれた蛇神、その隙を土蜘蛛は逃さない。大百足の尾の一本に素早く飛び乗る。

「蛇神、我らと共に参れ!」

 投網を打つように、彼のさっと伸ばした腕の先、掌から放たれたのは太縄の様な白い糸の束。蛇神の鎌首にがっきりと絡みつく。

「引け大百足!!」

 土蜘蛛のその声に、大百足がその身をくねらせ、一斉に脚で洞の壁を掻き始める。無造作に大百足に乗っているだけの様な土蜘蛛も、実はその霊気がかたどる真の姿は、がっちりと八本の脚で大百足の尾を掴んでいた。思いもよらない剛力で、蛇神の首はぐいと曳かれる。

 こともあろうか。この自分を彼等はどうやら、【地上に牽引する】つもりなのだ。あまりにも単純な、ただの力技。蛇神はむしろ呆気に囚われた。

(このような……馬鹿者共!吾は見たことがない!)

 この無謀、そしてこの無礼。蛇神は彼女にこんなことをする者がこの世にあるとは思っても見なかったのである。茫然と蛇神はだだ曳かれるがまま、思う。

(だが確かに強い。天竺でも唐でも、このような輩はものだったが。この倭には残っていたのか、まだこんな奴らが……!)

 妖、蛇神が化生の者と呼ぶそれら。だが彼女は見て来た。天竺、高原、唐と土地を超え時を超えると共に、ようやくそれらは数を減らし、力を失っていったということを。そう、人間達が栄えるのと、まるで裏腹に……

(ならばよい。洞の宮で戦えば、姫を危うい目に合わせてしまうかも知れぬし、第一吾には姫との誓いがある、奴らを殺せない。外に出向いてやろうではないか。奴らが何をしでかしたいのか、見てやるとしよう……)

 蛇神は、牽引に敢えて逆らわない。いや途中から、曵かれるに従い自ら進み始めたのである。それはほんの気まぐれだった。だがこの時、蛇神は確かに、今彼女を牽引している無礼者達に好奇心と、それ以上に奇妙な親近感を抱いていた。得難き姫と出会えたこと、それは永遠の流離の孤独から彼女を救った。だがそれはそれまで、すべての他者に頑なに心を閉ざしてきた蛇神が「愛する者を得る喜び」に目覚めたということでもあった。蟻の一穴。我知らず、今度は蛇神は力に於いても彼女に並び立てる存在を、すなわちを求めてしまったのかも知れない。

 だが蛇神はせっかく抱いたそのほの暖かな気持ちに対して、やがて手ひどいしっぺ返しをくらうのだ。

 いや、あるいは。

 蛇神と和解し手を取り合う千歳一隅の機会を、これから自ら捨ててしまう土蜘蛛の上にも、天は平等に過酷な鉄槌を用意したのかも知れない……

 

「婆様!見なよ、御大将と大百足が!」

「ひゃは!これは見ものじゃわい!あの蛇神が、ざまは無いのぉ!……さぁ行くかい?」

「あいよ」

 洞の岩陰に隠れていた二人が、ついに行動を開始する。そう、それが運命の分かれ道であったのだ。

(続)

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