六の巻「蛇神の夢」
その時、蛇神は夢を見ていた。いや、それは果たして夢なのだろうか?
不死不朽、無限の生命の宿る彼女の鉱物の体は、眠りというものを本来必要としない。彼女がその気になれば、何百年でも休むことなく活動し続けることが可能なはずであった。
にもかかわらず、むしろ日々度々、彼女は眠る。いつ果てるとも知れない命、無限の生は、意識を常にしかと保っているにはあまりにも空虚が過ぎるのだ。それならばむしろ、思考も感情も止め己の存在を仮初に消して、時がただ過ぎていくことを彼女は求める。
とはいえ。動物たちや人間が眠る時のように、意識を完全に消すことは彼女には出来ない。彼女の体内の神秘力の奔流が、彼女に常に「存在せよ」と要求するからだ。目を見開き物を見よ、音を聞け、感じろそして考えよ、と。他の何者にも屈することを知らない彼女も、それにだけは抗えない。
だからいつも、やむなく。瞼の無い閉じることの出来ない目を暗闇に向け、そこに、彼女の意識が思い浮かべる情景を、思い浮かぶままにそのまま投影する。花、海、星。たわいもない、意味を持たない刹那の光景を彼女は好む。それらは彼女の心に感情という乱れをもたらさない。彼女が求めるのは、現れては消える
だがその時。蛇神は「眠る」ことが出来なかった。見つめる闇の先に、彼女の意識が投影し、彼女に見せつける光景。
唐の、とある城塞都市。その名を蛇神は覚えてはいない。人の名付ける城の名など、彼女にとっては無意味。そしてその側の岩山に、彼女は自ら巨大な洞窟を穿ち、当座の住処とした。「洞の宮」。何処においても、彼女は同じような棲家を造った。それをそうとだけ呼び、人間たちにもそうとだけ呼ばせた。
それ以上は必要ない。どうせどこも仮の宿に過ぎなかったのだから。
(果たして幾つ人どもの城を襲ったか、幾つ洞の宮を掘って、幾つ捨てたか……)
もうわからない。彼女は幾千年も、常に流離っていたのだから。
無論。蛇の「神」と名乗るその名の通り、世界のどの地にあっても、彼女を脅かし退けることの出来る存在などありはしなかった。立ち向かう者や逆らう者を、棲家もろとも彼女は全て蹂躙した。天竺では川の水を使って村も田も押し流し、草原の民の天幕や馬や家畜を竜巻で吹き払い、唐では多くの城を自らの体で叩き潰した。そして彼女は、彼女の威にひれ伏した人間たちに贄の乙女を要求し、戯れに次々と嬲り殺し続けた。
だが。そうしてひとしきり暴虐の限りを尽くしたかと思うと、何故かいつも彼女は自ら、何かから逃げるように、追われるように次の地に。
そうして彼女は、彼女が「倭」と呼ぶこの小さな島国に逃れて来たのだ。自らが半ばを焼き払った京の都、その側の山に新しい洞の宮を掘り、今、そこにこそこそと隠れ住んでいる。
(そうだ。唐にては、一度に二人づつ贄の乙女を、吾は求めた……)
今自分が欲しているのは安らかな眠りだ。こんなものは見たくはない、思い出したくもない。だがそう思ってもどうにもならない。ついに彼女は逆らうのをやめ、幻の娘たちにその苛立ちを転嫁する。
(人どものせいなのだ。人どもが、うぬ等が吾を……苛立たせる……だから……)
自分には居場所がないのだ、と。彼女はその一言だけは胸に飲むこむ。それは理においては矛盾であり、情においては屈辱。やがて彼女はいやましに募る怒りに駆り立てられるままに、幻の中で唐の乙女たちを責め始める。
岩山の中腹から、長く穿たれ地底に向かう巨大な洞窟がありました。それが蛇神の「洞の宮」です。その壁面は驚くほど艶やかで滑らか。掘られたばかりだからなのでしょう、草どころか苔ひとつむしていません。
その中を、恐怖に震えながら、二人の娘がおずおずと奥に進んで行きます。二人の足取りは重く遅く、今にも立ち止まってしまいそうです。それはそうでしょう。自分たちは生贄で、行く手に恐ろしい怪物が待ち受けていると知って、はきはきと進める者がはたしているでしょうか?それでも、二人は歩みを止めることは出来ません。
二人の足元には、無数の蛇。そして二人の首や手足にもそれらがまとわりついていて。娘たちが少しでもぐずぐずするそぶりを見せると、まるで急き立てるように二人の体を撫でまわすのですから。ただ不思議なことに、辺りはまったくの暗闇ではありませんでした。松明やかがり火のようなものはどこにも見当たりません。ですが、ほの明るい、そして冷たい光でぼんやりと満たされていて、しかも、奥に進めば進むほど明るくなっていくようなのです。歩みを進めるのには充分な明るさでした。
いえいえ。いっそ真っ暗であれば、止まってしまうことも出来るのでしょうが……
やがて。二人は蛇たちに追い立てられてとうとう、「洞の宮」の最奥にたどり着きました。すこし広くなったそこに。
蛇神の大きな頭、鎌首の先だけが、洞窟の奥に立ちふさがっています。蓑虫のように、掘った洞窟に潜り込んでいて、あとの体は、穿たれた洞窟のさらに奥まで続いているのでしょう。その場には、洞の壁と言わず天井と言わず地面と言わず、内側一面を埋め尽くし、絡み合い、這いまわる蛇の群れ。
そして今まで、二人を導いていた洞内のあの光が、蛇神の目と開いた口の中からめらめらと発せられていることに気づいて、娘たちはひいと悲鳴にならぬ息を吸い込んだのです。
「……衣!」蛇神が二人を見て、最初に言います。
「衣、うぬ等人どもの、嘘の皮!たがが毛の無い猿が、暑さ寒さをしのがんとしてまとうだけならまだしも。偽りの色で身を飾り、富貴を誇り身分を示さんとする……片腹痛し、見苦しくてならぬ!かかれ、者ども!!」
その声に、洞内でひしめき合っていた蛇たちが、一斉にざわざわと二人の娘に向かって集まり、その体を包み込むのでした。襟首から、袖口から、蛇たちは娘たちの纏っていた衣の中に入り込み、そして一方帯や留め金を食いちぎり。
やがて蛇たちが退くと、二人はすっかり生まれたままの姿にさせられてしまっていたのでした。恐ろしさの中にも、娘らしい恥じらいで、その場にしゃがみこみ自分の身を腕で抱き隠すその様を、蛇神は冷たい声で蔑みながら。
「衣を剥がされて身を隠すか。無様なものよ。何故恥じる、それがうぬ等のあるべき姿であろう?まあよい。吾はうぬ等に聞きたいことがある」
蛇神はそう言って、片方の贄の乙女に向かって、ずいと首を伸ばし顔を近づけました。尖った鼻先が、今やその娘のほんの目の前です。石から生まれた蛇神は、息を吸い吐くことがありません。ですがそうして間近に迫ると、その娘には、蛇神の薄く開いた口から、何か目に見えないぬらぬらした煙のようなものが流れ出て、自分の体にまとわりつくよう。娘の肌すべてが、思わず知らず総毛立ちます。
「まずうぬから聞こうぞ。近くでよく吾を見るがよい。そして答えよ。
……吾は、美しいか?」
蛇神は、とても奇妙なことを娘に問いました。ですがそう問われても。娘は恐ろしさに、体はすくみ上がり、声も出せません。蛇神の声が耳に届いているとしても、もはや何を問われているかもわからないのでしょう。ただ涙を流しながら、首を右に左に振るばかり。すると。
蛇神はそのままさらに首を伸ばして口を大きく開き、娘を一息に咥えこみました。そうして声も出せず、もがく間も無く、娘は蛇神の体の中に消えたのです。
「そうか、吾は恐ろしいか。ふ……正直な乙女の肌は、喉に甘い。丸呑みに限る。さて……うぬにも聞こう。
吾の姿はどうだ?美しいか?」
同じく、恐ろしさに震え上がりながらも。もう一人の娘が蛇神に呑まれた様を目の前にして、残った娘は声を枯らさんばかりに叫びました。
「美しいです!あなたはお美しゅうございます!!」
ところが。
「吾を美し、と……?そうか、うぬはそう言うか!!」
残った娘も、瞬く間に蛇神の口に咥えられました。ですが今度は、蛇神はそのままゆっくりと大顎を噛み締めるではありませんか。牙が娘の肌から肉に食い込み、骨という骨が砕ける音が、娘の悲鳴と重なって洞窟の中に木魂します。
そしてその響きがようやく消えて静かになると。蛇神は、娘のずたずたの亡骸をその場に吐き捨てて。
「吾を美し、と。浅はかな者よ。吾は通力にて心の声を聞く、偽りは通じぬというのに。嘘を吐く乙女は、声は
者ども、その汚き屑を衣に包んで、人どもの元に返して参れ!」
這い回る無数の蛇たち。川の流れのようなその群れは、まるで一つの生き物の一つの手、その指のように一糸乱れず滑らかに動きます。そして先程娘から剥いだ衣をとりあげ、血塗れの亡骸を包み、洞の外に運び去っていきました。
そして。蛇神はただ一人、その場で空気の流れのない、虚しいため息をつくのです。何故でしょう?それは蛇神が自分で求めた「
(あぜちのだいなごん、その娘、蟲愛づる姫……蟲愛づる姫!おのれ!!うぬは吾を苛立たせる。だからこんな夢を見たのだ!!)
蛇神は幻から完全に覚めた。そして、眠りに就こうとしていた彼女がその不愉快な幻を見た原因は、倭で彼女が見つけたその乙女にあると決めつけた。
(虫を、そして蛇を好むふりをして、吾の目を眩まし逃れるつもりか、それで吾に媚を売るつもりか……許さぬ!!)
蛇神が京の都に放った無数の眷属たち。蛇神はその目を使って、都中を隈なく探して回った。この倭における最初の、彼女の贄に相応しい乙女を。
そして。一匹の野槌が見つけた乙女の奇妙な振る舞いが、強く彼女の関心を惹いたのだ。蛇神はついで、その「だいなごん」と呼ばれる男(蛇神が『下等な人ども』の名を覚えようとするなどは、ここ数百年においても稀であったが)の館の天井に床下に、ありとあらゆる物陰に眷属を放ったのである。それらは姫だけでなく、父大納言や姫の母君、そして女房達のあらゆる立ち居振る舞いを見、話す言葉を聞いた。姫の持っていた「蟲を愛づる」奇癖、その詳細を隈なく。
ただしそれは都に蛇神が現れるずっと以前からのこと。姫が彼女に「媚びるためにそうしていた」というのは、明らかな邪推だ。蛇神にもそこがわからぬはずはないのだが、彼女は何故かそこには目を瞑って。
ただひたすらに、姫に対して怒りを募らせる。
(気に食わぬ、何もかも!あの乙女、何もかもが気に食わぬ。『蟲を愛づる』だと?
……よかろう!あらゆる虫、地を這う者の
蛇神の企てを先取りするかのように、白蛇がするするとその場に進み出る。しかも、二匹。眷属の推参に、蛇神は頼もし気にこくと軽くうなずきを返して。
「お前は、先に倭の王の元に先に行け。あの乙女は、万が一にも逃してはならぬ。王に捕り手を用意させるのだ。そして王の手下の手で捕まえて吾の元に連れて来させよ。
そちらのお前はだいなごんの館に行け。あの男に娘を差し出せと伝えるのだ。逃げ隠れ出来ぬよう、捕り手が丁度現れる頃合いを見計らって、な。
ぬかるでないぞ……!」
倭すなわち日ノ本の国での最初の贄の乙女、蛇神が選んだのは、かの「蟲愛づる姫君」。
蛇神は興奮に打ち震え、くつくつと低く笑った。誇り高い彼女が自身に認めることのできない、後悔と不安を、強いて心中から追い出すかのように。
(続)
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