使者

 しかし、向こうはそうだからと言って、諦めるような者ではなかった。


 その「会いたい」という手紙が届いた数週間後のことである。


 伯爵家の屋敷の門を叩く者が現れた。


 それは背が高く、礼服をきちんと着た、黒髪に黒い目の年若い紳士だった。顔立ちは、フランツブルグには劣るものの、世間一般から見ると、いわゆる「かっこいい顔」をしていたのであった。


 そんな男がやって来たというのは、やはり偶然ではないらしい。


「…フランツブルグの使者だと名乗っていたのですが」


 門番が夫人に訪問者のことを伝えると、夫人は、さも興味なさげに、


「そう。フェルム、追い返してきて頂戴」


 と、雑にあしらった。


 何の危機感もない夫人である。しかし夫人とは違い、彼女は、ひどく焦っていた。


 (とうとうフランツブルグが乗り込んできたんだわ。何を言われるか分からない…。もしかして、裏でなにか企んでいるのかしら…)


 そんなことを考えながら、いつもより短く感じられた廊下を歩み、花壇のたくさん植えてある庭へと出る。


 高い柵で囲われた屋敷であるし、その主人の地位の高さから、警備員もたくさん巡回している。たとえ急に武器を取り出して襲ってきたとしても、きっと、助かるはずだ。


 そんなことを思いながら、彼女は門の外で、背中を向けて立っている若い紳士に、乾いた口で話しかけた。


「あの…」


 その次の言葉を言う前に、紳士は振り返って言葉を発した。


「こんにちは、お嬢さん。私はフランツブルグにてお仕えしております、ラムールと申します。以後、お見知りおきを」


 そうやって明るい笑顔を見せた後、恭しく礼をした。


「…ええと、どういったご用件でしょうか…」


 彼女はできるだけ平静を保って言うが、その身を固める様子は、誰が見ても分かるものだった。紳士は苦笑しながら肩をすくめた。


「まあ、そんなに警戒なさらないで。じつは、我が主人がこちらに手紙を出しているのですが、それは届いておりますでしょうか?」


 心臓が跳ねる。


 彼女は、どう答えればいいのか迷っていた。


 いっそのこと、伯爵夫人が手紙を無視していると答えてしまった方がいいのか。それとも、嘘をついて、届いていないとでも言えばいいのか。


 どんなに考えを巡らせても、いちいち夫人の言動や脅すような態度がちらついて、彼女は、うまく言葉を返すことができない。


 しかし、その様子を見て、紳士は二、三度頷いて、


「なるほど、さては届いていないのですね」


 と、そう言った。


「あの配達員は、前々からこういうことがありましたからね、仕方のないやつですよ」


 あたかもそれが真実であるかのように語って、明るい笑顔を絶えず見せている。


 その予想よりもはるかに朗らかな印象に、彼女は安堵しながらも、意外に思っていた。


 そして、このラムールという紳士が、言葉を返せずにいる彼女に気を遣って、そんなことを言った。このことも、意外と言うべきであろう。


 この男は、なかなか器量があるらしい。


「まさか私の預かり知らぬところでこんな事態になっているとは…困った奴ですよ、ねえ、お嬢さん?」

「え、は、はあ…そうですね…」

「まったく、残念でなりません…。では伯爵夫人様にお伝えいただけますか? 我が主人が、伯爵夫人様にお目通りを願っていると」


 彼女は、まだ緊張が残った表情で頷いた。


「ありがとう」


 そう言ってラムールはまた笑顔を見せ、懐から何かを取り出し、彼女の手に添えた。


 見ると、赤色の小さなガーベラであった。赤いリボンが取り巻いて、その花の色を深くまで引き出している。


 一輪ながらも、気持ちがこもっていると分かるような、情熱の赤が乗せられていた。


「これは…?」


 彼女が首をかしげる。


「ガーベラです。我が主人から、伯爵夫人様にと。主人の屋敷には花壇がないのですがね、珍しくも咲いておりましたから、是非にと」

「分かりました…。お渡ししておきます」

「ありがとう! では私はこれで」


 ラムールはまたしても恭しく一礼し、屋敷の門の前から立ち去ろうとする。


 が、しかし、数歩進んだところで、何かを思い出したように立ち止まった。


「ああ、そうだ!」


 ラムールは振り返り、彼女にこう言った。


「貴女のお名前を聞くのを忘れていました。失礼ですが、お嬢さん、お名前は?」


 彼女は訳が分からなかった。


「え? いや、でも…私の名前なんて知って、何になるのですか…」

「この伯爵家には度々お世話になりそうですからね。誰かひとりでも知っている使用人がいれば、何かしらスムーズに事が運びそうだとは思いませんか?」


 だいたいそんなことを言うと、ラムールは彼女の目をしっかりと見据え、その名が口にされるのを待った。


 彼女はうつむいたまま迷っていた。果たして教えてしまうべきか。その紳士の雰囲気から考えると、何か良くないことに使われる可能性は低そうである。


 しかし、その雇い主がそうなのかは分からない。もしかしたら薄暗いことに使われて、この伯爵家に関わるような問題にでもなってしまうかもしれない。


 彼女はふと視線を感じて、チラリと目を向けた。


 そして彼女は数秒黙って、ためらうように、小さな声で、ようやく呟いた。


「……マシェリー、ですわ…」

「マシェリーですか! それはいい名前だ! とても素敵だと思いますよ」


 教えてくれてありがとうと、そう伝えて、ラムールは今度こそ立ち去って行くのだった。


 彼女、マシェリーは、しばらく門の前につっ立って、受け取ったガーベラを握っていた。


 いい名前。しばらく呼ばれることもなかった自分の名前を、そんな風に言ってくれたのは、覚えているなかでは初めてだった。


 そう思いながらも、マシェリーは首を振った。


 ただのお世辞だ。あの人は口がうまいんだ。そういう人を、彼女はずっと間近でよく見てきた。


 (とにかく、奥様にお伝えしないと)


 そう考えて、足早に屋敷内へと戻っていった。

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