第三話 「名前を教えて」
化け猫さんの話を飲み下して、理解するのにはいささかならぬ時間を要した。
そうして、返答に窮している間にヒヅキさんが部屋へ帰ってきた。
「布団敷いたけど、もう休む?」
「オレはもう休む。じゃあな」
「あ、あの、化け猫さ」
ヒヅキさんを押しのけるようにして居間を出ていく化け猫さんは、私の声を遮って戸を大きな音を立てて閉めた。立てつけが悪いのはそこも同じなので、最後までは閉まっていないが。
ヒヅキさんも同じように眉間に皺をよせ、「まったく」と呟いていた。
「あのひと、乱暴でいけないね。あなたはどうする? もう休むなら、部屋へ案内するけれど」
「……じゃあ、お願いします」
なんだか疲れていた。ちょっと歩いて化け猫さんを捜しにいくくらいしかしていないのに。
「こちら側に体が近付いているからね、人の世の食べ物じゃあ栄養が足りないって体が勘違いしてる。そのうちよくなるから、ゆっくり休むといい」
と、見透かしたようにヒヅキさんが教えてくれる。
ヒヅキさんは「こっち」と一言言うと、台所の奥の戸を開けた。がたがたと、開けられることを拒んでいるような戸は、化け猫さんが来るなと言っているようだった。ヒヅキさんは慣れた様子で戸の下のあたりを蹴り、強引に開ける。
「そっちがトイレで、洗面台は脱衣所のを使ったらいいから」
中は思いの外広いけど、私に貸し与えられた部屋は台所を出てまっすぐだった。私が迷わないよう配慮してくれたようだ。
ヒヅキさんが電気をつけてくれた部屋へ入り、ヒヅキさんを見送った後、私は部屋の中央に敷かれた布団に倒れ込む。
布団はヒヅキさんが使っているものと同じく、薄いものだった。しかし、やわらかい、いい匂いが鼻孔を擽る。今日の昼間、干しておいてくれたようだった。太陽のぬくもりがわずかに残っている。
顔を埋め、先の話を反芻する。
――「おまえがいなければ」
化け猫さんは、私がいなければ死んでいたという。確かにあの時拾った猫は今にも死んでしまいそうなほど冷たかった。あれを、見つけたまま放置していたら――と思うと、背筋が寒くなった。
助けなければと思ったのは、どこまでも自分のためだったというのに。
そんな重さが、背中にずしと圧し掛かってきたようで、吐き気が込み上げてきた。私は布団をめくり、その中へ潜り込んだ。夏らしいじっとりと暑い夜なのに、外気にさらされる肌がおかしなくらい痛くて、頭のてっぺんから爪先まで、布団の中に隠してしまう。
*
――そこは狭かった。とてもとても狭くて窓の外も隣の見世の壁で、世界が広がるようなこともまずない。外へ出ることなど以ての外で、歩けたはずの足はとうに言うことを聞かなくなってしまった。与えられた自室から見世の表へ行くので精一杯だ。細く、骨が浮くような、肉の削げ落ちた足。華やかな着物で隠し、無理をおして歩き、たおやかに座って見せても、最後にはすべて暴かれて、どこへもいけないことを曝してしまう。
どこへも行き場はない。どこへも行けはしない。
ただ漫然と、与えられる偽りの愛情を受け取る日々。どこにもいけないこの足のことを知って、それを抱くような愛情は曲がっていて、歪んでいて、あるいは愛ですらないのだろう。触ればあたたかく、触れられたところは熱を持つのに、体の奥は冷え切ったままだ。
心臓が、まるで氷のよう。
腹の中には大きな氷塊が入っているかのよう。
その冷たさに誰も誰も気づいていない。気付いてくれるほど、こちらを見てくれるひとなどいない。これからも、いない。
所詮――この身は商品なのだ。金で買われて一夜の夢を与えるだけの道具。その一夜に、この身の夢は見られない。見ることは許されないし、夢の見方など、とうに忘れてしまった。
きっと無償で得られるはずだった愛情は、もうどこにもないのだ。この冷え切った体の芯をあたためられたはずのそれは、この身には与えられなかった。この場所へ売られてきたそのときに、永遠に失われてしまった。
鐘が三度なる。日が傾いて、窓の下の街並みが提灯の熱を帯びる頃、この鐘は鳴らされる。毎晩、見世の始まりを告げる合図だ。鐘を鳴らしているのは、さて、誰だっただろう。使用人は顔を合わせる機会がほとんどないから、顔が思い浮かぶはずもなかった。そしてどうでもいいことだ。
唇に鮮やかな紅を引いて、はみ出た分を指で拭った。指先にかすれた赤がこびりつくのを確認して、どうにもこれは、血のようだ、と思った。毎晩同じことをしているというのに、たまにこうして思い至ることがあるのは、少なからず私が生きている、という証になるのだろうか。
ふ、と笑みがこぼれた。これは血ではない。血ではないものを見て生きている証になるか、など馬鹿げた問いだ。紅は指先でこすり合わせ、色を失わせる。
壁際まで這いずり、壁に体重を預けてゆっくりと立ち上がる。豪奢な着物の下で、立って歩くことを半ば忘れた足ががくがくと震える。だが、立ってしまえばだいじょうぶだ。痛みがあるわけではないのだから。
着物に傷をつけないように、結い上げた髪が崩れないように、うまいこと壁を使って廊下を進んだ。この自室は見世からもっとも遠いところにある。見世はすでに開く時間だが、客が入るまでにはまだもうしばらくある。ぎりぎりまで部屋にいたのは、わずかな抵抗だった。
そうして、この夜も、芯は冷えたまま、熱にさらされる――
*
どうも意識は落ちてしまったらしい。夢を見ていた――ような気はするけれど、具体的には思い出せなかった。ただ胸の奥がざらついて、気持ちが悪い。
ふと目を開けると、布団の隙から明かりが入ってきていた。そういえば、電気を消さずに布団へ潜り込んでしまった。こうした電気がどうやって発電されているのかは知らないが、もったいないことをしてしまった。
電気を消すべく、私は体を起こす。真っ白な蛍光灯よりもいくらか薄暗い電気も目覚めたばかりの目には眩しくていけない。早く消してしまおうと紐を掴もうとしたところで、なんとはなしに、喉が渇いたな、と思った。
夕食のときに飲んだのだけど、こんな暑い日に布団に包まって寝ていればそれは喉も渇く。見れば、じっとりと汗をかいている。
私は伸ばした手をひっこめ、代わりに足に力を入れた。部屋を出ると、廊下の窓が開いていた。そこから吹き込む風が汗を急速に冷やし、肩が震えた。窓の外は、薄く明るい。風に揺れて、木々がざわめくのを見た。祖母の家にいるより、なんだか涼しい夜だ。同じ町の中でも、これだけ林の奥ならば変わるということだろうか。吸い込む空気も、心なしか水分を含んでいるようで、喉が冷える。
ひやりとした板の廊下をゆっくりと歩く。トイレの前を通り過ぎ、台所へ入った。水道の横の籠に湯呑が伏せてあり、そのうちの一つを取る。水道は、というより、台所自体が俗世的で、いかにも人の作ったもの、という感じがして不思議だった。ここに人は入らないのだろうに。どこから水を引いてきているのだろう。
蛇口をひねる。水が滔々と溢れ出し、蛇口がその勢いに少し上に傾く。湯呑はすぐにいっぱいになって、私の手のひらを少し濡らした。
冷たい水は、舌の上を滑り、喉を潤し、胃にわずかな冷たさを残した。いっぱいで足りるような渇きでもなかったと思うのだが、なんだか満足してしまった。私は湯呑を洗って元の場所へ伏せた。そろりと廊下へ出る。
ヒヅキさんは、また祭壇の上で丸くなって寝ているのだろうか。部屋はたくさんあるようだし、布団だってあるはずなのに、なんでわざわざあんなところで寝ているのだろう。
化け猫さんの寝ている部屋はどこかわからなかったので、いっとう気を使って静かに歩く。起こしてしまったら申し訳ない。
そうして静寂をそっとかき分けて進んでいると、唐突に声が鼓膜を揺らした。起こしてしまったのだろうか。肝が冷え、血がざっと落ちる感覚がした。
「――ほうが、いい」
ヒヅキさんの声だ。すぐ後ろの、今通り過ぎてきたばかりの部屋にヒヅキさんがいる。起こしてしまったわけではなさそうだ。だが、ヒヅキさんのその淡々とした声が、独り言ではないことを示している。
「ほっとけ。おまえは世話焼きが過ぎる」
答えたのは、化け猫さんだった。心底うんざりしたような声だ。
私は、身を強張らせてそこに留まってしまう。
「あの子に名前、ちゃんと教えるべきだと思うよ、俺は」
「妖にとって名前は命を握られるようなもんだぞ。知ってるだろ、おまえでも」
「だからこそ、あなたは残すべきだ。――あなたが、消えてしまわないうちに」
消える。
どくんと心臓が跳ねた。消えるってなんだ。いなくなる、ここから去る――あるいは。うるさくなる心臓を鎮めるべく、ゆっくりと呼吸をする。それさえ上手くできなくて、呼吸は意思とは裏腹に浅くなっていく。
「うるせえって。オレはもう眠いんだ。そういう話は後にしてくれ」
「……まったく、どうせそんなこと言って、話なんてまともに聞かないくせに」
ヒヅキさんが立つ気配がして、そこでようやく私は我に返った。硬直した足を動かし、その場を急いで去る。足音を残さないように、気を付けながら。
電気もつけずに、話していたのだ。きっと聞かれたくない話だったに違いない。私は罪悪感に似た何かを腹の底へ沈めたまま、布団に潜り込んだ。
結局、そのあとは一睡もできずに朝を迎えた。
盗み聞きしてしまった気まずさから、居間へ向かえずにいると、ヒヅキさんが起こしに来た。起こしに、というよりは、朝ご飯を食べるかと聞きにきたのだ。食べなければ人の体へは近づかないというから、断れなかった。
体から黄泉のものを抜くというのは、それらを人の世の食べ物で上書きして作り直す、ということらしかった。だからなるべくたくさん食べたほうが早く人の世へ帰れる、とのことだ。もっとも、そんな話を聞かされても、そんなにたくさん、もともと食べられない。
「今朝は卵焼いたから、醤油でも塩でも、好きなのを掛けて食べて」
「ありがとうございます。……あの、化け猫さんは?」
今の食卓には二人分の朝食しか用意されていなかった。化け猫さんはまだ寝ているのだろうか。ちなみに、食卓として使われているのは掘り炬燵だ。足を意味なくぶらぶらさせてしまう。
ヒヅキさんは自分の分の目玉焼きに醤油をかけ、白身を切り離して口に放り込み、答えた。
「さっき昨日のお粥の残りを食べたかと思ったら出ていったよ。人の子のいるところにはいられんとかなんとか言って」
そう聞いて、箸を持つ手から力が抜ける。私がここへ来たことで、化け猫さんの休む場所を取り上げてしまったみたいに思えてきて、一度そう思えてしまうと、なかなか拭えなかった。私はいいのに。化け猫さんは先日死にかけるくらいだったのだ。化け猫さんが、私がいることでここにいられないなら、私を追い出してくれればいいのに。
「どうしたの、目玉焼きにはマヨネーズ派だった?」
「あ、いえ」
手を止めていた私を、ヒヅキさんが覗き込む。向かいに座っているので、覗き込むようにした、程度だけれど。
私は醤油を引っ掴み、目玉焼きへ数的垂らす。ていうか、ヒヅキさん、マヨネーズ知ってるのか。と思っていると、台所へ上半身だけ這って出て、マヨネーズを出してきた。あるんだ。出してもらってあれだけど、私は目玉焼きには醤油派だった。
目玉焼きと茶碗一杯のご飯を腹へ入れると、心地よい満腹感と幸福感に満たされる。
「ごちそうさまでした」
「うん」
後片付けの手伝いの申し出は、今回も断られてしまった。ヒヅキさんが洗い物を終えてくるまでの間、私は部屋を何とはなしに眺めていた。
何もない部屋だ。掛け布団の取り払われた掘り炬燵と箪笥が二つ、茶箪笥がひとつあるくらいで、娯楽の類は何にもない。それでいて生活感はとてもするのだから、その差異に違和感を覚えた。箪笥の横の窓は大きいけれど、外に何が見えるわけでもなかった。障子戸が閉まっているのだ。今は電気をつけていなくて、部屋の中は薄暗い。
もしかしたら、あのたくさんの目は、明るいとまぶしいのかもしれない。
「ヒヅキさん、あの、その……普段は、何をしているんですか」
昨日の話を振られるのがどうにも怖くて、かといって黙っているのも耐えられなくて、そんな質問をした。
ヒヅキさんは背筋がいい。今も炬燵の中に足はいれず、しゃんと正座をしている。ただお茶をすする姿でさえ、ともすれば話しかけるのも躊躇うようなたたずまいだ。話せば丁寧に答えてくれることはすでに知っているので、話しかけるけれど、それは浮世離れとでも言えばよいのだろうか。本来は触れてはいけないもの、と、そんな印象がある。いや、百目の妖だから浮世離れも何もないのだが。
今日はもう袈裟に着替えている。昨日のとはまた少し違うデザインだけど、やっぱり僧侶には見えない袈裟だ。「ふだんねえ」とヒヅキさんは間の抜けた声で唸る。
「俺、ここの社を守ってるんだけどね」
「はい」
「でも、今、この町わりと平和だから、主の眠りを邪魔してやろうなんて不届き者もなかなかいないんだよ。だから俺のお仕事はほとんどないの」
「平和、なんですか」
「昔に比べたらね。ここはかがみの地だから、主が眠りにつく前はもっと神隠しだとか、多かったんだよ」
かがみ、というのはこの町の名前だ。かがみ市。地名はひらがなで書かれる。
「そうそう、かがみ、ってたくさんの漢字を書くんだけど、知ってる?」
「ひらがなじゃないんですか?」
「うん。たくさんの漢字を持つから、あえてひらがななんだと思うよ」
そのうちの一つが、過神。『神』が『過』ぎるだとヒヅキさんは言った。
「神――見鬼の『鬼』と一緒で、人ならざる者がたくさんいるって意味の名前。見鬼の人の子も、今よりたくさんいたしね」
見鬼の子が多ければそれだけ妖の興味を引く人の子が多いということだ。加えてそんな見鬼の子と一緒にいる人の子にもその匂いが移り、頭の悪い妖は間違えて攫ってしまうこともあった。結果として神隠しは多かったということらしい。
私は見鬼と言われても、いまだに実感は湧いていない。見鬼の子は目が赤いらしいけれど、ここに鏡はない。ここ数日の自分の顔を見ておらず、目の色なんて確認する機会もない。今までに妖の類を見たことは、もちろんない。
かがみの地は、人ならざる者がたくさんいる所為か、ほかとは違うらしい。私が他で生まれて育って、そのまま目覚めることはなかったはずの見鬼が目覚めたのは感化された、らしい。今かがみの地では、わけあって、見鬼の子はもう育たないらしい。
それはそうとして、ヒヅキさんは神隠しが多かった、と言った。私はその言葉に違和感を覚えた。神隠しとは人がされるものではないのだろうか。人から見れば、神に隠されたかのように見えるから、神隠し。実際は私のようになっているかもしれないけれど、それは人には計れないから。それとも妖間でもそういうことがあるのだろうか……?
「今は、主が穏やかに保っているから、神隠しは少なくなったんだけどね。そうはいっても、人を食べること自体が楽しいやつもいて、そのへんが難儀だ」
人を食べること自体が楽しい妖――アカガネさんのことだろうか。私のことも、見鬼だからここへ連れてきたようだし、食べれば力も増えるらしいし。そうであるなら、アカガネさんはまさしく鬼だ。穏やかにやさしく誘いいれて、食べ物を与えて逃げ場を失くし、そうしてから――食べる。
もしかしたら、あの晩、あそこを通った妖も、その類なのかもしれない。
「そういえば」
と。わずかな間隙を突くように、ヒヅキさんが切り出した。
「昨日、俺とあのひとの話聞いてた?」
「えっ」
あまりに唐突だったために、取り繕うこともできなかった。硬直する私にヒヅキさんは「ああ、いや、別に聞かれてまずい話はしてないよ。俺は」とゆるく手を振った。
「あの……、化け猫さんが消えてしまうみたいな、はなしですか」
「そう、それ」
消える、という言葉がおかしなほど震えた。
鼻の奥に線香の匂いが蘇る。
抑えた話声が鼓膜に響く。
恐ろしい白を思い出す。
手足がしびれるような感覚に、喉が引き攣る錯覚。あの日、あの光景の何もかもが遠退いたような――白。そう、それだ。喪服ばかりの黒いくらい空間で、その箱だけがひどく浮いていた。あるいは、光を伴っているかのような。
次いで、暗がりの中で揺れる白が脳裏を過った。ぼんやりと浮かび上がる、白。同じ白なのに、いやな記憶を蘇らせることのない白だった――
「――あのひとが消えないために」
その言葉で我に返った。たった数秒だったはずなのに、冷汗がすごい。震える指を隠し、息を整える。この直前の言葉を聞き逃した。
「すみません、もう一度いいですか」
「うん? あのひとの名前を聞いて、覚えていてほしい。あのひとが消えてしまわないように」
「なまえ?」
名前って、存在を肯定する唯一、とかなんとか言っていなかっただろうか。名前を知らしめるのは危険な行為で、人ならば、なおさら。言っていることが違っていて、私は眉根を寄せる。
「あのひとの場合はもうその範疇じゃあなくてね。名前を残さないと」
ヒヅキさんは溜め息交じりに言う。茶箪笥の二段目から出した飴を私に放り投げる。
体から黄泉のものを抜くには、なるべく人の世の食べ物を口に含んでいたほうがいいらしい。素直に受け取り、口に含む。ヒヅキさんがなぜこうも人の世の食べ物をたくさん持っているのか、聞いてみれば「人の世の食べ物が忘れられないものが多くてねえ」と答えになっているのかなっていないのかわからない言葉が返ってきたのは記憶に新しい。
ころころところがし、甘い味が口内を満たしていく。もう一つ、セロファンに包まれたままの飴を、ヒヅキさんは投げて寄越した。
「人の子。俺が覚えていても意味がない。ちゃんと現世に身を置き、生きる人の子でなければ」
だから頼む、とヒヅキさんは神妙な表情をした。その顔は相変わらず表情が薄かったけれど、その語気に妙な切実さを感じて、私は首を横に振ることができなかった。
化け猫さんが私のいるこの社に帰ってくるのか、甚だ疑問だったけれど、日の落ちる前に化け猫さんは帰ってきた。ヒヅキさんの「どうせ安心して寝られるところもないんだし帰ってくるよ」との言葉は本当だった。
化け猫さんの名前。一度訊いたときは断られてしまった。訊いてとは言われても、どう聞いたらいいのか。
そもそも、ほんとうに私が聞いてもいいのだろうか。なぜ私でなければいけないのか。いや、私でなければいけない理由は明白だ。ヒヅキさんは生きる人の子でなければだめだと言った。それはたぶん、前に話してくれた名前は人との間に強く意味を持つ、ということに関わるのだろう。だから私なのだ。この地に見鬼の子は育たない。きっと、今いる見鬼の人の子は私だけなのだ。
そうであると、頭の中で、理屈としてはわかっていても、迷いは消えなかった。ただ、消える、との言葉の恐怖に勝るものはなかった。
意を決する。むりやり迷いを押し固めて、すうと息を吸い込む。
気を遣わせない聞き方なんて知らない。
心に不躾な足跡をつけない聞き方なんて知らない。
だから、聞くならば、まっすぐ。澱みなく。
ヒヅキさんは夕食の支度をしている。私と化け猫さんは居間で待機だ。夕食が終わればまた彼は早々に休んでしまうだろう。タイミングとしては、今しかない。
「あの、化け猫さん」
「なんだ」
「化け猫さんのお名前、教えてください」
化け猫さんの息を呑む声がして、ヒヅキさんが火を止める気配がした。
恐る恐る化け猫さんの顔を伺う。――凍り付いたように、固まった姿。
「――おい、ヒヅキ。おまえの差し金か」
ばれている。そして怖気の走る底冷えした声音だ。思わず肩が跳ねた。
台所と居間を隔てる布を捲り、ヒヅキさんが顔を出す。「そうだけど」
化け猫さんの目が細くなり、鋭い眼光がヒヅキさんを睨む。相対するヒヅキさんは手にした皿を啜った。味噌汁の味見でもしていたのだろう。こんなもんでいいかなあなどと呟いている。
化け猫さんの発する気配が冷えているのに、意に返さないヒヅキさんを見ていると、こちらの肝が冷える。化け猫さんの触れられたくない話題に触れたのだ、怒っても仕方がない。
「どういうつもりだ、ヒヅキ。オレは人の子と縁を結ぶ気なんてないって言っただろ」
「そうしてあなたが消えてしまうことを、俺はよしとしない、とも言ったよ」
「……余計なことすんな。所詮おまえみたいな中途半端な若造にはわかんねえよ」
「だったら、なんでこの子のいるここへちゃんと帰ってくるの」
目に見えて、化け猫さんの動きが止まったのが分かった。冷えた殺気が緩む。
ヒヅキさんは一度台所へ引っ込み、小皿を置いてきた。じゃらりと玉暖簾が揺れる。心配を受け入れない化け猫さんに苛立っている様子は特にない。
「いつもはこんなとこそう何度も来ないでしょう。ほんとうは外でだって寝られるでしょう。なんで来てるの。――あなたが、猫だからでしょう?」
「……っ」
ヒヅキさんは緩やかに言い連ねる。化け猫さんは黙り込む。私のいる位置からは化け猫さんの顔は見えず、ただその気配に冷たさの一切を感じなくなったことに肩の力を抜いた。ヒヅキさんは「俺ね、あなたのことが大切だから、言うんだよ」と小さく、力なく言った。
化け猫さんがおもむろに立ち上がる。咄嗟のことで声も掛けられなかった私の横をすり抜け、社を出ていった。
「追いかけて」
ヒヅキさんが、間髪入れないでそう言った。
「あのひとね、もうずっと人に関わってないから、少しこじれてるだけだ。そう遠くへは行ってない」
「……わかりました」
私は化け猫さんが出ていった、そのあとを、追った。
社を出ると、すぐ急な石畳の階段がある。左右には石灯籠が並び、そのさらに外側は薄暗い林になっている。だからだろう、社の中が昼間でも薄暗いのは。この道も、同じだ。
どっちへ行ったのだろう――と首を回す。そう遠くへは行ってないはずと言うヒヅキさんの言葉を信じるとしても、この階段は下っただろうか。昨日化け猫さんを捜しに行くとき、林は危ないと言っていた。ヒヅキさんでも滅多に入らないというくらいだ、きっと化け猫さんも入っていないだろう。
階段を下る。日はずいぶん傾いた。自分の影が下に落ちて、足元が見えなくなる。足元が揺れているような感覚に陥り、階段の下へ落ちていってしまいそうだ。胃が冷たくなる。落ちないように気を確りと持ち、一歩を確実に踏みしめ降りた。
化け猫さん。こんな道を下って行ったのか。地の底まで落ちていけそうな、この暗い階段を。
ひとが、消えるのは怖い。誰かがいなくなるのが怖い。この先で、化け猫さんがいなくなっていたらと思うと恐ろしい。
私が今行かなければ――化け猫さんはほんとうにいなくなってしまうのだろう。
深まる闇が足へと絡みつき、這い上がってくる。足が重くなる。声をあげれば、真黒へ飲まれてしまう。
「――」
呼ぶ。返事はない。ないけれど――
真黒の中に、浮き上がる白を見つけた。数段下の、灯篭の脇だ。足を抱えてしゃがみこんでいる。
三角の大きな耳がへたりと垂れて、ひどくかなしそうだ。ヒヅキさんと話しているときのような威勢はどこにもなく、ただ寂しそうに。ひとり、ぽつんと、泣いているように見えて。
その後ろ姿は、なんだか、今までの――私によく似ていた。
「化け猫さん」
今度は声がちゃんと響いた。化け猫さんの耳がぴると動いた。けれど、こちらは向かない。
私は化け猫さんの隣まで下りた。化け猫さんは、腕をぎゅっと抱え込み、灯篭の影へ隠れるように体を小さく丸めていた。もう一度、呼ぶ――「化け猫さん」
「戻りましょう、化け猫さん。ヒヅキさんが作った夕食が無駄になってしまいます」
反応はない。私はそこへしゃがみこみ、さらに重ねて呼んだ。
すると、化け猫さんが何か声に出した。か細くて聞こえない。聞き返す。
「……え、なんて」
「化け猫さん?」
「名前なんて、もうとっくに忘れてしまった」
他の音がすべて取り払われて、その言葉だけが正しくとんと響いた。
「オレの名前。かつては、あったんだ。ちゃんと。でも、今は、それが――ぜんぜん、思い出せない」
「――」
息をつめた。忘れてしまうなんてこと、あるのだろうか。存在を肯定する唯一。それがなければ存在を許されない。それほどのものを。なければ存在できないというのならば、順番があべこべではないのか。いや、だからこそ、だろう。名前を失くし、存在が許されないから、こうして消えてしまう心配を、されている。
化け猫さんは顔を膝に埋めたまま、肩を震わせている。その弱々しい、子猫のような姿が、すべてを物語っていた。
教えないのではなく、教えられない。乗せられるまま訊ねた、私の浅ましさに目頭が熱くなった。ヒヅキさんは知らないのだ。彼に、すでに名前がないことを。泣くわけにはいかない。だって悲しいのは私ではない。だってこれは、化け猫さんを思っての涙じゃないのだ。
「どんな名前だったかも――何も、ですか」
「なにもだ」
「耳に残る音とかも、なにも」
手を、取るか迷った。さみしいとき、つらいときに他人の手がどれほど救いになるか、私にはわからなかった。触られることはいやかもしれない、と、逡巡した。
「ああ――いや、ちがう」
伸ばしかけて、行先をなくして、空を切る私の手が頭を抱えなおす化け猫さんの腕に触れる。それにびくっと体を跳ねさせたのは、私だったのか、化け猫さんだったのか。
「ちがう?」
「ちゃんと、意味をつけてもらった。オレへのお守りと、あのこのねがい」
「……なんだ、化け猫さん、ちゃんと大事なもの覚えてるじゃないですか」
化け猫さんがそろりと頭を上げる。色の違う両の目と私の目が合う。涙の膜が厚く張り、眉根の下がるその顔は、ずっと幼く見えた。
「化け猫さんへの、お守り。どんなものなんでしょう」
「幸くあれって――すえひろがりを、って言われた気が、する」
すえひろがり――『八』だろうか。幸せを願われた、良い名だったのだろう。
そして、私は一つのことに思い至る。
名前が存在を肯定する唯一、ということは、彼を示す名前があればいいのではないか。今ここで、呼び名を考えればいいのではないか。仮名であっても、思いを込めた名前であるのなら、その名前を受け入れてくれるのなら、彼はその名前を持てることに、ならないだろうか。
それは、希望でしかなかった。願いでしかなかった。すがるしか、なかった。
「ハチさん」
と、口に出してみる。化け猫さんはきょとんとして、わずかに首を傾げた。
「化け猫さんは、今から、ハチさんです。ほんとうの名前思い出すまで、それを、あなたの名前にしてください」
――この時の私は、化け猫さんの不安を取り除きたい一心だった。実際化け猫さんは、ぽかんと口を開けて呆けて、そのあとたっぷり三秒をかけて瞬きした後、「おまえ、それ」と乾いた声でつぶやいた。
「おまえ、それ、そんなの、人の子にしか思いつかねえわ」
ふは、と口元を抑えて笑う化け猫さん――ハチさんに、私はわかりやすく安堵した。それまで妙に静かだった心臓の音が急に全身に伝わるようになり、汗を握っていたことに気付いた。それを服の端でこっそり拭い、私はすっと立つ。
胸がざわついた。苦しい。この笑顔を見ていると、心臓がさらに強く跳ねて、張り裂けそうになって、涙が出そうになる。さっきとは違う、目頭の熱さだ。何か言いたいことがあって、でもそれが何かわからず、喉が痞(つか)える感覚があった。理由のわからないそれに無理矢理蓋をして、平静を装って言う。
「じゃあ、ハチさん、帰りましょう。それで、ヒヅキさんの作った夕飯食べましょう?」
「ああ、うん……」
様子が変だった。返事はするのだが、ハチさんは立ち上がる様子はない。改めてみると、足を抱え込むのをやめた分、その体が闇に浸かってしまっているようだった。
「ハチさん?」
ハチさんを呼ぶ。ハチさんはゆっくり段差に手をついて、腰を上げて、そのまま上半身も上げようとして――まさにその瞬間、がくんとくずおれた。
「ハチさん!?」
返事はなかった。とっさに伸ばした腕の中に、ハチさんの体が収まる。体温も、まあ、温かい。ちょうど猫一匹分くらいの重さの体を支えるのはそう難しくはなかった。だが、頬を叩いてみても、耳元で呼びかけてみても、返事どころか反応も示さない。
足が真暗に沈んでいる。それをどうにか引き揚げ、階段を一段ずつ上る。ハチさんの足先を引きずってしまっているのは許してもらうほかない。真暗の黒がハチさんの足へ纏わりつき、ねっとりと跡を残していく。日はすっかり沈み、赤い提灯に火がともっているのが見えた。たぶん、社の入り口にさがる二つの提灯だ。もう数段も上れば提灯も見えるだろう、そうしたらきっと心持が楽になる。
「あーあ」
聞き覚えのある声だった。途端にじわと緊張が肌に滲む。背後というか、斜め後ろの林のほうから、聞こえてきた。肩越しに、わずかに振り返る。
アカガネさんだ。
私をここへ連れてきて、やたらめったいろいろを食べさせ、最後に私も食べようとしたひと。いや、食べようとしたその事実はべつに怖くはない。怖くはないけれど、肩越しに振り返った際に見えたその顔に――恐怖を覚えた。
やさしく、人当たりよく、微笑んでいたあの笑顔とは程遠い。まさしく妖が如き迫力の無表情。そう、無表情だ。なのに、これほど底冷えする恐怖を覚える。光のない目がじっと私を見ている。目尻がきつく吊った、金色の目。足がすくむなんて表現すら比喩ではなく、どころか生温い気さえしてくる。
真暗の林の下で、彼の赤は驚くほど浮いている。ハチさんの白とは違う。まるでそこだけ燃えているようだ。よくよく見ると、その羽織のデザインは私が借りたものとは違っている。ヒヅキさんはまだ返していないのだろうか。
「その猫に名前上げちゃったんだねえ。これでいましばらくは生き永らえられるね。でも、いましばらくだ」
アカガネさんの口角が吊り上がる。にやにやする、というには狂気じみている。口元以外はなんら変わらない無表情で、髪の影になって片目が見えないのもそれを助長しているだろう。
「ねえ、聞いてるかい。君はそうして彼に名前を与えたけれど、それが長続きするはずもない。名前は確かに存在を存在足らしめるものだけれど、仮初の名ではいつまでも持たない。――だって、君は名前を明かしていない」
何がおかしいのか、アカガネさんはからからと笑う。林と石段の近くまでは来ているけれど、その境を乗り越えようとはしていない。希望的観測かもしれないが、こちらへは来られないのかもしれない。
無視だ。
無視に限る。
ヒヅキさんは話しかけられても返事はしてはいけないと言っていた。アカガネさんの言葉に耳を貸してはいけない。そう自分に言い聞かせて、私はハチさんを支え直し、階段を上がり始めた。
アカガネさんの、くすくすという笑い声が鼓膜をくすぐる。
「ねえ、ねえ、見鬼の子。その猫はいまに堕ちるよ。堕ちて、君も、君の大切なものもぜーんぶたべてしまうだろうね。どうだい、そのまえに、こちらへおいで。野蛮な化け猫を食べてやろう」
無視する。階段はもう残り二段。社はすでに見えた。
「だってそうだろう? 名前はそんなにも安いものじゃあない。相応の重みがあるよ。願いがあるよ。下手をすればつけられたほうもつけたほうも、その重みに耐えかねてつぶれてしまうかもしれないくらいに。そんなにも軽々しく、浅ましく、分別なく、適当に――扱っていいものじゃあない。なあ、そうだろう、見鬼を持つ、優しいやさしい人の子よ」
聞いてはいけないと言い聞かせて、その言葉だけで脳を埋めた。耳を貸してはいけない。心に入る余地を作ってはいけない。
「ああ、それほどその猫が大切かい。会ったばかりなのに。なんにも知らないのに。父を亡くし、母に見限られ、祖母にも嫌われているのではないかと怯える弱い人の子。その猫は言ったのだものな、『おまえがいなければ』と」
無視する。境内に足を踏み出す。
「その猫は君に会えたから、わずかばかりに命が伸びた。生きたくもないのに命が伸びた。今もそうだ、君は永遠に彼を助ける方法など持ちはしないのに、不用意に名を上げた。それがどれほどつらいことなのか、君は知らないのにな。たった一度言われた言葉に醜くしがみついて、離すまいとしばりつけて、でもそれは君の、君自身のみを救う欺瞞。だって君は――己が名も賭けちゃいない」
境内に上がってしまうと、無視するまでもなく、アカガネさんの声は遠のいた。ここに、あのひとは入れないらしい。ハチさんを抱え上げ、境内に乗せきる。その際には、すでに、あの燃える赤はそこにいなかった。
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