夏暁の青

日櫃 類

第一話 「真っ白の猫、赤い鬼 前編」




 猫を拾った。

 薄汚れてはいるが、混じりけのない白であったのだろう毛並みを持つ猫だ。夏だというのにその肢体は冷え切り、死んでいるのかと息を詰めた。恐る恐るその前足の隙に手を入れてみる。

 暖かい。よかった、生きている。わずかに呼吸を繰り返しているのを確認すると、どっと心臓の音が強く感じられた。

 猫の様子は目立った外傷がなく、見た目だけならそうひどくはない。ただ、とても痩せている。皮の下に肉を挟まず、すぐに骨が存在している。何も食べていないようだ。これで、よく、生きている。

 そっと立ち上がると、その猫を連れて、帰路を急いだ。

 帰路というには――正しくはない。

 行先は祖母の家。今までで育った家ではなく。訪れるのもこの夏が初めての、縁の薄い家。

 夏休みに入ってすぐに来て以来、七日ほどが過ぎた。祖母は優しい人だから、あまり会ったことすらない私が唐突に家を訪ねても嫌な顔一つしないで迎えてくれた。訪れた理由すら離さない私に、多くを訊かないでいてくれる。

 それが、私には、辛いのだけれど。

 だって、その優しさを享受していい立場に私はいないだろう。

 おかあさんが再婚する。そう聞かされたのは、夏休みに入る直前だった。その話をされてすぐに、私は祖母の家に行くための電車へとびのった。

 衝動的だった。あまりにも驚いて、おかあさんの顔を見ていられなくなったところまでははっきりと覚えている。

 父が亡くなって、半年。半年も経っていないかもしれないのにもう新しい人を見つけた母が信じられなかった。

 だって怖かった。新しい父ができるなんて、怖くて、怖くて――怖かった。

 腕の中でかすかに息をする猫が少しだけ身を捩った。冷たい体を温めるぬくもりを探しているようだった。私はその体を強く抱きしめた。

 自分が親に見捨てられたように、この猫が何かに見捨てられたように見えて。

 死んでしまったら、私も死んでしまうような気がして。

 だからその体を抱いて走った。


   ◇


 その翌日、部屋の隅に寝かせていたはずの猫はいなくなっていた。一緒に置いていたソーセージがきれいに皿の上からなくなっていたので、食べて出て行ったと考えらえる。元気になってくれたのならば、幸いだが。

 私は居間へ下りた。猫のことは少し残念に思えたけれど、昨日の私は妙に錯乱していた。猫が死んでも、私が死ぬことと繋がるわけではないのに。


「ごはん、できてるよ。食べる?」

「……たべる、ありがとう」

「はいはい」


 祖母は白いご飯に味噌汁、少しの漬物と卵焼きを出してくれた。私は朝食をあまり食べないので、どれも少量用意されている。初日の食事に食べきれる量を大きく超えた食事を無理に詰め込み、吐いてしまってからこうだ。出されたものを残す方が嫌だっただけなのに、結果心配を掛けてしまった。

 もぐもぐと咀嚼する。優しい味が寝ぼけた脳を覚ましてくれる。

 このかがみ市の夏は暑くないわけではないけれど、朝は涼しい。東京にいたころと大違いだ。風は涼しいし、爽やかで緑の匂いがする。

 今まで過ごしたことの無い町の気候はどこか現実味がない。何も考えなくて済む。

 ご飯を食べ終わると、私は祖母の分と合わせて皿を洗う。洗って、昼まですることもなくぼんやりする。

 ここへ来てから、およそ食べて寝る以外の何もしていない。




 その夜。

 私は眠れずにいた。夜は好きではない。昼間は遠くを眺めていれば忘れられることも、暗い場所にいると自分しか見えない。

 私に貸し与えられた二階の部屋は広く、部屋の隅に誰かいるような気がしてしまう。怖くて、そのうちに自分がいるような気がして、母の顔を思い出してしまう。それでなくても、ここへ来てから、おかしな夢を見るのだ。

 その夢は、内容は覚えていなくても、目覚めがよくない。心臓が締め付けられるように痛んで、でもその原因がわからない。できることなら味わいたくなくて、私は眠ることも――したくない。

 私はのそのそと布団から這い出た。すすと障子戸を開けると、廊下に月明かりが満ちていた。階段下に祖母の部屋があるため、私は静かにそろりそろりと降りる。

 台所に入り、コップに水を注ぐ。風が良く入るから過ごしやすい夜だが、喉が乾いた。一杯飲み干し、もう一杯。そのときだった。

 蛇口の奥にある擦りガラス。その向こうがふいに明るくなった。

 台所の外はそれほど高くない塀があり、その先は道路だ。夜遅くだが、最初は車のライトかと思った。しかし、それにしては明るすぎるし、ゆらゆらと揺らめいているのは奇妙に思えた。

 首を傾げていると、ピーという甲高い音が鼓膜を揺らした。そっと裏口の戸を開けてみる。半分だけ顔を覗かせるだけでは道路の様子はしっかりと見えないが、私は、息を呑んだ。

 火の玉が舞い。

 ふわりと浮く傘がいて。

 向かいの家の屋根を軽やかに走る二足歩行の狸がいた。

 塀の上に覗く頭は禿げていたり角が生えていたりしている。あるいは、動く茶器に二等身のまるまるした少女のようなものみたいな、人の姿を大きくかけ離れた姿をしているものがいる。あれは――何?

 恐怖よりもわずかに好奇心が上回る。衝動に駆られて、ふらふらと塀に寄った。身長は塀より低いので、向こう側から気付かれることはないだろう。そっと塀の隙間から様子を伺う。

 音楽を奏でるものがいる。楽しそうなお囃子だ。酒らしきものを呷っているものもいる。数メートルに渡って寝静まった町を練り歩くそれは、人ならざるもの――妖の類だと直感した。

 息を潜め、その様子を食い入るように見ていると、やがてそれらは去っていった。音も光も遠ざかったのを確認すると、私は塀の隅に取り付けられた戸からそっと顔を出す。

 そこにはすでに何もいない。今のは一体なんだったのだろう。私は目をこすり、道路へと出る。

 夢にしては、はっきりしていた。提灯や火の玉の熱が未だに肌へ残っている。

 しかし、あんなものを見たのは初めてだ。人が訳の分からないものに出会うと、思考が止まるというのは間違いではないようだ。絵に描いたかのような、あるいは何かの物語の中から出てきたかのような、幻想的なまでに百鬼夜行を体現した光景。こうして古びた電灯のみがちかちかと光るだけの道路を見れば、やはり何かの夢だったのだというほうが納得がいく。

 茫然自失。開いた口を塞ぐことも忘れて、私は道路の先を見続けた。すると頭上から、


「君はあれが見えたのか?」


 との声が降って来た。

 ぞわっと寒気が走る。全身の産毛が逆立ち、体が硬直する。肌が粟立つというのは、こういうことを言うのだ。

 強張る体をどうにか動かして、声の主を振り返る。首が、関節が、ぎぎぎと鈍く音を立てている。振り返らない方がいいと本能に訴えかけられても、だめだ。見ずにはいられない。いっそ操られているかのようなぎこちなさで体が動く。


「おお、見事な赤い目だ」

「……ッ」


 吸い込まれそうな金の目が、見下ろしていた。

 塀の上にしゃがみ込み、左手で肘をついている。反対の手で持った提灯が顔を赤く濡らして、つくりのいい顔に影を濃く落としていた。赤い髪が僅かな風に揺れてその存在のあやふやさが際立つ。そのひとは、


「めずらしい、久しぶりにケンキの子に会えたね。どうだ、君。おれとすこし遊ばないか」


 と、人懐こい笑みを浮かべた。濃い影の落ちた笑顔は裏があるように見えるのに、嫌な感じはしない。提灯をゆらゆらと揺らす子どもっぽい仕草のせいだろうか。


「あそ、ぶ?」

「なあに、朝には返すさ。さっきの集団、気にはならないか?」


 にこにこと美しく笑い、そのひとは道路の先へ提灯の先を向ける。

 さっきの集団――気にならない、といえば嘘になる。あれが夢でないというのなら、その正体がどういうものなのか、それには確かに興味があった。

 塀の上の赤い人を、まじまじと見る。筋肉質で体格はいい。肩に引っかけただけの羽織の下から覗く腕は私と比べ物にならない太さだ。たぶん、背も高い。

 このひとが喋る時、牙が覗いていた。身に纏う雰囲気も人懐こさこそあるものの、どこか浮いているような、触ろうとすれば消えてしまいそうな曖昧さがある。ついていって、ほんとうに朝に返してもらえる保障はない。この体格差ならば、逃げ出すことも不可能だ。

 だけど。

 私はついていく決断をする。祖母が眠っている家を振り返ることもなく。


「――ぜひ」

「よしきた。俺はアカガネ、珍しい客人の君を丁重に案内しよう」




 アカガネさんに腕を引かれて辿りついたのは、提灯や灯篭が数多く並ぶ、古い町並みの場所だった。よくよく見れば人が住まなくなって久しい様子の空き屋ばかりだ。町はずれの小さな木戸を抜けた先にこんな場所があるとは知らなかった。知らないも何も、祖母の家から商店街あたりまでしか行ったことがないので、当然だが。

 道の両端に夜店が立ち並び、妙に熱が篭っている。頬が火照る。食べ物を売っている店から何を扱っているのか検討もつかない店まで法則なく連なり、うっかりすると目移りしてしまう。なんとなくポケットに財布を探して、そういえば寝巻きのまま来てしまったと気付く。財布は無く、当然携帯電話も持ってきていない。

 そのことに気付くと、急に不安が押し寄せてきた。やっぱり帰ろうかと肩越しに振り返るも、異形のものたちで溢れかえっており、来た道がすでにどうだったか分からない。掻き分けて帰るのもそれはそれで心細く、怖い。


「何か食べる?」


 アカガネさんがふと目線をこちらに寄せた。吊り目だからだろうか、眼光が鋭く見えた。帰ろうと思ったのが見透かされた気がして肝が冷える。

 アカガネさんは小首を傾げ、ふわりと笑ってみせる。笑えば、鋭い目付きは緩和されて、肩の力を抜くことが出来る。


「あの、いえ、お財布持ってきてないので」

「おれが勝手に連れてきたんだから、好きなの食べていいよ。買ってあげる」

「いや、でも」


 それは悪い。さっき会ったばかりのひとに。

 そういう内容のことを伝えると、アカガネさんは「気にしなくていいのに」と眉尻を下げた。かと思うと、最寄の店へ足を止め、丸い器を二つ、買ってきた。器の上には赤い蜜のかかった氷。かわいい形に切られた果物も乗っている。色とりどりの具が見る目に既に満足感を与える。私が知っているものよりも豪華だけど、これはカキ氷だ。


「これ美味しいんだ」

「あの、これ」

「食べておいたほうがいいよ。後悔はしない味だから」

「……ありがとうございます」


 アカガネさんはスプーンでざくざくと掻き混ぜ、私もそれに習う。氷は柔らかく、スプーンに触れると、そこがじんわりと溶けてシロップと絡む。

 ありがとうございます、いただきますとアカガネさんに言ってから、一口。いちご味、に近いだろうか。スプーンいっぱいに乗せて頬張った氷は舌に触れた途端ほろほろと消え、心地好い冷たさの次にシロップの甘さが口いっぱいに広がった。今度は果物と一緒に口へ入れると、しゃくしゃくと半解凍の触感に感動を覚える。たかがかき氷ではない、初めて食べるような味だ。


「おいしいです」

「な」


 アカガネさんは優しい笑みで言う。自分のカキ氷から果物をいくつか私の器に落としてくれた。嬉しい、果物は好きだ。

 歩きながら食べるのは転びそうだったけれど、そこはアカガネさんがひとにぶつからないように庇ってくれたり、ゆっくり歩いてくれたりした。提灯の熱で氷が溶けてしまわぬようにと私ができるだけ急いでカキ氷を食べていると、アカガネさんがふと立ち止まった。


「さて、着いた」


 どこへ、とは聞かずとも分かった。カキ氷から視線をあげた先がひらける。

 広場だ。中央で大きく火が焚かれ、その周りを多くの影が囲んでいる。天を衝くほど大きな炎の柱。踊るものたちの中にはさっき見たあの異形のものたちがいる。なにやら陽気な歌を歌いながら踊っている。笑い声ばかりだからだろう、恐怖はない。

 楽しそうに騒ぐそれらをじっと見ていると、頭に何か被せられた。


「それを羽織っていな。人の匂いはそれで隠せる」

「人の匂い……分かったら、まずいんですか」

「まずいね。ケンキの人の子は珍しいから、喰われてしまうかも」


 だからそれを目深に被っておきなさいとアカガネさんは私の頭をぽんと撫でた。渡された上着は、アカガネさんが今まで着ていたもので、羽織のようだがフードが付いている。私は袖を通し、言われたとおりフードを深く被った。

 アカガネさんは私を火から少し離れたところへ座らせ、「おいしいものいっぱいあるからね。てきとうに持ってきてあげる」と料理が乱雑に置かれたテーブルへと向かった。アカガネさんの羽織は、夏に着るには厚手だったけれど、着ていて暑くない。むしろ飛んでくる火の粉が顔に掛からなくていい。

 宴を堪能する妖たちの姿を眺めた。妖たちは時折店へ何かしらを買いに行っては、帰ってきてまた騒ぐというのを繰り返しているようだ。


 ――楽しそうだ。

 角のある大男が。

 一つ目の少女が。

 真っ白な大犬が。

 あるいは手足のある器物たちが。

 各々が酔って踊って食べて騒いで。

 小さな頃、両親に連れられて行った夏祭りを思い出す。その祭りはそう大きなものではなかったけれど、いろんな人が一様に祭りを楽しんでいて、両親もそれは例外ではなくて、それがとても嬉しかったのをよく覚えている。


「よお、ちまいの。一人か? 見ねえ顔だな」

 唐突に声を掛けられ、肩が跳ねた。それは私がちまいのといわれるのは当然と思えるくらい大きかった。毛深い腹がまず目に入る。フードの中が見えないよう、覗かれない程度に顔をあげる。

 酒瓶を三本も抱えた大狸だった。顔は赤く、目の焦点があまり合っていない。大分酔っているようだ。覗き込むように顔を近づけてくる。酒臭い。


「あん? そりゃアカガネの羽織か?」

「分かるんですか?」

「そんな鮮やかな赤を着るやつはアカガネとヒヅキくらいだからなあ。ヒヅキはこういう場に滅多に出てこねえし」

「はあ……」

「アカガネが他人に羽織を貸すたあ珍しいな。あんた、ひょっとして――」


 そこで狸はぐいと瓶を呷り、酒瓶がひとつ空く。後ろへ瓶を放り捨てたその手で私のフードを捲ろうと手を伸ばす。わずかに身を引き、それを避けようと、


「おい狸の爺さん。そりゃおれの連れだ、手ェ出してくださんな」


 する前にアカガネさんが狸の手を捕らえた。烏賊焼きを咥え、瓶やら料理やらを器用に片腕で抱えている。


「おうおう、アカガネ。そんな怖い顔するなよ、おまえのもんを取るとあとが怖えかんな」

「酔っ払いに絡まれるほうがよほど怖いっての」

「はっはっは、一緒になって酔っちまえば怖くなくなるぜ!」


 狸は盛大に笑い、三つ目の酒瓶をそこらへ放り捨てた。二つ目、いつの間に呑み終わったのだろう。狸はアカガネの持った酒瓶を一つすっと抜き取り、それを持って立ち去った。

 酔っ払いとは思えない手癖だ。アカガネさんもあきれたようにため息を吐く。


「まったく油断も隙もない。……さあ、君、これでも飲みな」

「あの、でも、これお酒じゃあ」

「ただの水だ、米から作った」


 薄いガラス瓶に入った液体は透明で、からからに乾いた喉がこくりと鳴る。すんと匂いを嗅いでみる。僅かに甘いような匂いがする。ただの水というアカガネさんの言葉は、たぶん嘘だった。けれど、それ以上に喉の渇きが上回る。私はその瓶を受け取ると、小さく傾けて、おそるおそる飲んだ。

 美味しい。微量の炭酸が入っているらしく、含んだその瞬間にしゅわっと口いっぱいに広がった。微炭酸が喉を焼く。瓶を持ったときには冷たく感じたが、氷で冷やされた口内はほんのり温められた。さらにもう一口、二口と。気付くと瓶は空だった。


「気にいったようで何より。ほら、食べるものもたくさん持ってきたから」

「あの、そんな、すみません」

「いいよ。せっかくきたんだ、楽しんでもらいたいからな」


 そう言って、アカガネさんは持ってきた大量の料理のうち、手始めに野菜と麺を一緒に炒めたようなものを私に勧めてきた。



 どのくらいの時間が経っただろう。差し出されるまま料理をつまみ、満腹になった頃。

 アカガネさんはいろんな料理を持ってきてくれたのだけど、当然私一人で食べきれるはずもなく。食べきれない分はアカガネさんが食べてくれたので、久しぶりに満足感を味わえた。

 途中で狸以外の妖にも話しかけられて、そのたびにアカガネさんが追い払っていた。どうもアカガネさんが羽織を貸したり、連れがいることが彼らにとって珍しいことだったらしい。アカガネさんは私がそのひとたちと話をする前に追い払ったし、アカガネさんの隙をついて話しかけてくるひとはみんな愉快だったので、別に怖くはなかった。

 恐ろしい見た目のわりに、みんなただ楽しく呑んでいるだけのようだ。その空気に私ものまれていて、ふわふわと楽しい気持ちに包まれる。


「そういえば」


 アカガネさんがふと思い出したように声を出した。


「君の名前を、聞いていなかった」


 そういえばそうだ。アカガネさんは最初に名乗ったけど、訊かれなかったからかすっかり忘れていた。


「教えてくれるかい」

「あ、はい。私の名前は――」

「――おい、アカガネ」


 名乗ろうとした私は、凛とした声に遮られた。私がそっちを振り返り、その後ろでアカガネさんが盛大に舌打ちした。舌打ち。舌打ち?


「それ、人の子だろう。何をしている」

「何って、分かって訊くのか? 見てのとおりだ。見ろ、この見事な赤い目、見事なケンキだ!」


 声の主は二十歳前後の青年だった。白い髪が雑多な空間でも清廉によく目立つ。青年のすっと細められた目を向けられ、アカガネさんは高らかに言う。先程のような優しい笑みは鳴りを潜め、声が熱を孕んで大きくなり、興奮しているのがわかる。箍(たが)がはずれたのか、狂ったように笑い、私を引き寄せた。腕の中に閉じ込め、大切そうな手振りで首に指をかけた。

 困惑してアカガネさんと突如現れたその人を交互に見比べる。やはり飲まされた水は酒だったのだろうか。顔が熱くて、耳鳴りがして、頭がぼんやりして思考が追いつかない。

 二人は、何を言っている。


「邪魔ァすんなよ、化け猫」


 く、と指に力が入る。首が軽く絞められ、力が抜ける。膝からくずおれそうになって、アカガネさんに体重を預ける形となる。


「そうは行かねえな――っと」

「えっ、あ、うわ」


 目の前の青年の体がぐらりと揺れたかと思うと、アカガネさんの横っ面に右足がしなやかに蹴りを叩き込んだ。アカガネさんの重心が後ろへいき、私を捕まえていた腕が緩む。アカガネさんと一緒に倒れそうになったところをぐいと強く腕を引かれた。足がもつれ、転びそうになるのをそのひとが支え、走る。肩が外れそうになる勢いだった。


「いってえ、くそ、化け猫――ッ!」


 そんな、アカガネさんの叫びが聞こえた。だけれどそれが追ってくることはなくて、広場へと置き去りにされる。

 赤い光に満ちる中で、そのひとの白い髪はひどく浮き上がって見えた。ぼうっとした視界で、その白がきれいだと思う。そればかりに気を取られていたから、どこを走っているのかも分からなかった。転びそうになるたびに支えられ、上手に足を踏み出すことができた。

 やがて私の息があがり、疲れでその一歩すら踏み出せなくなると、そのひとは走る速度を緩めた。どんどん暗くなる道を行き、長い階段を上って着いたのは、広場とは打って変わって暗い場所だった。古びた灯篭が入り口に二つ並び、その先にあばら家があった。大仰な木の戸には提灯がぶら下がっている。ほの灯りが妖しさを醸し出している。

 白い髪のそのひとは、臆することなく戸を勢いよく開け放ち、中へずかずかと入っていく。もちろん私の手を掴んだままだ。


「あ、の」


 声を掛けるも、振り返りもしない。

 沓脱(くつぬぎ)で草履を脱ぎ捨て、私にも靴を脱ぐように促す。幸い足に引っ掛けるだけのサンダルであったため、時間差もなくついていけた。衝立の奥へ進むと、雪洞が一つ、点いていた。


「おい、ヒヅキ」


 白いひとが声を掛ける。雪洞の向こうに丸くなったひとがいることに、そこで気付いた。祭壇のようなものの上に丸くなり、羽織をかけて眠るひとがいた。

 白いひとはその、眠るひとを蹴飛ばした。蹴飛ばされたひとは眉間に皺を寄せ、唸る。浅い眠りだったのだろう、または蹴りが痛かったのか。のろのろ体を起こした。


「……痛いなあ、なに?」

「人の子だ。アカガネに喰われるところだった」

「へえ。――ああ、なるほど、見事な赤い目だ」


 いつの間にかフードは取れていたらしい。そのひとは布団の上に胡坐をかき、あくびをかみ殺し、眠たさを残す左目をこすりながら、そのほかの十数の目で私を見つめた。そう、十数。

 袖や肌蹴た胸元から見える肌に、いくつもの目があった。それがいっせいに私の方を向いていて、じっと見つめられる中、私はくらりと意識を失った。


  

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