1-④
「あの……。お店は何時に開店でしょうか」
「十時に開店でございます」
「お菓子の予約をしてもいいですか? 開店時間になったら買いに来ますので」
「はい。どらやきですか?」
「どらやきも買いたいのですが、桃のお菓子が欲しいのです」
そう言って慶子さんは目当てのお菓子を見る。
すると、和菓子屋さんもその視線を追うように、桃のお菓子を見た。
「桃の菓子、『
「仙寿、ですか?」
「はい。仙人の仙に寿と書いて『仙寿』です。中国には食べると長寿になると言われていた桃がありまして。仙女が持つ園に三千年に一度だけ実をつける桃なんですけどね。これは、それにあやかって作られた
「……上生菓子」
「え?」
「いえ。ああいった和菓子って名前があったよなぁと思ったんですけど、思い出せなくて」
上生菓子。そうだ、そうだ。確か、そんな名前だった。
「仙寿は、おじいさまや、おばあさまにですか?」
「いえいえ。でも、そうですよね。普通は」
そう言うと、慶子さんは話すのを一瞬ためらったあと「母です。母にです」と話し出した。
「実は、わたしの母はずっと体を悪くしていて、入退院を繰り返していたんです。でもようやく先週、もう自宅療養でいいってことになって」
慶子さんはそこで一度話を切った。このまま、まだ話してもいいのかと迷っていると、和菓子屋さんは大きく頷いてくれた。
「母は、ほんとに日に日に回復して。わたし、すごく嬉しくて。病院の先生も、もう大丈夫って言ってくださって。家では母もリハビリだからって、お料理も少しずつしだして。母ったらわたしに『高校生らしい生活をしてね』なんて言い出して。『部活に入ったら』とか、『おけいこ事でもしたら』とか、うるさくて。でも、もう私は高校三年なので、部活もないだろうって話なんですけれど。大学付属の高校なので、受験はなくのんびりしていますけれど。でも、こんな時期に初心者の三年生を受け入れてくれる部活なんてないです。あったらどこにでも入ります。あぁ、そんな話じゃなくて。ええと。つまりですね。あのお菓子は母の為に。母に食べてほしくて」
慶子さんは、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「……先生は大丈夫っておっしゃったけれど。……お母さん、すごく痩せちゃって」
涙がぽろりと出た。
医者は、大丈夫だと言う。
母親もリハビリ代わりと言い、料理を始めた。
でも、その母親の腕は、慶子さんの知っている母の腕よりも一回りは細くなっていたのだ。
大丈夫、大丈夫と呪文のように唱えても、それでも、慶子さんは不安だったのだ。
こんな「気持ちのところでの話」は、家族にもしたことがなかった。
と、いうよりも、家族にこそできない話なのだ。
中学一年生の冬に母親が倒れてから、高校三年生にあがるこの春まで、慶子さんはひたすら耐えた。
病院にいる母親を心配させないために、母親を支える父親に心配をかけないように。
慣れない料理もしたし、洗濯もした。
付属とはいえ、あんまりな成績をとるわけにもいかず、それなりに勉強もした。
そして、病院へのお見舞いもできるだけ行った。
冬に眠っていたのは、木々の芽だけではなかった。
木々の芽が耐えた冬よりももっと長い冬を、慶子さんという木の芽は耐えたのだ。
そして今。
どらやきの甘い匂いに誘われて入ることになった和菓子屋さんで、慶子さんの木の芽は緩んだのだ。
「予約は、不要です」
和菓子屋さんは、するりとショーケースの裏側に入った。
「おいくつ、ご用意しますか?」
「み、みっつ!」
家族三人分だ。
慶子さんは涙を拭きながら慌てて立つ。
「開店前なのに、いいんですか?」
「一期一会ですから」
「え?」
慶子さんの疑問には答えぬまま、和菓子屋さんは手早く仙寿を三つ取ると箱に入れた。
そして、その箱にお店の包装紙をくるりと巻いた。
「おいくらですか」
慶子さんの言葉に和菓子屋さんは少し考えた後「一つ三百三十円ですので、三つで九百九十円でございます」と言った。
慶子さんが千円札を出すと、和菓子屋さんはお釣りを渡してきた。
和菓子屋さんは、箱を小さな紙袋に入れると、それを持って慶子さんの側までやってきた。
「仙寿は、三月のお菓子なんです」
和菓子屋さんは、ショーケースを見た。慶子さんも見た。
「仙寿だけでなく、この緑色した菜の花も、三月のお菓子です。もちろん、通年ご用意しているものもありますが、和菓子は季節とともに移り変わっていくのです。ですから、次回来た時に買おうと思っていても、季節が変わるともうなかったり。そのお菓子を食べるためには、次の年を待たなくてはならない時もあります」
「次の年、ですか」
「そうです」
だから、一期一会。
「ここの上菓子を全種類食べるには、一年かかるってことですよね」
慶子さんがそう言うと、和菓子屋さんの目がびっくりするように開いた。
「そうです」
「それは、すごく楽しいですね。命がぐるぐると繋がっていく感じがします」
慶子さんは素直にそう思った。
和菓子屋さんの説明を聞いたとき、来年もその次の年も、慶子さんは仙寿を買いたいと思ったのだ。 母親のために、そして母親の健康を願う、父親や自分のために。
大切なひとの長寿を願う気持ちは、昔も今も変わらない。その想いにより、このお菓子は生まれ、いまもここに存在している。慶子さんは、一個の和菓子に、永遠ともいえる時の繋がりを感じたのだ。
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