第16話 契り

 その晩。

 ディアナは心ここに在らずといった様子で、夜空を見上げていた。


「……好き……か……」


 あの後、ディアナはランドルフの告白に何と返せばいいのか分からなかった。

 戸惑い、黙り込むディアナに、ランドルフは一言「返事はいつでもいい」と告げて小屋の中へと入っていった。


 浴室の方から、入浴の音が聞こえる。

 裸を見られるのは、人間にとっては恥ずかしいことらしい。……まだよく掴めない感覚だが、何度もそう言われれば、意識してしまうようになってくる。

 ランドルフのたくましい体躯たいくは、見られると恥ずかしいものなのだ、と……


「……好き……恋……惚れた……」


 関連する言葉を次々に並べるが、ディアナにはよく分からない。

 分からないが、如何いかんともしがたい動揺が自分の中で渦巻いていることは間違いなかった。


「……っ」


 突然、ディアナの両眼から涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 原因が思い至らないまま、涙は次々に溢れて止まらない。


「風呂、上がったぞ」


 ランドルフの声が聞こえる。慌ててぬぐうも、溢れ出した涙は止まらず、頬を、指先を伝ってぽたぽたと床に落ちる。


「……! どうした!」

「わ、わからな……」


 自分が嬉しいのか、悲しいのか、ディアナには分からない。

 いや、おそらく、悲しいということはないのだろう。

 ただ……感情が激しく動きすぎて、自分でも


「……ひょっとして……嫌、だったか?」


 眉を「ハ」の形にし、ランドルフは言う。

 それに対しては、反射的に言葉が出た。


「ち、違う!」


 ランドルフの腕に縋り付き、ディアナは叫ぶように訴えた。


「い……嫌じゃ、ない。絶対に、嫌じゃない……!」


 だが、適切な語彙が導き出せない。

 ランドルフはその様子をじっと見ていたが、やがて、その身体をゆっくりと抱き締めた。


「あ……」

「ゆっくりでいいから」


 しゃくり上げるディアナの背中を撫で、落ち着かせる。


「焦らなくていい」


 自分を抱き留める体温が温かくて、心地よくて……


「困らせてごめんな」


 ディアナはぎこちなく頷き、その胸板に顔を埋めた。




 ***




 就寝前。

 ランドルフは自分の寝室でデイヴィッドの言葉を思い返していた。


「壊れてる、か……」


 彼女が苦難の生を送ってきたと、ランドルフにもある程度は察せられた。

 彼女が不死を憂い、ランドルフに介錯かいしゃくを求める理由も、特異な出自や家族との複雑な関係にあるのかもしれない……と。


 ──寄り添う覚悟がないなら、妙な下心は引っ込めな


 ランドルフはデイヴィッドの忠告を思い返し、続いてディアナの肩を震わせた姿や、泣きじゃくる姿を思い出す。


 ……そして、頬を朱色に染めた微笑も……。


「……何があったのかは、知らねぇけど……。怯えたり、泣いたりするよか、笑ってて欲しいよなあ」


 ……と、思考を中断するよう、ノックの音が響く。


「ランドルフ」


 続いて、ディアナの凛とした声も聞こえた。


「おう、どうした?」

「そ、その……自分の気持ちが、よく、分からないが……ともかく」


 いつになく歯切れの悪い口調で、ディアナは、どうにか言葉を選ぶ。


「一緒に、寝てみないか?」


 来た。ランドルフはそう思った。

 準備はとうに出来ている。ディアナが良いと言うまで待つつもりではいたが、ディアナがその気になったのなら、当然応じるしかない。

 ランドルフは純潔ヴァージンが云々など気にしない。まず、の相性を試してから……という考えも、全然アリだと思っている。


「ああ、いいぜ。任せな」


 ありったけの格好つけた声で、ランドルフはディアナを部屋の中へと招いた。


「で、では、失礼する」


 上擦うわずった声と共に、ドアが開く。

 部屋の中に現れたのは、真っ白な狼だった。


「……。なんで、その姿?」


 ランドルフは、どうにかたかぶる心を抑え付け、冷静を装った。

 彼の脳裏に様々な思惑が駆け巡る。

 人間と獣でそういうことをするのは良くない。良くないが、ランドルフは自分なら問題なく自信がある。むしろやりたい。

 ディアナがなぜその姿で現れたのか分からないが、服を脱いでいる以上、少なくとも準備は万端か……と。


 しかし、その想いはすぐに打ち砕かれた。


「だ、男女が同じ寝台で共に寝るのは良くない……と、デイヴィッドが言っていた。だ、だが、この姿であれば……その、ヒトの男女ではない……だろう?」


 ……なるほど。

 すぅーと深呼吸をし、ランドルフは自らの理性を総動員した。


「……良いぜ。気が済むまで、添い寝してやる」


 ありったけの格好つけた声と表情で、ランドルフはディアナを手招く。


 その後。

 安らかな寝息を立てるディアナの横で、ランドルフは、今夜は一睡もできないだろうと覚悟した。




 ***




 夜が深まり、月光が窓から差し込んで部屋を照らす。

 ランドルフは、案の定眠れていなかった。……というより、眠気が欠片かけらも来ない。そろそろ、部屋を変えて仮眠を取るかと起き上がり……


「ランドルフ」


 ……ディアナの一言が、彼の動きを止めた。

 起きていたのかと、尋ねる前に次の言葉が放たれる。


「独り言だと思って、聞いてくれ」


 その声は変わらず淡々としていたが、どこか、泣き出しそうにも聞こえた。

 ランドルフは再び寝台に身を横たえ、彼女の話に耳を傾ける。


「古来、この土地を治めていたのは、北欧から流れ着いた一族だった」

「その一族は、特異な能力を持っていた。代々、狼に化ける子どもが生まれる、と言ったものだ」

「彼らはその狼を、神獣と呼んだ。神の化身である、と。神から授けられた、支配者たる証である……と」


 ディアナの声が次第に震えていく。

 時折言葉を詰まらせながらも、彼女は、どうにか自分が語れる全てを伝えようとする。


「この数百年。多くの争いが起こった。多くの血が流れた。多くの人が死んだ」

「私には、全部の記憶がある。混ざり合って何が何だか分からないが、おそらくは全部の……全部の、『神獣として産まれた子』の記憶が、私の中にある」

「私には、『私』が分からない」


 ランドルフは思わず、ディアナを抱き締めていた。


「辛かったな」


 それだけを言うのが、精一杯だった。


「ランドルフ、頼む」


 背中に、ディアナの手が回る。

 なめらかな肌と、ほっそりとした指先は、間違いなく人間の形をしていた。


「私を、殺してくれ」


 嫌だ。それが、ランドルフの率直そっちょくな想いだった。

 何が悲しくて、惚れた相手を手にかけなくてはならないのかと。

 だが……彼女の苦痛は、ランドルフの想像も及ばないほどに大きい。

 話を聞けば、嫌というほど理解できてしまった。


 彼女が自らの不死性に絶望した理由も。死を望む理由も……。


 出会った日の微笑みは、ようやく希望を見つけたがゆえの微笑みだったのだ。

 ランドルフ・ハンターであれば。熟練の狩人であれば……延々と続くこの苦痛を、終わらせてくれると信じたのだ。


「……っ、分かったよ」


 気付けば、ランドルフの頬には涙が伝っていた。


「あんたが望むなら、俺はあんたを……」


 殺す。

 ランドルフはその言葉を、どうしても口にできなかった。

 腕の中にある温もりを、震えながら自分にすがり付く体温を、手離したくない。

 ……手放せるわけがない。


「あんたの苦しみを、終わらせてやる」


 そう告げるのが、ランドルフの精一杯だった。

 月の光が、零れる涙をきらきらと輝かせる。


「ありがとう……!」


 ディアナの言葉は、今まで聞いたどの台詞よりも、歓びの感情に満ちていた。

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