第10話 限界と遭遇

1日。

また1日。

繰り返すこと10と2つ。

気がつけば、こちらの世界に来て半月が経とうとしていた。


歩き続けた足は一晩睡眠を挟んでも回復しきることはなく、もう引きづるしかないところまで来てしまい進むのを諦めてから早3日。

満月の明かりの中で見つけた小さな泉から少し離れたところにある巨木のうろの中に簡易テントを立て、拾い集めた食料と共にしばらくひきこもっていた。


足はある程度歩けるくらいに回復しているが、昨日から外は雨が降り続いている。

降りしきる雨の中進むのは体力が奪われてしまうからと、足止めを食らっていた。

まぁ、このまま歩いていてもまたすぐに足の痛みがぶり返していた可能性もある。

多少とはいえ他より安全な場所で休めるのは、かえって良かったのかもしれない。


洞の上部を覆うように伸びた太い枝のおかげで、中には水が入ってこない。

葉を打つ水音が洞の中で反響して心地よかった。


「いてて」


足に巻いた包帯は段々と擦れてきて、もう限界だと何度も交換している。

腫れこそある程度引いたものの、硬くなった足の裏全体を揉みながら労う。


森に入って一週間で、食料事情はそれなりに改善された。

腹痛や幻覚、嘔吐からくる脱水症状など様々な毒にあたりながらも、森の中の様々な食材を試し続けた結果だ。

予想外の雨に足止めされているが、それでもテント内の傍らには両手で抱える程には食料が積んである。


色々試してみた結果だが、見えやすい場所にあったり、すぐ口をつけて食べられるようだったりする植物は大体毒性が強い。

毒で食われないようにするのではなく、むしろ毒で捕食者を殺して栄養分に変えてやろうとでもいうようなアグレッシブさは生存競争が激しい世界だからこそだろうか。


途中でこの法則に気がつき、硬い殻に入っていたり物陰にひっそりと生えていたりするような食材を狙うことで移動の一時休止が実現したわけだ。

そんな検証ができたのも。毒を受けても一晩寝るとある程度改善するこの身体の回復力や、鉱山での重労働で鍛えられた身体能力があってこそだ。


子どもの身体ではあるが、前世の木偶の棒な身体よりもよっぽどこの状況には適していると言える。


そういえば、半月ほどの間、遠目ではあるが魔物のようなものを何度か目撃した。

まず最初に遭遇したのはヒトの胴ほどもあるゾウムシ……のような怪虫だった。


濃紺に、黒の斑点。

刺々しい外殻は、少しぶつかっただけで血だらけになってしまいそうだ。

そんな甲虫が縄張り争いだろうか。

同族同士で角を叩きつけ合いながら、角の先から何かを噴出しているのを横目にゆっくりと通り過ぎた。


次に見たのは宙を泳ぐ無数の魚だった。

構造色のような虹色の斑点が全身を覆う、2mを超える半透明の魚。

朝、目が覚めたときにウツボのような顔を無気力に開閉しながら頭上を通り過ぎていった。

明らかに肉食な見た目なのにこちらには見向きもせず、暗い森の中を悠々と夜空の星は流れていく。

煌めく目はこちらを見ていない。

違う、さては

何らかの要因でそうなっているのであれば、素人の忍び歩きでもゾウムシモドキに気づかれなかったこと、これまで極端に捕食者と出会わなかったことにも説明がつく。


事実、その次に出会った体表が滑らかな革のようになっている狼も近くで不思議そうに鼻を鳴らすばかりで、そのまま通り過ぎていった。


一方で、奴隷生活の中で俺がこちらに来たあとも暴行を受けていたことから人間には効果がなさそうだ。


何はともあれ。

ここまでくれば追っ手を警戒する必要もなく、魔物も気にしなくて良くなっている。


さらに言えば。

最近、森の様子が少し変わってきて背の低い木々が少しずつ混じるようになっているあたり、森から抜けられる日も近いのではなかろうか。


――そんな油断が悪かったのかもしれない。


降りしきる雨の音に交じって、ぽたぽたと。

洞の外、風除けに張った布のすぐ目の前で水の音がした。


滴り落ちる雫。

警戒すべき音に、気配にこの瞬間まで気がつけなかった。


近づかれるまでに、痛む体をさすって音を立ててしまっている。

垂れる雫の音が聞こえるくらい近く。

向こうの音が聞こえて、こちらの音が漏れていないわけがない。


耳を澄ますと、聞こえるのはシューシューと鳴る呼吸音。

不規則なリズムで繰り返されるそれは。

本来一つであるべきそれは、

まず、人間ではないことは確かだ。


心臓が高鳴り、荒くなる息を無理やり飲み込む。

不自然に上げられたままの腕は、布がれる音が出てしまうのが怖くて動かせない。


肉体的反応として震えることすら許されない恐怖。

抑え込まれた怖れが体の中で暴れて涙が滲む。


洞からの出口を塞がれている以上、逃げ場はない。

それに何とか避けて外に出れたとしても、長雨でぬかるんだ地面に足を取られるだけだ。


息を潜めてやり過ごせるのならそれでいい。

問題はやり過ごせなかったとき。


考えるべきは――


――どう、殺すか。


幸い、唯一の武器の短剣は目の前に剥き出しの状態で置いてあった。

敵の正体。

形も、大きさも、強さだって何もかもが分からない。


チャンスは一瞬。

その一瞬で正確に弱点を突く。

殺すためには文字通り弱点に突き刺す必要があった。


一瞬で弱点を見抜き、刺す。


敵は硬い体表をしているかもしれない。

そんなものを突いてしまえば、素人の短剣なんて弾き飛ばされてしまう。


敵は柔軟性のある筋肉を持つかもしれない。

そんなところに刺してしまえば、刺した短剣を引き抜こうと藻掻く間に殺されてしまう。


敵は大きな角を持つかもしれない。

そうであれば身体ごと勢いよく突き刺した身体は、リーチの差で貫かれてしまう。


様々な推測、畏れ、負けるビジョンが次々に思い浮かぶ。


弱点。


相手の身体の構造が分からない以上、心臓を狙うのは難しい。

となれば、狙うべきは眼か首か。


違うか。

呼吸音が上下に分かれて聞こえることを考えると、恐らくすぐ正面に首は無い。

狙うのは難しいだろう。


眼を、狙う。

眼を、狙おう。


そう決めた丁度その瞬間、目の前が真っ白に光る。

間を置かずに洞の中を反響するのは、大樹が真っ二つに引き裂かれるような轟音。


雷。


片耳の鼓膜を破り脳を貫く音の奔流の中、音に紛れるようにして短剣を手に取る。


訪れる静寂。


雷によって張られた布地に映ったシルエットは球状で、大人程の高さがあった。

そのことを認識するや否や、静寂を裂いて響き渡るのは年老いた猿のような叫び。


こちらから影が見えていたということは、すなわち向こうからもこちらが見えているということだ。


マズい。

短剣を手に取れたことなんて、何のアドバンテージにもならないじゃないか!


一拍置いて吹きつけるのは、雨を含んだ突風。

無情にも敵と自分を隔てる1枚の布は一瞬で吹き飛び、広い洞の中に舞い上がる。


そして、目が合った。


いや、眼に遭ったというべきか。


洞の外に向けた視界いっぱいに広がる目。


眼 

視線

眼球


色も大きさもまぶたの有無も異なる雑多な目という概念の塊が。

最早視るという行為そのものが俺の水晶体に映り、反射し、覗いていた。


巨大な球体の、毛むくじゃらな身体全体を埋め尽くす目、目、目。

狙うべき弱点を見失い、一瞬思考が硬直する。


その隙を見逃すような生半可な敵ではない。

毛だらけの身体から槍のように腕が飛び出す。


身をよじる。

短剣を突き出そうとしていた腕の勢いを反動として使い、地面に転がる。

しかし、素人の回避が間に合うわけがない。

左腕をかするように裂かれ、鮮血が飛び散った。


痛みはない。

既に、痛み止めの薬で麻痺している。


故に。

動じずに済んだ。

怯まずに済んだ。


思考は、観察する眼は敵のみをまっすぐ捕らえたまま動かず。


回避に転がる瞬間、真っ先にこちらを見た無数の眼の中の一つに気づく。

オニキスのような濡羽色に浮かぶ円状の金眼。

視線を外さずに転がった勢いのまま、木の洞を足裏で蹴飛ばす。


小屋の時と同じ。

しかし、ある程度回復した体力と多少とはいえ治り始めた身体の持つ勢いは、あの時の比ではない。

半ば回転するように飛んだ身体。

短剣は魔物の眼球を貫く。

抉るように、掻き出すように。

ゴムのような厚い角膜を越え、ガラスのような水晶体を砕く。


刺した傷から吹き出るように飛び散った眼球内の白い液が、血が、顔面に降り注ぐ。

片目に入って痛むが、そちら側の眼を閉じて再び突き刺す。


貫いた短剣の先が硬いものに当たる。


きっと骨だ。


眼孔から脳を攻撃できないなら、これ以上の破壊に意味はない。

短剣を引き抜いて、すぐにまた別の眼に突き刺す。


勢いがないため、一度目のようには深く刺さらない。

それでも無理矢理に押し込み、そして引く。


もう一回。


そう欲張ったのが良くなかった。

夜の闇のように真っ黒な体毛の間から、再び腕が射出される。


狙い澄ましたような一撃。

吹き飛ばされた腹の端。

大きな肉片が洞の中で跳ね返ってと地面に落ちた。


「うぐぁッ……うぐゥッ」


麻痺薬も身体の内部までは完全に効いてはくれていない。

痛みと、力を込めるべき筋肉が消え去った脱力感に体勢が崩れてしまう。


眼が、眼球の群れが、そのすべてが弧を描くように細められる。


笑ったのだ。


それは勝利の確信か、それとも俺への嘲笑か。

球体の上下についた小さな口からは、喜色を帯びた"フフォッ"という息とも声ともとれない音が漏れだした。


「だから……どうしたってんだ!」


そんなのどうでもいい。

欠けた腹から声を出し、歯を食いしばって無事に残った右半身だけで再び短剣を振るう。


痛みはこの世界に来てから嫌って程慣れた。

腹の4分の1がなった?

今更傷の一つや二つが増えたところで、知ったことか!


怯まない。

生命の危機に反して怯まず動き続ける頭は意識外で勝ち筋を弾き出した。

今度は刺すのではなく、切る。

深くなくて良い。

眼球と瞼の表面を撫でるように、いくつもの眼を横切るように横向きに切り裂く。

持っているのは両刃の短剣だ。

返す刀で再び別の眼。

別の眼。

別のッ。

次ッ!


繰り返すこと4回。

切られた眼からは涙のように白い体液と赤い血がとめどなく溢れ、怪物の黒く丸い体はショートケーキのような色に染まる。


これは予想外だったようで、敵の短い6本脚はたたらを踏んで後退する。


「逃がすか――よッ」


踏み出した足は、左側の腹の筋肉に力が入らずそのまま崩れ落ちる。

しかし短剣を両手持ちに切り替え、短剣を握った両手を突き出すことで身体の倒れる方向を前方へと切り替えた。

計らずも全体重がかかった短剣は再び、残る眼球を深く切り裂く。


俺の身体は、化け物の眼球だらけの顔面を覆うようにして倒れる。

途端に破裂した水風船のように爆ぜ、傷からドクドクとあふれ出す血液。

化物の身体に俺の血が飛び散り、火のように真っ赤に染まっていく眼球の数々。


今度はのしかかった顔面の左右から悶えるような叫び声が上がった。


「うるせぇ!」


舌に短剣を突き刺し、先割れ舌にしてやる。

化け物の暴れる動きに合わせ、口内がズタズタになっていく。

切り裂かれて舞った鮮血と肉は、潰れた苺のようになって降り注いだ。


刺す。

切る。

……突く。


――だが、ここまでだ。


血が抜けすぎて、もう力が入らない。

半ば突き刺したまま取り落としかけた短剣をなんとか腕の重さで抑えるが、どうしても指が動かず握りしめることができない。

腹のデカい傷口を見ると、俺と怪物の無理な動きでズタズタに裂けきって中の臓物はらわたが完全に見えてしまっていた。


せめて、せめて相打ちに。


その思いは、俺の身体と共に怪物に振り払われる。


「く……アア、ぁあ、カ……シュぅー……」


地面に背中から叩きつけられる。

衝撃で腹から零れ落ちかける、見たことも無い形状の臓器。

声も出ない。

漏れ出た枯れた風音の出所は喉か腹の大穴か。


意識が朦朧とする。


雨の中、よろよろと立ち上がる怪物。

半ば傾きながらも、這うようにこちらににじり寄ってくる。


残り数メートル。

残る、下側についた口が半ば裂けるようにして大きく開かれた。


幸運だったのは。

怪物がこちらに辿りつく前に意識が落ちることだろうか。


悔しさや恨み言を考える余裕すらない。

最後、睨みつけるだけの表情筋すら動かせない。


"ふっ……"と。

か細い蠟燭の火を一息に吹き消すように意識がなくなった。


最後の瞬間、ぼやけて濁った視界の向こう。

怪物の後ろに人の姿を見た気がした。

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