第7話 空乃の選択
しばらくして凜花の様子が落ち着いてくると、
「帰って」
と言われたので空乃は素直に帰ることにした。
玄関口まで来て、揃えた靴をためらうような足取りで履く。一度だけ振り返って、ドアノブを右に回して押した。開かない。鍵がかかっているのかと思ったけどそもそも押すのではなく引くのが正解だった。
なにをやっているんだという気持ちになる。
マンションの廊下に出た。外気にさらされた。髪を夏の湿った風がなぶり、頭の先から爪の先までを蝉の声に洗われる感覚。横目になって三階からの景色を見下ろせば、普段は見ることのできない家屋の屋根の天辺を見ることができた。その奥には雨雲。ゴロゴロという音が今にも聞こえてきそうだった。
「あの」
いきなり後ろから声をかけられた。
知っている声だったらすぐにでも反応できただろうけど、空乃の反応はいきなりすぎてかなり遅れた。
一拍どころか二拍ぐらい遅れて、
「は、はい」
声の感じからして、声の主は大人の女性であることはだいたいでわかる。実際に声のするほうを向くと、想像したぐらいの四十代に差しかかろうかという女性がいた。やっぱりという思いと、どうして彼女が自分に話しかけてきたのかという疑問が浮かぶ。
「凜花のお友達かしら?」
ああ、と空乃は思う。
「はい、高菜空乃って言います。しぐ——凜花ちゃんのお母さんですか?」
口元のしわがさらに深まるように笑った女性は、
「ええそうよお、うちから出てくるから、もしかしたらって思ったんだけど、あの子にちゃんとお友達がいてよかったわあ。今から帰るところなの?」
「はい、今から帰ろうかなって」
「あらそうなの、外は雨が降りそうだから気をつけて帰ってね」
空乃はいまの凜花の状況を言おうか迷った。
凜花のお母さんが家に帰ったとしたらなんだかものすごく悲しみに暮れている凜花がそこにいて、いったいなにがあったんだと考えてみれば先ほど帰っていった凜花の友達を名乗るやつがいたことを思い出し、うちの娘になにかをした犯人はきっとそいつに違いないとなにふりかまわずに空乃のことを追いかけてきてぶん殴ってくるかもしれない。もしくは凜花が自分に起きたことをひた隠し、そして何事もなかったかのように日常が繰り返されてしまえば凜花の背負ってしまった悲しみは晴れることなく終わってしまうような気がする。
だけど、凜花に起こった出来事を空乃だってちゃんと理解しているわけではない。
どう説明したものか考えが及ばない。
だけど言おうと決めた。
凜花には最近変わった悩みがあったこと、その悩みを空乃に打ち明けてくれたこと、その過程で凜花が両親の寝室にあったアルバムを見たこと、アルバムの少女を見たら凜花の反応が急におかしくなったこと、空乃はすべてを見たまんま聞いたまんまに伝えた。話を噛み砕くこともこともせず、なんなら自転車がパンクしたところからすべてを語った。
空乃は自分が責められることを覚悟した。凜花の悲しんでいる原因には、間違いなく自分の存在が関わっている。空乃はぎゅっと目をつむり、どんな言葉きてもいいようにメンタルを強くもつように心がけた。
少しの空白が生まれる。
凜花のお母さんはすべてを察したようだった。
ついにこの時が来てしまったかという顔で、
「凜花のことを思えばアルバムなんて捨てるべきだったのにねえ」
凜花のお母さんの喋り方はどこか自嘲気味だった。
「あの子にとっては忘れていたほうが幸せだったのに、親としての未練があの子に二度も辛い思いをさせるなんて。おもちゃだってそう。いつまでも手放せないままずるずるとここまで来ちゃって、だからあの子はなんとなく感づいてお姉ちゃんの幻聴を聞くようになったのね。こんなことになるならちゃんとけじめをつけるべきだった。中途半端に隠すようなことをしたからこんなことになっちゃったのよ。高菜さん、今回はごめんなさいね。私たちの家庭のことで迷惑をかけちゃって。凜花のことも、幽霊のことももういいわ。なにも気にすることはないから、このままおうちに帰りなさい。あんまり遅くなっちゃうと親御さんも心配なさるでしょうしね。よかったらまた遊びにきてね」
特に責められることもなく、なにか会話をするわけでもなく、凜花のお母さんはそのまま扉の奥へと消えていった。
空乃も帰ることにした。
階段を降り、住宅街を抜け、閑散とした道を歩いて雑木林にたどり着く。ここまできたけど、雨なんて結局は降ってない。最初の予想が当たった。雨の降る直前のあの独特の匂いがなかったのだから当然の結果だ。
今日は色々あった。
自転車がパンクして、凜花を家に招待して、それから凜花の家に招待されて、なんてことない平日の放課後にしては中々に濃い内容だった気もする。楽しいことばかりじゃない。重い出来事もあった。だけど、新しい友達ができたことは普通に嬉しかった。その友達がとんでもなく辛い目にあっているのなら、空乃にできることはいったいなんだろう。振り返れば、空乃は凜花の悩みを解決するために頭をひねってきたのだ。凜花に憑りついている幽霊の正体だって看破した。
凜花のお母さんはなにも気にすることはないのだと言ってくれたが、少しぐらい、空乃にだってできることがあるはずだった。
もう少しだけ、頭をひねってみよう。
今の空乃にできること。
できること。
——凜花のお姉さんが、凜花に憑りついている理由を探る。
これしかない。
時間じゃない。友達が困っているのに助けない理由に、時間なんて関係ない。
全力でぶつかってやる。
凜花の心が少しでも救われるように日葵ちゃんの助力を仰ぐ。ロクにできもしない魔法の訓練とか、色んな気持ち悪いものを調合して薬を作ったりとか、そういうことを後にやらされるかもしれないけどそれはなんとか我慢して、幽霊の謎を解明してやる。
そうと決めたら一直線だ。まずは家に帰る。
思いっきり走って、汗を流しながら家の玄関の門を開け放った。
扉を開けて、開口一番に家のどこかにいる日葵ちゃんの名前を呼んだ。
リビングのほうからなに~というふにゃふにゃした声が飛んできた。
空乃は迷わずにリビングの方へと駆けこんでいった。日葵ちゃんがソファのところでリラックスするように寝転んでいるのが見える。お父さんが帰ってきた時の別人にも見えるおめかしは、ぼさぼさになった髪といつもと同じだぼだぼのジャージでものの見事に元に戻っていた。ということはつまりお父さんは仕事のほうに戻っていったのだろう。おめかしする必要はなくなったし別人のように振舞う必要もなくなったというわけだ。
しかし今はそんなことはどうでもよくて、
「なにか便利な道具出してよ」
「久しぶりに聞いたわそれ。ちゃんと魔法使いの修行する気になったのかしら」
日葵ちゃんがむくりと顔を上げて、ちょっとだけにやりとして、
「だけどそんな気はしてたわ。さっきの子のためでしょ? 昔からそうだもの。いつだって誰かのために私の魔法を使おうとするんだもの。ずっと嫌な顔をしながら魔法薬を作ったりして、飛べないってわかってるのにほうきにまたがったりして、まったく成長はしなかったけどちゃんと約束したことは守るのよね。だけどどこから見てるのか途中に母さんが来ちゃうから、そのせいで空乃ちゃんに修業を最後までやれないのよね。あの人ってなんだかんだ空乃ちゃんに甘いんだもの。だけどねえ空乃ちゃん、魔法に頼るっていうのは魔法に近づくことと一緒なんだよ。だからね、つまりね、私にお願いするっていうのがどういうことかわかってる? 空乃ちゃん。今度こそ空乃ちゃんには飛べるようになってもらうわ。魔法使いの数を少しでも増やしていつか信者さんたちと一緒に世界を征服してみせるんだから。そのための第一歩。星一さんにいつか世界をプレゼントしてあげるの。今度はお母さんにも邪魔はさせないよ。ねえねえ、それでもいいの?」
「いいよ」
即答だった。
日葵ちゃんはしかしそれに驚くようなことはせずにむしろこうなることをわかっていたようににやりとした笑みを崩さない。
「じゃあ決定ね。昔に知り合いの霊媒師と作った便利なアイテムがあるから、地下の蔵に今から取りに行きましょ」
空乃に魔法の修業をさせる口実ができたことを嬉しく思ってか、日葵ちゃんはソファから魔法の力で起き上がってそのままスキップするような足取りでリビングを出ていった。それからすぐに出入り口のところからひょっこりと顔を出して、さあ早く早くと空乃のことを手招きして自分の後ろをついてくるようにと指示してくる。
もちろんついていく。
寝室と化粧部屋と魔法部屋という三つの自分の部屋を日葵ちゃんは持っていて、向かったのは階段下の物置スペースの、壁を通り抜けた先にある魔法部屋だ。
燭台に置かれた蝋燭の光と床に描かれた幾何学模様と壁から生えている鹿の頭、物置スペースに置かれていた掃除機やらストーブやらと比べて異様に映るそれらは、しかしおばあちゃんの部屋に通っていた空乃からすればそこまでおかしなものとも思えない。アロマにも似た甘い香りと立ち昇る陽炎にも似た歪んだ視界とすぐ目の前にも数十メートル先にもあるように見える壁、この部屋はしかし、父である星一が間違えて入ってきたことも考慮されているダミーであることはおばあちゃんですら知らない。
軽い足取りそのままに日葵ちゃんが部屋を巡り始める。
燭台にある蝋燭の火を息で不規則にいくつか吹き消し、不気味に目を光らせた鹿の角を片方だけ下に降ろし、棚に置かれていた小瓶を手に取りそれからその中身の液体を地面に描かれた幾何学模様に一滴だけこぼした。部屋の中に充満していた陽炎が突然晴れたような感覚、視界が紙芝居の場面転換のように一気に切り替わる。
気づけば、伽藍のような広い空間にいた。
足下は石畳、天井を支えているのは西洋造りの石柱、空間に充満しているのは鉄とお香と葡萄の混じり合った匂いで、隣にいるのはいつの間にか黒い外套を纏った日葵ちゃんだった。いつの間にか空乃も黒い外套を纏っている。顔が見えないようにフードを深くかぶっている。だけどどういうわけか視界はくっきりとしているから、石柱に挟まれた道を進む日葵ちゃんの背中を空乃は迷うことなく追いかけることができた。闇の奥へ奥へと進んで行くと不気味な合唱が聞こえてくる。空乃のように黒い外套を纏った大勢が頭を俯かせて、祭壇のような場所でひと際高く燃え上がっている炎に向かってなにかを呟いるのが合唱の正体だ。
頭を俯かせている大勢がいっせいに顔を上げて振り向いた。
日葵ちゃんの姿を認めるやいなや「教祖様がいらしゃったぞ」と頭の俯かせる先を空乃の目の前にいる日葵ちゃんに切り替えた。
さすがにこの光景はおかしいと思う。怖いとも思う。
日葵ちゃんはそんな光景を完全に無いもののように扱って、まっすぐに祭壇の炎に向かっていく。周囲に頭を下げて申し訳なさそうに空乃もついていく。
日葵ちゃんが人差し指を一本突き出して、祭壇の炎の前で突き出したその指を大きな円を描くように動かした。その動きに合わせるように炎にぽっかりとした穴が空いていく。
日葵ちゃんが穴に向かって飛び込んだ。だから空乃も飛び込んだ。
地下の蔵、と日葵ちゃんはこの場所をそう呼んでいる。
しかしここが地下なのかそして蔵なのかもよくわからない。
空間的には大きな立方体のような形で、足下にも壁にも天井にも至る所に花が咲いていて、花の咲いている隙間には宇宙を思わせる虚無と呼ばれる空間が広がっている。どこからどう見たって地下という感じも蔵という感じもしない。あ、花は踏まないように気をつけてね、運が悪いと死んじゃうこともあるから、なんて日葵ちゃんの忠告に空乃は特に動じることなくうんとだけ頷く。
「それで日葵ちゃん、今回はどんな花を探せばいいの?」
日葵ちゃんはあごに指を当てて思い出すような素振りを見せる。
「えーっとね、確か青いチューリップみたいなやつだったと思うわ」
「青いチューリップみたいなやつだね、わかった」
空乃はうまく花を踏まないように歩きながら、視線を巡らせて青いチューリップを探し始める。青い花はいくつかあるけどチューリップとなると中々に見つからない。日葵ちゃんはまったく探すつもりはなく三角座りで前後に揺れている。少しぐらい手伝ってくれればいいのにという思いはあるがこれは空乃が求めたことなのだからあまり贅沢を言って日葵ちゃんの機嫌を損ねるも美味しくない。
十分ぐらい探しただろうか、青いチューリップをようやく見つけた。
頭上高くに生えている。日葵ちゃんを呼んで、天井に逆さまに生えているチューリップを魔法で取ってもらう。日葵ちゃんの手のひらの上でぷかりと浮かぶ青いチューリップから、光り輝く液体の満たされた小瓶が、花びらを一枚一枚めくるごとに見えてくる。
「それはなに?」
空乃が聞く。
日葵ちゃんは自分の周囲にくるくると花びらを舞わせている。人差し指と親指でチューリップから取り出した小瓶を掴んでいる。幻想的な佇まいでこちらを見ないままに返事をする。
「これは、いわゆる霊感体質になれる薬かな? 幽霊のことをちゃんと知覚できるようになるの。精神世界がどんなところなのか気になったから、知り合いの霊媒師と協力して一時的に精神世界を知覚できるようになれるように頑張ったのよ。使いどころには気をつけてね。一分しかもたないから。それに、体質をちょっと変えちゃうからか、結構しんどいのよねこれ」
しんどいと言われると少しためらいが生じてしまう。
「じゃあはい、これあげるわね」
日葵ちゃんがこちらを向き、すいっと指を動かす。指の動きに合わせて、小瓶が滑るように飛んでくる。
それを受け取る。
日葵ちゃんがこっちを向いて微笑みかけてくる。
「頑張ってね」
空乃は思いがけないエールに驚きながらも頷いて、
「うん」
これを使えば、凜花の抱えている悩みが少しでも解決に近づくかもしれない。凜花の抱えている悲しみを、凜花の抱えている葛藤を、凜花の抱えている悔恨を、空乃はそのすべてを取り除けるだなんてこれっぽっちも思ってはいない。それでも自分一人が抱えるものの、ほんの少しだけでもいいから、肩を貸すようにちょっとでも軽くなればいいと思っている。
外はもう暗いだろうか。
行動は明日に移すべきだろうか。
空乃の選択は迅速で、火の輪をくぐって熱さを感じながら地下の蔵を抜け出し、頭を垂れる信者の集団をかき分けながら進んで行き、悪趣味な物品しかない魔法部屋に戻るやいなや玄関に向かい、お気に入りのスニーカーを履いて後先も考えずに家を飛び出した。家の中で悶々とこれからのことを思うより、体を動かしているほうがずっと空乃の性に合っている。
だけどさすがに凜花のマンションの前まで来るとどうしてここまで来てしまったのかと後悔する。さすがに迷惑だ。やっぱり帰ろう。
そう思った空乃の目に飛び込んできたのは、裸足のまんまで壁のでっぱりに足をかけ、ロッククライマーみたいにマンションの壁を下っている凜花の姿だった。
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