壁に乳房

高丘真介

第1話

 目が覚めたら、壁から乳房が生えていた。


 それは模様などではなく、しっかりとした肌の質感をともなう正真正銘の乳房のように見える物体だった。その張りのある真円の中央にはピンク色の乳首が存在感を放っている。しばらくぼんやりとその様子に目を奪われていた僕は、それでもベッドから這いでて立ちあがり、乳房の生えている壁に向かって足を踏みだす。


 窓から差し込んでくる朝日に目をそばめながら、のっぺりとした白い壁にひとつだけ生えている乳房に手を伸ばす。まず、人差し指一本で下側から触れてみる。想定通りのすばらしい弾力だ。いったん指を離し、そしていよいよ、手で丸い形――ちょうど乳房の下側が収まるような形を作り、手のひら全体で乳房を感じてみる。その例えようのない甘美な触感が、脳に強烈な電気信号を走らせる。ぐっと、その手に力を込めてみる。へこんだぶんだけ、中央部がこちら側に飛びだしてくる。ブツブツとささくれた肌が視認できるところまで、顔を近づけてみる。視界が乳房で埋まり、薄いピンク色の乳首がリアルに目と鼻の先に迫ってくる。どう見ても、人のそれとしか思えない。


 と、そこまで思考を巡らせて、はっと我にかえり思わず周囲をうかがう。部屋にある唯一の窓まで小走りし、急いでカーテンを閉じる。と、いっきに部屋が暗くなる。一人暮らしのアパートだ。よく考えると誰かに見られることなどないはずなのだが、条件反射で体が動いてしまった。そして、いつもの場所――ベッド脇のローテーブルの上を手探りすると、予想通りのものに手が触れる。照明のリモコンだ。手探りで点灯ボタンを押す。太陽光とは異なる白色光が部屋に広がり、ほっと息をついてベッドに腰を下ろした。ちら、と視線を上げると、やはり目の前の壁には乳房があった。寝ぼけていたわけではない。


 自分の行動を思いだしてみる。どうだろう。昨夜の就寝の時点であの乳房があったのかどうか――。その前に、昨夜の行動の記憶があいまいだ。ローテーブルの上には半分ほど透明の液体が残るグラスが置いてある。十中八九、芋焼酎の飲み残しだ。ほぼ毎晩のことなので覚えていなくてもわかる。お気に入りの動画を見ながら飲んで、気づかないうちに寝てしまっていたのだろう。いつものことだ。


 ふと我に返り、ベッドの上に無造作に置かれているスマートフォンで時間を確認する。水曜日――平日の朝7時半過ぎだ。まだ時間はある。かつてならもう出社の準備に追われている時間帯であったが、会社にテレワークのシステムが導入されてからは生活が一変した。メーカー勤務の技術職ではあるが、実際にモノを触る業務は限られているため、遠隔からでも業務に支障がないとみなされた僕は、数ヶ月に一度、定期報告会の順番のときのみ出社することになった。それ以外の日は、9時までに会社のシステムにログインさえすれば、あとは自由だ。もちろんやらなければならない業務はある。ただ幸い、残業を余儀なくされるような部門ではない。ほぼ毎日17時にはきっちりとログアウトして、一番に冷蔵庫からビールを取りだす。そんな生活だ。昨日もそのサイクルに違いはないはずだ。もちろん、壁に乳房が生えてくる現象にはまったく身に覚えがない。しだいに現実のものとして意識し始め、薄ら寒さすら感じる僕とは裏腹に、壁の乳房はただそこに凛として存在していた。


 壁に乳房が生えていても、実害がないのであれば、それはそれで良いのではないか――。


 ふとそう思ってしまった自分がいて、慌てて否定する。未知に対する恐怖もあるが根本的な問題はそこではなく、俗に言う〈膨張禁止令〉だ。家の壁にむきだしの乳房があることなど、人に知られたらただでは済まない。


 色々と思いをめぐらせていると時間が経ってしまった。


 8時を過ぎたところでベッドから重い腰を上げた。とにかくいつもの朝の準備を進めることとする。


 この部屋の間取りとしては、玄関からすぐにキッチンスペースになっていて、そこにトイレ、バスルームがある。引き戸を隔てて8畳のフローリングの部屋が続くだけのシンプルなものだ。そこに大きめのベッドとパソコンデスクを配置している。そうすると、ほぼ空間が埋まってしまう。社会人としては粗末な部屋かもしれないが、僕にとっては必要十分だ。


 バスルームに入り扉を閉め、いつもの流れでシャワーを手に取ってノブをひねる。お湯になるまでしばらく流しながら、ふと顔をあげる。と、湯船側の壁にも、乳房が生えていた。それも、ふたつ。そこに女が立っていることが脳内で簡単に補完できてしまうような絶妙な間隔だ。生えている高さは僕の胸の位置よりは少し低い。仮にそこに人が立っているとすると、150センチ台なかばぐらいだろうか。反射的に、三谷ナナのことが脳裏をよぎる――。


 三谷ナナ――。彼女は、忘れようにも忘れられない僕の初めての恋人だ。正確には恋人だったはずの女性だ。思いだすと焦燥感が沸き上がってくる。実は公安に所属していた彼女は、〈膨張禁止令〉の取締りのために複数人の男と接触し、男が気を許して乳房に興味を持ち始めたところで身柄確保することを生業にしていたのだ。ものの見事にはまりこんだ僕は、抵抗する間もなく収監され、その後数日を公安が用意した冷たいコンクリートに囲まれた部屋で過ごすことになった。


 それでも、彼女のことを恨むことはなかった。人生で唯一の夢のような時間だったのだ。それだけでも十分ではないか。今でもそう思っている。


 ストレートで艶のある黒髪に金のメッシュが入っているのが特徴的だった三谷ナナ。小柄で細身だったが、それでも胸のボリュームは感じられた。ちょうど、今目の前にある壁の乳房のように。そう思って見れば見るほど、三谷ナナのものに思えてくる。頭から生ぬるいシャワーの湯をかけ続けながら、じっと壁の乳房を見つめる。ふと、僕から見て右の方にだけ、遠目でも視認できる程度には大きなほくろがあるのがわかった。乳首のちょうど真上のあたりだ。中心を指し示すための無機質なマーキングのようで、そう思うと急速に気持ちが冷めていく。もう少し左か右のどちらかに寄っていたら、きっともっとセクシーだったろう。僕は乳房から視線を外し、シャワーを止める。




「へえ。とすると、たもつ君はいわゆるオタクというやつなんですね?」


 三谷ナナがからからと笑いながら問いかける。そんな場面が想起された。それに僕がどう答えたか、今となっては思い出せない。とにかく必死に説明した。好きな映画のこと、アニメのこと、漫画のこと。どれだけ伝わったのかわからない。なにを伝えたかったのか、そもそもなにかを伝えたかったのか、それもわからない。


「いいね、その感じ」


 これが、彼女の口癖だ。いつもこのセリフと一緒に左の口角が上がる。


「とにかく好きだということは伝わってきたね」


 そう言って笑みを浮かべる三谷ナナに、映画を見るときは監督よりも出演者で選ぶ、という僕のこだわりをぶつけ、君はどうだろうか、と訊いてみる。


 この質問に三谷ナナがどう答えたのか、思いだせない。つまり僕は彼女のことを知りたいのではなく自分のことを話したかっただけなのだろう。今となってはそう思う。


「それ、わたしも見てみよう……かな?」


 彼女がなにに興味を示したのかも覚えていない。ただそのときの映像は、鮮明に脳裏に思い描くことができる。軽く首をかしげて少し上目遣い。そして透き通った目で、こちらをしっかりと見つめてくる。視線はいっさい外さない。三谷ナナの一番印象的な仕草で、いつも先に僕のほうが視線をそらしてしまう。一瞬その胸に目線が向いてしまいそうになり、目を閉じてなんとか回避する。それも毎回のことだった。


 ――まさかその仕草が、〈膨張禁止令〉違反を取り締まるための罠だとは、そのときの僕には頭の片隅にも存在せず、ただただ彼女に夢中だった。


 衣服越しであっても、女性の胸に1秒以上視線を向け続けると、軽犯罪法違反になる――〈膨張禁止令〉に含まれる法令のひとつなのだ。こんな法律ができてからもう20年ほど経っているはずだ。発令当時、まだ10歳にも満たない少年だった僕には、それがいったいどういう意味を持つのかわからず。ただ「女子の胸を見るのはダメ」という刷り込みがなされたのだろう。気がついたときには、それが当たりまえのことだった。

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