第30話 救ってくれた恩人

 冷房の利いた車内。

 体の内部に染みわたる冷たさ。


 脇や首の下に氷が入っているのだろうか。

 全身が気持ちよく、何より心地が良い。


 意識を失っていたせいか、状況はよく分からない。


 しかし、誰かが自分を背負って助けてくれた所までは覚えている。


 町中で自分が倒れた時に声を掛けてくれた女性……。


 あれは一体、誰だったのだろうか。


 体格的に外見からはそこまでがっしりしている方には見えなかったのだが、担いでくれたのはこの子なのだろうか。


 く。頭が痛すぎて全然思い出せねえ。


 彼女以外にも、誰かがヘルプで助けてくれたような気がしたが。

 一体、誰だったのだろう。


 いや。

 きっと、その人は女性一人で運ぼうとする姿を見て助けに来たのだろう。


 もう今は居ないかもしれないが、是非とも感謝したいものだ。


 しかし、意外にも筋肉があって、尚且つ背負る程の度胸。

 昔から何かスポーツでもやっていたのか。あるいは……。


「……んぐ」


 徐々に覚醒していく自身の脳と共に目が覚めたこの瞬間、状況を整理していく。


 まず、視界に入ったのは心配そうに俺を見つめている女性……先ほど救ってくれたゆるふわ系の人だ。


 身長は高く、顔つきは美人というよりも可愛い系に近い。


 髪はベージュ色のボブカットで、素肌も白い……いや、少し日焼けしているだろうか。


 いかにもふわふわ系女子という感じが強く出ている気がするのだが、どこか落ち着きが無いようにも見える。


 それもそうか。

 こんな緊急事態で見知らぬ男を救助すれば、多少焦るのも無理は無い。


 俺も、倒れた人の救助は経験があるが、その時は心拍数が上がって冷静でいられないものだ。


 そんな自分がまさか熱中症で倒れるのは非常に情けない事実ではあるのだが。


「あっ! あの! 体調の方は大丈夫ですか……?」


 少し緊張した声で様子を尋ねる女性。

 年は自分よりも幼く見え、二十歳ぐらいだろうか。


 改めて考えると、こんな若い女の子に命を救われるなんて……まじで命拾いしたな。


 ちゃんと全身全霊をかけてこの子に感謝をせねば。


「あ、ああ。まだ少し倦怠感が残ってるけど、大丈夫だ。助けてくれて本当にありがとう」

「い、いえっ! 私はただ、倒れてるパンダさんを見かけて助けただけですので! お兄さんが無事で何よりです」


 そう言って、今度は飲料水を持って「飲めますか?」と聞いてきたため、快く了承してありがたく受け取った。


 喉が渇いていたため、ペットボトル一本はほんの数秒でなくなってしまったが、見る見る内に体が生き返っていくことを実感する。


 脱水症状は危険だということは事前に分かってはいたが、いざとなってみると本当に怖いものだ。


 自分がいつ倒れるか分からない中で、無理に単独で解決しようとすれば己に災難が降りかかってくる。


 それを今日という日をもって新しく学んだことだ。


 しかし――今気づいたのだが。

 俺、あのパンダから無事に抜け出せたんだな。


 いや、正確にはこの子が何とかしてくれたのだろう。


 あの凶悪なぬいぐるみの存在によって永遠と苦しめられる所を、彼女が天国へと解放してくれた。


 やはり最初から目論見通りだった、女神。

 そう……これはザ・スーパー女神といっても良いだろう。


 毎週、この子のために教会に行って神様にお祈りしても全然苦じゃない。


 むしろ、こういう子を幸せにするためならいくらでも命をかけれる。


 男性諸君であれば、この気持ちを共有できるだろう。きっと。


「あ、パンダさんのぬいぐるみ……中々脱がすことが出来なかったので、特別なハサミで切り刻んじゃったんですけど……うう。なんかすみません!」

「いや、全然オーケーだ。というか、人命救助してくれた君がそんな心配をする必要ない。むしろこっちが頭を下げなくちゃいけないところだ」

「い、いえいえ。そんなことはありません! 私は当然のことをしたまでですので! 一応、知り合いが戻ってくるまでもう少し時間がかかってしまうんですが……病院の方は行かなくて大丈夫ですか?」

「流石にそこまでさせてもらうのは申し訳ないから遠慮しておくよ。それに、体調もだいぶ戻ってきてるしな」

「で、ですが、油断は禁物です。また何かあったらと思うと、心配で心配で――」


 そうして、なぜかお互いに譲らない展開となってしまった。


 元はといえば、倒れた俺が全て悪いのだが……この子はどうしてここまでしてくれるのだろうか。


 見知らぬ人に対して、ここまでするのは流石に優しすぎではなかろうか。


 普通であれば見捨てられてもおかしくないというのに。


 しかし……この車。

 彼女の自家用車か?


 それにしては大きすぎるし、女性が持つにしては少し派手な気も……。


 しかも、何か良く分からないけど。

 どこか見覚えがあるような……。


 って、え?

 ちょっと待て。


 あの。もしかして。


 い、いやいや。

 流石に気のせいか。


 うん。ちょっとまだボケてるみたいだな俺。

 脱水症状が抜け切れていないのだろう。きっと。


 だからこそ、ここは冷静に。

 そう。冷静沈着になるんだ。


「えっと……俺から一つ聞いても良いか?」

「ふぇ? は、はい! 何なりと!」

「その、答えられなかったら答えなくても良いんだけど……。この車は君が普段使っているのか?」

「い、いえ。これは私の知人が使用している物なので……その、実はもう一人いるんです。今はちょっと出かけてて私が待っている形になっています」

「あ、ああ。さっき言っていた知り合いの人か。後からその人にもお礼を言わないといけないな。うん」


 俺がそう言うと、なぜかゆるふわ系の彼女はチラチラと目線をこちらに向けて、何かを言いたそうにしている。


 まるで、本当の真実を話したがっているような――。


 いや、それとも単純に初対面だからだろうか。

 俺も、昔は人見知りで上手くコミュニケーションが取れない時期もあったからな。


 ここは敢えて気にしないで話を進めるのがベターだろう。


「なるほど。ということはその知人さんが主導して使っている感じか。会社用……だよな。多分」

「は、はい。そうですね……。ですが、あまり詳しいことは言えないので、名前だけは周りに伏せてもらえると助かります……」

「ああ。分かった。というか、こっちは救われた身だからな。絶対に他言はしない」

「――ッ! ほ、本当にすみません。何度も何度も」


 そうして、またペコペコと頭を下げる彼女。


 それは俺がやる役目のはずなんだが……。


 外見はゆるふわ系。

 しかし、中身はかなり真面目系よりの女の子。


 あらゆることに対して一生懸命という感じが伝わってくる。


 ちなみに、俺はこういう子が結構好きだ。


 ある種、タイプといっても良いだろう。


 まあ、生涯独身を掲げている俺には縁のない話かもしれんが。





 そういえば俺もこういう車、よく使ってたな。


 あの生意気な女優の送り迎えとかで結構大変だったんだけど。

 まだあの頃の原型を保ったまま、未だに使用されているのだろうか……。


 何だか、思い出すと寂しいような懐かしいような。


 く。ダメだダメだ。

 あの頃の未練はもうキッパリと無くしたはずではないか。


 何をここでうじうじと。

 過去の事に囚われるなんて、まったく俺らしくない。


 人生は常に明るく。

 そう。楽しく過ごすと決めた。


 それに、俺にはあのBarがある。


 今日という日を終えて、必ず金田君と仲森君のいる場所に帰るのだ。


 そして、三人で笑い合って、また酒を飲み交わそう。


 そうすれば、きっと――。


「そ、その。私からも一つだけ、聞いても宜しいでしょうか」

「お、おう。何だ?」

「過去にお兄さんと、どこかで会ったような気がするのですが……」

「え、過去に? 俺と君が?」

「は、はい。私の勘違いだったら本当に申し訳ないんですけど……。ち、違いますか?」


 突然のことながら、おどおどしながらも、どこか真剣そうな表情を交えながら聞いてくる彼女。


 対して俺は背中から嫌な汗が吹き出てくる。


 って、いや。ちょっと待て。

 こんな子と昔、会ったことがあるか?


 いや。そんなことあるはずがない。

 第一、芸能時代に居た頃は水瀬の奴が謎に目を光らせていたから、あまりこういう女性とは接点が無かった。


 というか、仕事が忙しすぎてそれどころじゃなかったんだけどな。


 でも……よくよく見るとこの子、ような気もする。


 過去に、河川敷で助けたに似ている気が――。


 って。いやいや。

 そんな偶然あるわけないだろう。


 何かの間違いに違いない。

 うん。きっとそうだ。


 しかも、あれはもうだ。


 彼女が、あの時の子と同一人物である保証はどこにもない。


 ましてや、真実を話したとして、過去にこんな情けない男に救われたことがあるだなんてことがあったら、きっと引かれるだろう。


 ここは詳しく語らぬまま、謝礼を出してすぐに去ることがベターではなかろうか。


 うん。そうしよう。

 そうするのが賢明だ。


 よし。

 そうと決まれば後は計画通りに――。





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