第37話 新婚マイナス10日その1

「こんにちは。今日もお邪魔します」


執務フロアの受付で、本日も化粧崩れゼロの完璧な笑顔を浮かべる秘書鶴見に軽く会釈する。


このフロアに足を運ぶようになってから、彼女の笑顔が曇っているところや、メイクが崩れているところを一度も見たことがない。


常に親しみやすい完璧な笑顔と、凛としたたたずまいで出迎えてくれる。


同性から見てもうっとりしてしまう上品で理知的な佇まいは、いつだってこんな大人の女性になりたいなと思わせる魅力に溢れている。


清匡がホテルに就職をした頃からすでにこのフロアの責任者だった彼女の美貌は、当時から少しも損なわれる事無く、むしろ年齢を重ねるごとに増していくばかり。


清匡いわく、父親が部長職に就いていた頃に別企業で秘書をしていた彼女の手腕に惚れ込んでヘッドハンティングしたというから、かなりの実績の持ち主だ。


いわゆる美魔女と呼ばれる世代である事は確かだが、それ以外の詳細は一切不明。


現社長が自分が社長職を清匡に譲った後も、落ち着くまではサポート役として勤務を続けて欲しいと懇願しているとまことしやかに噂される程の実力の持ち主。


執務フロアの影の権力者は確実に秘書、鶴見である事は間違いない。


素敵な人の前に立つと、自然と背筋が伸びるもので、心なしか歩幅も小さく上品になる。


清匡は恵茉を表立った場所に好んで連れ回すつもりはないようだが、いつ何時声が掛かっても良いように準備だけはしておかなければならない。


忘れかけていた聖琳女子の礼節マナーの淑女教育が生かされるのはまさにこれからなのだ。


連れて行かれる公の場は、加賀谷家の主催のパーティーくらいのものだったので、これまで特別意識したことのなかった礼儀作法がこれからは恵茉を守る砦になる。


聖琳女子の名前を背負って立つ生徒たちとは一線を画した、平々凡々な人生を送る予定だった恵茉なので、当然礼節の授業はギリギリ平均点だった。


それでも両親はまったく気にしなかったけれど、もうちょっと真面目に授業を受けておくべきだったかもしれない。


「いらっしゃいませ。お邪魔ではありませんよ。むしろ定期的に来ていただけると助かります。清匡さんの息抜きになりますから」


「え!?定期的に・・!?」


いつ出向いても温和な態度を崩さないオンモードの彼女だが、それにしたって定期的はどうなんだろう。


リップサービスにしたっていささかオーバー過ぎる。


恵茉は清匡の正式な婚約者で、未来の社長夫人ではあるが、実際はなんの権力も持っていない。


人事権はもちろんのこと、評価査定の権限だってありはしないのだ。


だから、これほどまでに歓迎される理由は、ゴマすりやおべっかでは有り得ない。


つまるところ、彼女の嘘偽りない本音である。


「ぜひそうしてくださいませ。恵茉さんがいらっしゃった後は、いつも以上に決裁スピードが上がるともっぱら評判ですから」


「えええええ・・・・」


何とも微妙な評判である。


している事と言えば、いつも通りティーサロンから運ばれてきたお茶を飲んで、お茶菓子を食べて清匡と挙式披露宴の打ち合わせをして、後はちょっとした恋人同士のスキンシップ・・・


油断した拍子に思い出してはいけないことまで思い出されてしまった。


彼が幼馴染から急遽格上げされた恋人兼婚約者を構いたがるのは今に始まった事ではないが、最近その行為が徐々にエスカレートして来ている。


正確には、あの新居のベッドルームでのひと時から。


まさかのダブルベッドでうたた寝なんて、いくら緊張と疲労が一気に押し寄せたからって未婚女性のすることではない。


間近に迫った挙式披露宴の準備はますます立て込んでいて、花嫁の確認事項もかなり増えた。


とはいえ、通常の花嫁の4分の1程度に抑えられているそうなので、これ位の事で音を上げるのは情けない話だ。


恵茉への負担は極力抑えて、清匡サイドで巻き取れる所は限界まで巻き取った結果、彼の睡眠時間は通常の半分程度になっていたのだが、それでも清匡のパフォーマンスは一向に落ちない。


社会人経験の抱負さと、体力差をまざまざと見せつけられる結果である。


結婚相談所の仕事はほぼお休み状態の恵茉なので、いくつか手助けできる部分があれば、と申し出てはみたものの、大丈夫だよとやんわりと断られてしまった。


挙式未経験のプレ花嫁があれこれ口や手を出して仕事を増やすよりは大人しくして居る方が良いだろうと、清匡の返答に頷いて、何かあれば声を掛けてね、と頼んだところ、彼が恵茉に依頼した事はただ一つ。


出来るだけ執務室に顔を見せて、という事だった。


数日前までは仕事の合間を縫って、近場に夕飯デートに出掛けられていたが、それも難しくなってきたので恵茉の顔が見たい、というのが彼の言い分だ。


嬉しくないわけがないし、こんな顔で良かったらといそいそこうして出向いているわけだが。


無人の執務室で、清匡の戻りを待っている間、こちらがどれだけドキドキしているかなんて、きっと彼には分からない。


恵茉が室内にいる事を確かめた彼が、微笑んで後ろ手にドアを閉めるたび、期待と不安で押しつぶされそうになるのだ。


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