第29話 新婚マイナス20日その1
ティーサロンのいつもの角席に通されると、テーブルの上に可憐な花束を見つけた。
淡いオフホワイトの薄紙に包まれているのは、オーキッドピンクのバラ ホワイトスター アンスリューム カーネーション 利休草。
お店の雰囲気にしっくりと馴染んだそれは、上品且つ華やか。
誰のために特別に用意されたものかはすぐに分かった。
それでも少しだけ不安で、後ろを振り返って清匡の顔を伺えば。
「結婚祝いらしいよ。有難く貰っておいで」
鷹揚に頷いた彼が仕事用ではない上機嫌の笑顔で椅子を引いてくれる。
早速手に取った花束を確かめると、カードが付いていた。
”幸せな花嫁に”
届けられたメッセージに、改めてその先の未来を実感する。
「ありがとうございます!とっても嬉しいです」
給仕にやって来た顔馴染みのスタッフに笑顔を向けると、倍の微笑みを返された。
ティーサロンの常連客だった恵茉は、この店のスタッフの殆どの顔と名前を覚えている。
感覚としては親戚のような間柄の彼らからの祝福は、疎遠になっている親戚のそれより数倍嬉しく感じられた。
「お花は、沢津橋さんが全て選ばれたんですよ。すぐに顔を見せると・・・あ、来ました」
ティーサロンを仕切っている厨房の主ことパティシエ沢津橋が、コックコートがはち切れそうなまん丸のお腹を揺らしながら、幾重にも皺の寄った柔和な顔を綻ばせてカートを押してやって来る。
清匡と恵茉の結婚を知らされると同時に、ウェディングケーキの製作を一任して欲しいと手を上げた彼は、何度も恵茉と相談をしては試作を重ねていた。
未だ一つに絞り切れていないのは、パティシエの作り出すケーキがどれも夢のような美味しさのせいである。
「ようこそマドモアゼル。お待ちしておりましたよ!」
フランス仕込みの流暢な響きで呼びかけられて、恵茉が破顔してはしゃいだ声を上げた。
「ボンジュール、ムッシュ!素敵なお花をありがとうございます」
恵茉の笑顔を覗き込んだ沢津橋が茶目っ気たっぷりに片眼を瞑ってみせる。
「今日は一段とご機嫌なようで何よりです。婚約者殿と一緒のせいかな?」
結婚が決まって以降、ホテルのティーサロンに二人で揃って顔を見せたことは無い。
恵茉がやって来ると、挙式披露宴の打ち合わせを兼ねて執務室でお茶をすることが殆どだった。
秘書曰く、意図的に執務室で二人きりで過ごせるようにしているらしい。
恵茉としては、あの日の告白以降激変した清匡の甘ったるい雰囲気に押されがちなので、四六時中二人きりというのはまだちょっと慣れない。
これまでのような幼馴染の距離感でなら、何時間でも一緒に過ごせるのだろうが、彼から恋人兼婚約者として扱われるとどうしてよいか分からなくなる。
これまでだってぞんざいに扱われた事なんて一度も無いし、常に優しくして貰って来た。
大事にされてきた自覚があるだけに、そこに親愛以上の愛情が上乗せされると、限界値を突破して身動きが取れなくなるのだ。
我が物顔で恵茉の指先や頬に触れる清匡の仕草は熱っぽくて優しくて、不意に距離を詰められる度尻込みしてしまう。
そして、あわあわする恵茉を見て清匡が満足そうに微笑むものだから、尚更困るのだ。
だから、今日のティーサロンデートは、身構えずに済むので有難かったのだが、そういった心境の変化までシェフはお見通しだったようだ。
色々と方向は間違っているけれど、こうしてティーサロンで二人でゆっくりお茶が出来るのはやっぱり楽しい。
幼馴染だった頃よりもずっと清匡から大切にされていると感じられる。
この人の隣は絶対に安全安心だと分かると、勝手に身体と心はほどけていく。
一生懸命彼からの愛情に応えているはずなのだけれど。
「だといいけど」
「いつもご機嫌ですよ!」
肩をすくめた清匡と恵茉の声が綺麗に重なる。
清匡から向けられる愛情のほうが格段に大きいので、恵茉はこれからより一層努力して彼に気持ちを伝えて行かなくてはならない。
加賀谷恵茉としてふたりで幸せになるために。
「此処の所、恵茉お嬢さんがいらっしゃっても執務室に閉じ込めてばかり。少しは我々と過ごす時間も許して頂かないと、ねえ?」
ひょいと眉を持ち上げて揶揄いの眼差しを投げた沢津橋を一瞥して、清匡がどうしてか恵茉に矛先を向けて来た。
「俺としては必要に駆られて、執務室に留めてるつもりなんだけどな、どう?」
挙式披露宴の確認事項は山積みだからと言外に告げられて、唇を引き結ぶ。
打ち合わせが終わった後もなんやかんやと理由を作っては恵茉を引き留めて、いつまでも会議室に向かわない清匡を心配した秘書の控えめなノックで、苦い顔と共に恵茉を腕の中から解放する人の台詞とは思えない。
あれのどこが必要に駆られてなのか全くもって謎だが、当然そんな事口には出来ない。
一人残された恵茉が火照った頬をどうにか収めて、心臓が落ち着く頃に、タイミングよく秘書から紅茶のお代わりを届けられる時のあの何とも言えない気まずい気分を、どう表現して良いのかも分からない。
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