第11話 Conscience
Ⅺ Conscience
――二人がどこにもいない。
教会の中だけでなく、初めて踏み入る孤児院の建物の中も含めて、敷地内ほとんどを調べ終えたエイミーは、そう思った。まだ探していない場所は、教会にあるジェーンの私室と地下室、それにアキの鍛冶小屋だけ。地下室と鍛冶小屋には、どちらも内側から鍵が掛かっていた。
鍛冶小屋では、煙突からもうもうと黒煙が立ち昇っており、中からは一定のリズムで機械音がずっと響いていた。
できるだけ使いたくなかった手段だったが、彼女は、教会へと踵を返すと一直線にジェーンの部屋へと向かい、ノックもなしに扉を乱暴に押し開ける。
部屋の主は、そんな無作法に怒るでもなく、書き物の手を止めると、静かに彼女の方を振り向いた。
「あら、アミーリア。お早うございます。ご機嫌は如何でしょうか?」
その問い掛けには答えることなく、エイミーは仁王立ちのまま、椅子に腰掛けるジェーンを見下ろす。
「アイツら二人、どこ行ったか知らない?」
横柄に問いを投げつける。
ジェーンは静かに答えた。
「ミラは、地下室にいると思いますわ」
「地下室ぅ? さっき調べた時には、鍵掛かってたんだけど」
「何も驚くことはありませんわ。だって、今朝方からずっと、彼女が閉じ籠っているのですから」
それは、エイミーにとって予想の範疇になかった回答。
「は? 何で閉じ籠るのさ」
「それは、御本人に直接お伺いになった方がよろしいかと」
相変わらずの言い回し。エイミーはわざとらしくため息をついた。
「はぁー……。――まぁいいや。じゃあオリヴィアは?」
エイミーの問い掛けを受けて、ジェーンは窓の外に目を向けた。その先にあるのは、アキの鍛冶小屋だ。
「オリヴィアは、――アキのところですわ」
それもまた、エイミーにとっては意外な返答。
「何でアイツがあんなとこに居んの?」
それに対して、ジェーンはすぐには答えることなく、しばし黙する。数秒後、ジェーンは再び口を開いた。
「オリヴィアは、とても素晴らしい決断をされました。――正直なところを申しますと、わたくしは今もなおこの身が打ち震えるのを抑えることができませんの。と言いますのも、わたくしが今まで関わった子供達の中で、彼女のように毅然とした意思を示したのは、実に初めてのことでしたので。――まさか、あそこまで強い意思を秘めた子だったとは」
その持って回ったような言い回し自体は、平常運転である。だが、エイミーは、その言葉が帯びる得体の知れない不穏さを敏感に感じ取った。
「……アンタ、一体何やったんだ…?」
喉奥から絞り出すような低い声。その声色が少し震えているのが、エイミー自身、理解できた。身体の芯が急速に冷えていくのを感じる。
「わたくしは、何も」
涼しげな顔で答えるジェーン。
それを見たエイミーが、怒りを滲ませながら、彼女との距離を詰める。
「じゃあ、聞き方変えてやるっ! アタシが寝てる間に、あの二人に何があったんだ⁉」
ジェーンは、静かに目を伏せた。長い睫毛がなまめかしく動く。
「そうですね。貴女には知る権利がありますわ、アミーリア。――昨晩、墓所から帰った後、オリヴィアは尊い決断を下したのです。自分をミラとアミーリア、貴女方の役に立つ武器にして欲しい、と」
その言葉が意味するのは、ただ一つ。エイミーは瞬時に何が起こったのかを悟った。
ジェーンの胸倉を力一杯に掴むエイミー。
「この人間のクズが…っ!」
しかし激昂する彼女に胸倉を掴まれてなお、ジェーンは恍惚そうな表情を浮かべる。その表情を目にしたエイミーは、この女に何を言っても無駄だと、すぐに悟る。
手を振り払い、そのまま窓を乱暴に開けて飛び出すと、鍛冶小屋まで突っ走った。
内鍵が掛かっていることは承知の上で、その扉を力任せに乱打する。しばらくそうしていると、機械音が止み、鍵の外れる音がした。以前目にした時と同じ格好で、顔を煤で汚したアキが、扉の隙間から顔を覗かせる。
「おいっ、このクソガキがよぉ‼ 鍵しまってんだろうが! あぁ?」
興奮したエイミーは、それには取り合わず、アキを押しのけるようにして、小屋の中へとなだれ込んだ。左右を素早く見回して、オリヴィアを探す。オリヴィアの姿は、どこにもない。以前と違うのは、奥の炉に火が入っていることと、大きな工業用の機械の中で石炭が燃え盛っていることくらいだった。
「おいっ、聞いてんのかっ? クソガキぃ!」
エイミーは、背後から自分の肩を掴んたアキの手を乱暴に振り払って、向き直った。
「アイツは⁉ オリヴィアは⁉ ここにいるんでしょっ⁉」
鋭くアキを睨め付ける。
その問いを投げつけられたアキは、ほんの一瞬だけ、その表情を悲痛そうに歪ませた。
エイミーから視線を逸らすと、彼女は作業用エプロンのポケットから紙巻煙草とマッチを取り出し、口に咥えて火を付けた。その横顔は憂いを帯びた不思議な表情。
「……もう遅ぇよ」
紫煙と共に吐き出されたのは、たった一言。
それを聞いたエイミーに生じたのは、体内の血液が一気に沸騰するかのような感覚。考えるよりも先に、エイミーの右拳がアキの頬を強く殴りつけていた。
咥えた紙巻煙草が、灰を撒き散らしながら石床へと転がっていく。
刻限は昼。狂乱の叫びを上げる怪物共の遥か頭上で、月が鈍く輝きを放つ時間ではない。ゆえに、その拳に乗るのは、単なる一少女の腕力だけ。
しかし、アキはエイミーに殴られた状態のまま、じっとその痛みに耐えているように見えた。彼女は徐に蹲ると、石床の上で細い白煙を立ち昇らせている吸殻をつまみ、その火をぎゅっと握り消した。吸殻を燃え盛る石炭の山の中へと放ると、肩を上下させて息をするエイミーの方にゆっくりと向き直る。
「……気ぃ、済んだか……?」
抑揚のない声。
エイミーの殴打に怒るわけでも、声を荒げるわけでもなく。本当に淡々と。
自己を正当化する詭弁の一つでも言い返すことすらしない。その様子がエイミーの神経を逆撫でする。
「済むわけっ……ないでしょ……っ」
アキの胸倉を両手で掴むエイミー。その顔をきつく睨め付ける。
「あぁ。……だろうな」
アキは、視線を逸らそうとはせず、深い黒を湛えた瞳で、じっと目の前で感情を剥き出しにした赤毛の少女を静かに見つめ返す。
「こんなのって……っ、あんまりじゃない…⁉」
感情を剥き出しにすることも厭わず、目の前の黒髪の女に対して、言葉を吐き出せば吐き出すほど、昨晩に墓地でオリヴィアへ投げかけた言葉の一つ一つが鋭利な棘と化し、エイミーの胸の裡を容赦なく抉っていく。
昨夜、あんな暴言を吐いたばかりの口が、あろうことか、今は全く真逆に近いことをのうのうとのたまっている。
むしろ、オリヴィアへこの結末を強いたも同然なのは、エイミー自身ではないのか。言葉の暴力という無形の刃で、精神的に弱り切ったオリヴィアを無常に切り裂いたのは、まさしくエイミー自身ではないのか。
今、オリヴィアのために怒り、激昂するのならば、何故、そのほんの一欠片だけでも、昨日、弱り果てた彼女に与えてあげられなかったのだろうか。激情に任せて、オリヴィアのために怒るなど、いささか以上に手遅れで滑稽な行為。その自己矛盾の醜悪さを自覚すればするほど、後ろめたさや後味の悪さ、ひいては慚愧の念が、エイミーの心をじわじわと侵食していく。
結局のところ、エイミーの心中に去来するのは、自分もまたオリヴィアを追い詰めるところまで追い詰めてしまった一人だという後悔と罪悪感。
エイミーがアキを糾弾するのは、彼女がこれ以上ないくらい分かりやすい下手人だから。オリヴィアを刀へするべく、直接に手を下している人物だから。
エイミーがアキをなじるのは、結局のところ、エイミー自身の罪悪感を少しでも和らげるための、卑劣で身勝手な自己愛に塗れただけの行為。
少なくともエイミーには激昂する資格はない。
その自覚があるからこそ、次第にその両の握り拳の力は弱まり、ついには、両腕が力なく下ろされる。
アキが徐に口を開いた。
「……わりぃが、作業はあんまし長く中断しとけねぇんだ。早く続きに取り掛からねぇと、全部ダメになっちまう。――だから、頼むから、もう出てってくれねぇか?」
それは懇願するような声色。
それなりに背丈のある彼女であれば、小柄なエイミーを力ずくで追い出すこともできるはずなのに。アキは、急かすこともなく、エイミーの返答をじっと静かに待ち続ける。
それはまるで、ぐちゃぐちゃに散らかったエイミーの心の中身について、取り敢えずの整理が済むのを待っているかのよう。
エイミーにとって折り合いなど、そう簡単につけられるものではない。だが彼女は、悲痛な表情で俯いたまま、のろのろと踵を返すと、おぼつかない足取りで戸口へと向かう。
「もういい。……好きにすれば?」
それは、今にも消え入りそうな声。
「ジェーンにも、アンタにも、……人の心ってのが、欠けてんじゃない?」
――そして、自分にも。
エイミーは口には出さずに、胸の裡で呟いた。
後ろ手で扉を閉めたエイミーが立ち去った後、アキが囁くように答えた。
「あぁ。……だろうな。お前さんの言う通りだよ。何にも間違っちゃあいねぇさ。あの女はともかく、……少なくともわたしだって、許されようなんて面の皮が厚いことなんざ、端っから思っちゃいねぇよ」
*
肩を優しく揺さぶられて、アキは目を覚ました。その目の前で柔和な笑みを浮かべるのは黒衣の女。
ジェーンだ。
鍛冶小屋の中、簡素な寝台の上で、アキは上体を起こした。
作業台の上へ置いていた角灯には、いつの間にか灯りがともっている。
「お休みのところ、起こしてしまい申し訳ございません、アキ」
アキは顔を顰めた。明け方もそろそろ近づいてきた中途半端な時間に起こされたことに、ではない。こういうイレギュラーなタイミングでの彼女の訪問が、何を意味するのか、経験上、知っていたからだ。
その予感は的中する。
できれば、外れてほしいというアキの願いも空しく。
ジェーンの後ろから、小柄な少女が顔を覗かせる。くせっ毛の金髪に緑のリボンが結わえ付けられている。
「彼女――オリヴィアは、とても素晴らしい決断をされました」
普段以上に恍惚そうな表情のジェーン。それはまるで、この場で今にも小躍りを始めそうなほどに。
「あぁ、メアリ……。貴女がこの場に居合わせないのが本当に悔やまれますわ。もし、いらっしゃったのでしたら、これ以上ないほどに尊い魂の輝きをご覧になれたというのに……」
熱を帯びた独り言を滔々と述べるジェーン。ひとしきり自分勝手に熱を吹いて満足したのか、その表情は、実に晴れやかであった。
「さて、――では、後はよろしくお願いいたしますわね、アキ。今回も善い仕事を期待しておりますの」
そう述べると、彼女は、オリヴィアを一人残して鍛冶小屋の扉を閉めて立ち去った。
残されたアキとオリヴィア、二人の目が合う。
お互いに多少の気まずさを伴う沈黙。
間を持たせるかのように、アキは紙巻煙草に火を付け、起き抜けに一服する。
「……なぁ」
寝台に腰掛けた状態で、アキが言った。
戸口の前で佇立するオリヴィアの身体が、ビクッと軽く跳ねた。その様子は、小動物を思わせる。
「――止めんなら、今のうちだぞ?」
両腕を膝の上に載せて、足元に視線を落とすと、アキがぽつりと呟いた。オリヴィアは、彼女の発言に意外そうに眼を丸くする。
しかし、少女はすぐに首を振った。
「ううん、大丈夫。――どうか、よろしくお願いします」
深々と頭を垂れてお辞儀をする。
それを一瞥したアキは、黙したまま口から細い紫煙を吐いた。
アキは、紙巻煙草を右手で握り潰すと、ゆっくりと、実に緩慢な所作で立ち上がり、作業台の上を指し示した。
「じゃあ、そこへ横になんな」
「――うん、分かった」
「……手伝うか?」
アキが問う。それに対して、少女は静かに首を横へ振った。
「大丈夫、自分で上がれるから」
そう言うと、オリヴィアは靴を脱いで丁寧に揃えると、作業台の上へとよじ登った。彼女が身体を動かす度に、台脚が軋む。
オリヴィアが台の上に仰向けで寝転ぶと、アキがその真横に立った。
「――怖ぇか?」
アキが問うた。
少し思案気な顔をした後、少女は口を開いた。
「……怖いよ」
その声は僅かに震えている。
「でも、決めたから。――二人の力になりたいって」
その瞳は、強い意思を湛えた色を帯びている。
オリヴィアと目を合わせたアキの口元が、一瞬だけ悲痛そうに歪んだ。彼女はオリヴィアに背を向けると、棚を物色し、チューブの繋がった金属製のカップを取り出し、オリヴィアへと手渡した。
その時、彼女の手の平を目にしたオリヴィアが、驚いたように目を丸くする。
「それ、……痛くないの?」
指さすのは、アキの右手。手の平の中央辺りが、赤く爛れて、引きつけをを起こしていた。酷い火傷の跡だ。
「――こんなもん、痛かねぇよ……」
その言葉の最後は、音として発せられることはなく霧散する。その唇だけが、その先に紡がれるはずだった言の葉を形作るように動いた。
「そいつを鼻と口に被せな」
手振りでアキが示す。
言われた通りに、オリヴィアは小さな両手で包み込むようにしてカップを握ると、自分の鼻と口を覆うように載せた。
しばしの沈黙。
何も起きないことを疑問に思ったオリヴィアが、アキの方を見上げる。黒髪の女は、口をきつく結んだまま、じっと上を向いて沈黙していた。
「止めんなら、――本っ当に今だぞ?」
喉奥から絞り出された、か細い声。
「ジェーンのことなら、気にすんな。――今ここで、お前さんが逃げ出したとしても、バレねぇように何とかしてやる」
オリヴィアは、カップを口からずらすと、弱弱しく微笑んだ。
「大丈夫だから。……だって、ミラの、エイミーの、――二人の力になりたいから」
「――そうか……。悪かった。野暮なこと聞いちまった」
それだけを呟くと、アキは角灯に手を伸ばした。
「ジェーン特製の麻酔ガスだ。効き目は折り紙付きだ――憎たらしいくらいにな。引火すっと危ねぇから、灯り消すぞ?」
「……うん」
オリヴィアが小さく頷く。
角灯の灯りが力を失っていき、そして消える。だが、夜目の利くオリヴィアにとってはさほど不自由はない。
アキが、チューブを手探りで手繰るようにして、床の上に置かれたボンベへと辿り着く。オリヴィアに背を向けて、そのバルブに手を掛けるのが見えた。だが、バルブに掛かった手はそれ以上動くことはなく、そのままの姿勢でアキの両肩が小刻みに震えている。
闇の色に包まれた小屋の中。耳を澄ませなければ聞こえないほどに小さな嗚咽が、断続的に空気を震わせる。
オリヴィアはそっと目を閉じると、カップで鼻と口を覆う。
「――じゃあ、開けっぞ……」
くぐもった声がした。
オリヴィアが顔全体にポカポカとした温かさを感じた数秒後、その意識の糸は断ち切れた。
*
オリヴィアの一件から三日が経った夕暮れ時。
イーストエンドは、相も変らぬ曇り空。
エイミーは、教会の入り口横のベンチに深く腰掛けている。昼頃からずっとその状態のままだ。その視線の先では、子供達が無邪気にやかんを蹴り合いながら遊んでいる。その中にミラの姿はない。
結局、あの日、アキの鍛冶小屋を後にしたエイミーは、教会の地下室へ立ち寄ることはなかった。否、正確に言えば、立ち寄ることができなかった。自分の思慮を欠いた軽率な言動のせいで、大切にしていた妹を永遠に失ってしまったミラに、どのような言葉をかけるべきかなど、エイミーには到底分からなかったからである。
自分が本当に心から悔いているのだと、たとえどれほど言葉を尽くしたとしても、それはきっと、所詮、空虚で上滑るものにしかならない。
ゆえに、地下室へは未だに近づけず、かといって何か他のことで気を紛らわすこともできず、エイミーは、こうしてただ無為に時間を消費していた。
夜はずっと台所で眠りに就いていた。もしミラが部屋に戻って来ても顔を合わせなくて済むように。それは、ミラを気遣ってというよりもむしろ、エイミー自身が気まずいからという自己中心的な理由。エイミーは、そんな行動を取ってしまう自分自身に心底辟易していた。
薄く霧がかかった西の空。その足元に広がる瀟洒な建物群を紅く染め上げながら太陽が地平線へと近づいていた。
教会の建物の陰から誰かが近づいて来る足音がする。
「よぉ、隣いいか?」
問い掛けながらも、エイミーの返答を待たずに、彼女の横へ乱暴に腰を落とす人物。アキだ。
ベンチが大きな音を立てて軋んだ。
「コイツもそろそろ手入れしなきゃな」
労わるようにベンチの座面をさするアキ。
「……誰も座っていいなんて言ってないんだけど?」
視線を正面に向けたまま、エイミーが毒づいた。
「かてぇこと言うなよ。こちとら、ほとんど三日間ぶっ続けの徹夜明けで疲れてんだ」
長い脚を組んだアキは、エプロンのポケットから紙巻煙草とマッチを取り出して、火を付けた。左肘をベンチの背もたれの上に横柄に置く。彼女の吐いた紫煙が、辺りに薄く広がった。
「……臭いんだけど」
エイミーが言った。
それを受けて、アキは小さく鼻で笑った。
「辺りの煙突から出てきた煙をもう目一杯に吸い込んでんだろぅが? 今さら紙巻一本増えたところで、大して変わんねぇよ」
エイミーはそれには答えず、無視を決め込む。
アキの方でもそれ以上何か言うこともなく、ただプカプカと煙突みたいに紫煙を吐くだけ。
子供達の蹴ったやかんが、大きく宙を舞い、ベンチの足元付近へと転がった。四、五人ほどの男の子達が、エイミー達の方へと駆け寄る。
「アキぃ! それ取ってぇ!」
その内の一人が、不必要なほどに大きな声で叫ぶ。
アキは、腰掛けたまま手を伸ばしてやかんを掴むと、彼らの方へと放った。
「ねぇーっ、アキも一緒に遊ぼっ⁉」
別の一人が叫んだ。
咥えた煙草を指で摘まむと、アキは大声を張り上げた。
「見りゃわかんだろっ! こっちは疲れてんだっ、手前らだけで勝手に遊んどけ。――おいっ、ジョージ‼ そんな乱暴にシャツを脱ぐな‼ 破けるだろうがっ。一体誰が縫うことになると思ってんだよっ⁉」
泥だらけになったシャツを脱ぎ捨てた、ジョージと呼ばれた男の子を含め、他の男児達全員が耳障りな甲高い声を張り上げて笑いながら、方々へ散り散りになる。幼児にとってアキの叱責は、あまり功を奏していないようであった。
もう既に彼らの興味の対象は、右へ左へと飛び交うやかんにしかなかった。ゆえに、彼らのシャツはその持ち主に顧みられることなく、容赦なしにあっという間に泥と土に塗れていく。
思わずエイミーが小さく笑った。
「ナメられてるね、アンタ?」
「これだからガキは嫌いなんだよ」
ため息とともに紫煙を細く吐き出す。
「アンタさ」
何の気なしに、エイミーが言う。
「あそこで遊んでる奴らの名前、全部覚えてんの?」
その質問が意外だったというふうに、アキは少しだけ目を丸くした。
「まぁ。そりゃあな。そんなもん一緒に居たら勝手に覚えるだろ」
「ねぇ」
エイミーが初めて横を向いた。
「前から気になってたんだけど、アンタってさ、この国の人じゃないでしょ?」
アキは、摘まんだ煙草を指で軽く弾いて、先端の灰を地面へと落とした。
「ああ」
彼女は短く答えた。
「どっから来たの?」
少しだけ間を置いて、エイミーが問うた。
「こっから、ずぅーと東に行った先だ。ここの女王陛下様が、ついこの間女帝になったっていうインドさえも越えて、ずっとその先の小さな島国だよ。多分お前さんが聞いたこともない、な」
黄昏時の西日に切れ長の目を細めながら、彼女が答える。
「そのわりには、英語、普通に喋れるんだ」
それを聞いたアキは、小さく笑った。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。喋れなかったさ。……見よう見まねで聞きかじっただけだ。二十年近くもありゃ、流石に喋れるようにはなる。喋れなきゃ異国では野垂れ死ぬだけ。――まぁ、読み書きは結局、ほとんど出来ずじまいだけど、な」
遠くを見つめるような黒い瞳。それにエイミーは覚えがあった。泥を啜ってでも、何かを成し遂げるために生き抜くことを誓った貧民の目、孤児の目。その面影を色濃く残していた。
「……アンタもさ。アタシらと同じなんでしょ?」
徐にエイミーが切り出した。
「同じって、どういうことだ?」
「だから、あのクソ女に化物にされたんじゃないかってこと」
それを聞いて、アキは小さく笑った。ほんの少しだけ寂しそうに。
「意外に勘が鋭いんだな。お前さんと似たようなもんさ。――飼われてんだよ、あの女にな。手先の器用さを買われて、あいつの言うことに唯々諾々と従うだけの便利な手駒ってとこだよ、わたしはな」
「アンタは、……それで満足なの?」
「面白れぇこと言うな、お前さん。――選択肢なんか端っからなかったよ。わたしに与えられたのは、アイツに従うか、それとも不法移民として監獄にぶち込まれるかの二択だけ。で、わたしはアイツの手駒になることを選んだ。自分の目的を果たすためだ。……そのためなら、わたしは地獄に落ちたって、構わしねぇよ」
短くなった吸殻を握り潰すと、アキは新しい紙巻煙草に火を付けた。
「アンタの目的って何?」
エイミーが問う。
アキは黙ったまま紫煙を吐いた。
「最っ高の刀を作ること。それだけさ。志半ばで死んじまった親父の無念を晴らすために。たったそれだけ。……そのためだけに、わたしは鬼畜みてぇな所業を重ね続けてきた。多分これからも、な」
煙草の先で長くなった灰が、地面へと落ちた。
「お前さんの言う通りさ。わたしは、自分の目的のためだけに、ジェーンに言われるがまま、渡された子供らを次から次へと、片っ端から刀にしまくった。……そいつが、自分の仕事に信念と誇りを持ち続けた親父の目指した、至高の刀ってものに本当に近づいているのか、それとも、どんどんと遠ざかっちまっているだけなのかすらも分かんなくなっちまうくらいに、な。――まぁ、文句のつけようもないほどに、立派なろくでなしさぁ」
その横顔には、憂いに沈んだ自嘲気味の微笑が浮かぶ。
「考えるのは自分のことばっかりなんて。やっぱ、とんでもないろくでなしだね。アンタも、……アタシも」
エイミーは、顔を僅かばかり上げると、虚空を仰いだ。
再び、二人の間には、しばしの沈黙が訪れる。
二人の座るベンチが、傾きを増す夕日によって、建物の影にすっぽりと包み込まれる。
敷地に響くのは、夕日に紅く照らされた子供達の遊ぶ声だけ。
それをただぼんやりと眺めるのは、並んで座る赤髪の少女と黒髪の女。
「なぁ、知ってっか?」
アキが徐に口を開いた。その視線が捉えるのは、遊びに興じる子供達の姿。
「これはジェーンに教えてもらったんだがよ。ロンドンの西の彼方に沈んじまったお天道様はな、遠いわたしの故郷、その東の山々の間から顔を出すんだってよ」
「は? 意味わかんないし」
そう吐き捨てるエイミーの様子に、アキは苦笑を浮かべた。
「ったく――。まぁずっと一っところに住んでっと、なかなか想像しにくいのは確かだろうな。かく言うわたしもこの国に来るまでは、そんなこと思いもしなかったさ。――つまり説明するとだな。それはだな、何か地球の周りをお天道様が回転してるとか何とかで……」
語尾を知りすぼませた後、アキは頭を一しきり乱暴にかいた。
「まぁ、こまけぇ話はどうでもいいんだ。とにかくなっ、わたしが言いてぇのはな、ロンドンにいるわたしらが見てる夕焼けってのはな、わたしらとは、全然別の世界に住む誰かの朝日なんだってことだよ」
頭に疑問符を浮かべるエイミー。
「やっぱ、アンタが何言いたいのか、さっぱりわかんない」
ふと、何かに思い至ったように顔を上げて、アキの方を見た。
「――え、何? もしかして慰めてくれてんの。アンタ?」
それには答えずに、ぷかぷかと紫煙を吐き出し続けるアキ。だが、その頬には、僅かに朱が差していた。エイミーは思わず哄笑してしまう。
「あっはははっ‼ そうなら、もっと分かりやすく言えばいいのにさぁ‼ 変に捻ったこと言った挙句、結局伝わってないし。それに自分でも恥ずかしそうにしてるなんて、ホンッと馬っ鹿じゃないの? アンタさぁ? ――あぁ~ホンっと、おかしいったら、ありゃしない……」
心底愉快そうに、腹を捩って笑うエイミー。彼女にとって最後にこういうふうに心から笑い声をあげたのは、いつだったか思い出せないくらいに。本当に久しぶりに。
「う、うるせぇな、このクソガキがよぉ‼ ……やっぱ、ガキは嫌いだ」
恥ずかしさを隠すように、アキが暴言を吐く。
一しきり笑いに笑ったエイミーは、ふぅーと細く、長く息を吐いて、呼吸を落ち着かせた。そして、アキと同じように子供達の方を見やる。
「アンタはさぁ」エイミーが言う。
「アイツらのこと、ムカつかないの? アタシらが血反吐をはくような思いで稼いだ金で、吞気にああして何の苦労もありませんみたいなツラで生きてんのを見て、さ」
「――いいや」とアキ。
「たしかにジェーンはな、わたしらにとっては、クソみてぇな極悪人さ。それは間違いねぇ。――でもな、あいつらにとっては、これ以上ないくらいの善人ってのも、また紛れもない事実なんだ」
アキは新しい紙巻煙草に火を付けた。
「ジェーンに連れられて、救貧院や孤児院って名のつく掃き溜めを、今までいくつも見てきた。――だからこれだけは言える。ここはわたしらにとっての地獄だが、と同時に、あのガキ共にとってはこの国で唯一残された楽園なんだってな」
遠い目で正面を見据えるアキ。
「ジェーンは、――紛れもなく本物だ。あいつは自分の信念に従って突き進んでいる。それは、わたしらみたいな一部の人間には最悪の形で現れるわけだが、他方で、大抵のガキ共には後光が差して見えるんじゃないかってくらいの菩薩様なんだよ。あの女はな」
「つまりアンタはさぁ、アイツらのために自分を犠牲にしろって言いたいの?」
エイミーが睨め付ける。
「言わねぇさ、そんなこと」
首を横に振るアキ。
「アタシはあくまで事実を言っただけだ。それをどう受け止めて、自分自身の中でどう折り合いをつけて無理やり割り切っちまうか、それとも拒絶しちまうかは、人それぞれ。――正解なんて探そうとすんな。そんなもん、端っからねぇんだ。クソガキはクソガキらしく、自分勝手に好きなように生きればそれでいんだよ、クソガキ」
「……ねぇ」
僅かばかりの沈黙の後、エイミーが徐に言った。
「何だ?」
アキの方へ顔を向けるエイミー。
「そのクソガキって呼ぶの止めて」
正面を見据えたまま、アキが細い紫煙を吐いた。
「……おう、考えといてやるよ」
その時、教会の入り口から、張り付けたような笑みを浮かべながら、黒衣の女が姿を現した。
「あらまぁ、お二人とも、やっぱり仲がよろしいではありませんか。実に羨ましい限りです」
ジェーンだ。相変わらずの薄ら笑い。
「……何か用?」
疎ましそうにエイミーが吐き捨てる。
我が意を得たとばかりに、ジェーンが両手の指先同士を突き合わせる。
「ええ、まさしく。――アミーリア、貴女の出番ですわ」
芝居がかってすら見える仰々しい彼女の態度を見て、エイミーは不快そうに眉を顰めた。
「一人欠けたってのに、そんなのアンタは、お構いなしか。――で、今度は何と戦わせようっての? 蛇、トカゲ、死体と来て、次は何?神か悪魔でも来んのか、ってね? アタシには何にも思いつかないけど、どうせまたヤバい奴なんでしょ?」
毒づくエイミーを意に介することもなく、ジェーンはいつも通りの玲瓏な声で告げた。
「あらあら、お戯れを。貴女も十分ご存じのはずですのよ」
一度言葉を切ると、エイミーとアキの方を見て、ジェーンは事も無げに続きを発した。
「吸血鬼、ですわ」
子供達の喧騒が急速に遠ざかるのをエイミーは感じた。
*
空が白み始めた朝。
控えめなノックが室内に響く。
書き物机の上に聖書を広げたジェーンが返事をした。
扉が静かに開き、その奥から金髪の少女が顔を覗かせた。彼女は一度だけ廊下の様子を窺うと、後ろ手に扉を閉める。
「あら、おはようございます。ミラ」
ジェーンが言った。
「三日ぶりですわね」
いつも通りの優し気な声色。
そんなジェーンを金髪の少女は、何も言葉を発さずに、じっと見つめる。
やがて彼女は、意を決したように口を開いた。
「決めたんだ、私」
朗らかな口調。その瞳の紺碧が微かに揺れる。
「――旧約聖書の創世記」ミラが言う。それはまるで、普段のジェーンを揶揄するかのような色を帯びた口調。
「ソドムとゴモラは、降り注ぐ硫黄の火の雨によって滅ぼされた。なぜなら、そこは退廃し切った悪徳の都だったから」
言葉を切り、ジェーンの方をじっと見つめる。
微笑を湛えたまま黙すジェーン。
「なら、さ」
再びミラが口を開く。
「滅ぼされるべきだよね、この街も。――この世界も。だってそうでしょう? あんなに優しかったヴィアから、最後に残された小さな居場所すら奪い去る世界なんて、きっと間違いだらけに決まってるんだから」
ミラは、書き物机にそっと近寄ると、片手で聖書を摘まみ上げた。
「でもね。三日三晩待ったけど、神様は何もしてくれなかった。この街では、今この瞬間も、悪意が満ち溢れているのに」
ミラは聖書を掴んだ手を離す。背表紙を上にして開いた聖書が、床へと落下し、その中身が皺だらけに歪んだ。
「だからね。決めたんだ。神様がやらないのなら、私が代わりにやってあげようって」
そう言うとミラは、悪戯っぽく微笑んだ。
「言いたかったのはそれだけ。――じゃあね」
背の後ろで手を組むと、ミラは華麗に回れ右をした。ふわりと長い金髪が室内で舞う。
じっと黙していたジェーンが、口を開いた。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか、ミラ」
立ち止まったミラは、少しだけ首を回して振り向いた。
「何?」
「地下室は、貴女にとってのゲツセマネの園だったのですか?」
ジェーンは、まるでミラの心の裡まで見通すかのような瞳を少女へと向ける。
ふっ、とミラが口許を緩めた。
「違うよ。彼は人間だったけど同時に特別な存在。自分にこれから起こる運命を全部知ってたでしょ? でも私は、自分がこれからどうなるかなんて分からない。――だって」
ミラは、ドアノブに手を掛ける。
「だって私は、ただの人間だから」
そう言い残すと、少女は姿を消した。
後に一人残されたジェーンは、床へ落ちた聖書を拾うと、ページの皺を愛おしそうな手つきで丁寧に伸ばす。
ジェーンは、落とされた時に偶然開いた、皺の残ったページへと視線を落とす。
――詩篇第二十二篇第一節。
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
*
日没。
太陽が姿を消し、闇が世界を支配する時間。
怪物共が目を覚まし、今宵も狂乱の宴に酔いしれる。
月明かりだけが変わらず差し込む寝室。
その寝台の上でエイミーは、頭の後ろで両手を組んで仰向けになったまま、天井をぼうっと見つめて、物思いに沈んでいた。
――ミラの処分。
それが今宵、自分に課せられた責務。
ミラはジェーンに宣戦布告した。ロンドンを滅ぼす、と。
それは明確な害意の表明。
彼女にはそれを為し得るだけの力が備わっている。
自身が悪と断じたこの街に鉄槌を下す力が。
脅しなどではない。
確証のない確信が、エイミーにはあった。
もし、ミラが善良なロンドン市民に危害を加えたならば、それはジェーンの落ち度になる。ジェーン自身は涼しい顔をしたまま、エイミーにそう告げた。
落ち度の結果として、ジェーンがどのような処遇を受けることになるのか、そんなことはエイミーの知ったことではない。むしろ、その迎えるべき末路が、エイミーの溜飲が下がるくらいに破滅的であれば良いとさえ思っている。
だが、ジェーンが破滅するということは、すなわち、この孤児院も存続し得ないということをそのまま意味していた。ジェーンという要石があってこそ、ここは数多の救貧院や孤児院とは一線を画することができているのだ。
つまり、ジェーンを失えば、ここで保護された孤児達は、再び悪意と欲が渦巻くこの街の食い物とすぐさま成り果てる。しかし、それを防ぐためには、何か取り返しのつかないことをしでかす前に、一刻も早くミラを殺すしかない。
頭では十分理解できる理屈。
だが、エイミーの心がそれを激しく拒む。
これはいわば、命の天秤だ。
片方の皿にミラを、そしてもう片方の皿にたくさんの孤児達を載せた天秤が、釣り合うかどうかを決めかねて、今なお激しく揺れ動いている。
ふと、扉の手前に気配を感じ、エイミーは首だけを動かして、視線を向けた。
そこには、埃にまみれて皺だらけの肌着を着た、やせ衰えた女が佇立していた。その赤毛はボサボサで両目に覆い被さっている。垂れ下がった前髪の隙間から覗く肌は、青白い。
彼女の骨ばった人差し指が、皺の深く刻まれた首元をゆっくりと横へなぞってゆく。そこからコールタールのように粘性を持った赤黒い液体が、肌着を伝って、下へ下へと落ちていく。
首元に切り開かれた空間から、くぐもった呻き声が聞こえる。
――殺せば?
身体の芯が震えるほどの冷気を伴う声。
――私を殺したように。
赤黒い液体が女の足元に広がる。
――ねぇ、アミーリア?
べちょ、べちょ、と粘り気のある水音を立てながら、女が、一歩一歩を踏みしめるようにして、寝台の方へと近づいて来る。それに合わせて、エイミーの視線も動いていく。
女の素足が小さく持ち上がる度に、床と足裏の間に、赤黒く粘々した糸が引いた。
――あなたはいつもそう。
ボサボサの赤毛が揺れる。
――本当は既に心を決めているくせに。
女が、エイミーの真横に立つと、身を屈めて耳元で囁く。
――あなたは、まるで良心が痛むフリをするの。
突然のノックの音が、エイミーの意識を現実へと引き戻した。上半身を起こすと、波打つ鼓動を鎮めるかのように、エイミーは胸元へと手を当てる。見回した室内には、自分以外は誰もいなかった。
返事を求めて、再度ノックが鳴り響く。
エイミーが短く返答すると、扉が開き、アキが顔を覗かせた。細長い布の包みを手にしている。
「――寝てたのか?」
アキがエイミーの方を一瞥して、ぼそりと問う。
「……そんなわけないでしょ?」
「そうか」
それ以上、詮索することもなく、アキは書き物机の上に包みを置くと、椅子に腰掛けた。
「ジェーンの野郎が、お前さんに渡してこいって言うもんだから、持ってきたんだよ」
何を、とエイミーは問い掛けなかった。
問い掛けるまでもなく、分かっていたからだった。
優しい手つきで丁寧に包みが解かれ、黒く塗られた木製の鞘に収められた小ぶりの刀剣が姿を現した。
「さっき小屋に来たジェーンが、勝手に結び付けやがってよぅ……」
そう言いながら、アキは、柄頭の先端部分、冑金に開いた穴に通されたそれを指先でそっとなでる。
「……わたしは反対したんだがな」
長い緑色のリボン。刀を振るう時に邪魔にならないよう、短く束ねた上で、可愛く蝶々結びにされている。
見間違えるはずもない。オリヴィアがミラに買ってもらったリボンだ。
「流石に悪趣味にも、ほどがあんだろ。――お前さんが嫌なら外すが?」
アキが言う。
悪趣味だという点には、エイミーも完全に同意見である。あの女の言動は、相変わらず常軌を逸している。
「……いい、そのままで」
だが、これはオリヴィアが確かにこの世に生きていたという証なのだ。私物と呼べるほんの僅かな品。
「――そうか」
アキの方でも、それ以上、リボンについて言及することはなかった。
蝋燭も角灯も付けられていない真っ暗な室内。
「なぁ」
アキが、徐に口を開いた。夜目の利くエイミーの瞳が、足元に視線を落としたままの彼女の姿を捉える。
「――別に逃げてもいいんだぞ?」
ぼそりと呟く。
「はぁ…?」
聞き返すエイミー。
「さっきも言っただろ? ――嫌なら無理なんかするこたぁねぇ。あの金髪のガキ見つけ出して、説得して、何もかも全部投げ出して、二人でどっか遠くに逃げちまったっていいんだ」
足元に目線を落としたまま、アキが言う。
「そんなの、無理に決まってるでしょ」
エイミーが諦めたように言う。
「追手だって来るらしいし」
「お前さんとあの金髪のガキの二人なら、返り討ちにできるくらいの力はあるさ」
「お金がいるでしょ」
「金ならもうそれなりに稼いでんだろ。――それでも足りねぇってんなら、わたしの虎の子も全部くれてやる。どうせここから出られねぇわたしが持ってても、大して意味のねぇ金だ」
「アタシがやらなかったら、……アンタも、ここのガキ共も、ろくな目にならないって分かってんでしょ? それでもアンタはそう言うの?」
エイミーが、喉奥から絞り出すように言う。その表情をアキが見ることはできない。
「――だから言ったろ? お前さんの人生、自分勝手に好きなように生きればいいんだよ。クソガキが一丁前に心配なんて、すんじゃねぇ。そんなもん、むしろこっちから願い下げだ。……ここのガキ共も、多少はマシなとこに行けるように何とかしてみるよ」
「アンタは……っ! 最っ高の刀造るのが目的なんでしょ⁉ ここが無くなったら、それが出来なくなるかもしれないのに……っ⁉ アンタの言ってること、ちぐはぐで意味わかんないんだけど‼」
「うっせぇ、バーカ‼ 余計なお世話だっ!」
お互いに、まるで幼子同士の口喧嘩のような激しい口調で言い合う。
「それに言うに事欠いて、ちぐはぐだとぉ⁉ ちぐはぐ上等‼ 矛盾上等だぁ‼」
アキは、刀を掴んで勢いよく立ち上がると、大股で寝台の方へと近付き、エイミーへと押し付ける。
「刀ってのはなぁ、矛盾の塊なんだよ‼」
エイミーを見下ろしながら、アキが言う。
「矛盾ぅ?」
「そいつはな? 良く切れるのに折れないっていう、本来両立しないはずの二つの我儘が、いい塩梅で合わさって出来た武器なんだよ。――知ってっか? 良く切れるためには鋼は硬くなければならねぇ。けどな。折れないためには鋼は柔らかくなければならねぇんだ」
「――そんなの両立するわけないじゃん」
エイミーが毒づく。
「あぁ、皆、初めはそう思っただろうさ。――だけど、大昔にどっかの愛すべき馬鹿な職人が初めてその無謀に挑んでからというもの、刀鍛冶は皆、各々のやり方で、その矛盾の塊に全身全霊で槌ぃ振り続けてんだ」
「――馬っ鹿みたい」
手元の刀に視線を落としたまま、エイミーが呟く。
「なぁ、クソガキ」
アキが静かに言った。
「手にした武器がもう既に矛盾の塊なんだ。――だったら、それを振るう奴も矛盾してるくらいで、釣り合いも取れるってもんじゃねぇか?」
そう言うとアキは、踵を返し、ドアノブに手を掛けた。
「――お前さんがどうすべきかは、あの金髪のガキに実際に会ってみてから、決めてもいいんじゃねぇか?」
扉が閉まる。
真っ暗な部屋には、狼少女がたった一人で取り残される。
右手で刀を掴んだまま、少女は立ち上がり、壁際の鏡へと徐に近づいてゆく。
鏡面が映し出すのは、月明かりに照らされた室内。
その全てが左右を入れ替えた世界。
エイミーの寝台の隣に二つ並ぶのは、主を失った空っぽの寝台。
そこには、エイミー以外、初めから誰も存在していなかったと言わんばかりの空虚な室内が映し出されていた。
かつて、この部屋に確かに存在したはずの吸血鬼の姉妹。
だが、鏡の向こうの世界には、彼女達の面影を匂わすものは影も形もない。
エイミーが、右手の刀を握り締める。
それはまるで、オリヴィアがこの世に生きていたという証を確認するかのように。
それに呼応するように、鏡の中でも、赤毛の狼少女が虚空で左拳を握り締める。
「――ついてきな、オリヴィア」
エイミーが小さく呟いた。
*
ハイドパーク南側にある大通り。
ロンドン、ナイツブリッジ・ブロンプトン地区。
そこには、様々な高級店が軒を連ねている。その中でも瀟洒で大きな建物が目を引く。ロンドンの誇る高級百貨店だ。
世界中から仕入れた薬や香水、果物をはじめとした、ありとあらゆる高級品が宝石のように陳列されている。
昼間は富裕層で賑わうこの建物も、真夜中になると一転して静けさに包まれる。
人気の絶えた百貨店の中、陳列棚の合間を縫うようにして歩くのは、一人の少女。その長い金髪が、窓から差し込む月光に淡く照らされ、金色の軌跡を宙に描いている。
その背には、漆黒の翼。口の端からは鋭い牙が見え隠れする。
その姿は、紛れもなく夜の支配者たる怪異の王、吸血鬼そのものであった。
上等そうな布地の絨毯を遠慮なく踏みしめながら、金髪の吸血鬼が闊歩する。
階段を登りきるとそこは最上階。
目に入ったのは、重厚な木製の扉。
彼女は、その扉を押し開ける。
正面には、カーテンが開いたままで、月明かりが差し込む大きな硝子窓。それを背にするようにして鎮座するのは、重厚な書斎机。左手側の奥の方には、立派な暖炉。そのマントルピースの上の壁には、装飾の素晴らしい大きな鏡が掛かっている。
きっと、この百貨店で一番偉い人の執務室なのかな、とミラは思った。
訪れる者全てに、その富と権力を誇示するかのように、だだっ広い空間。上得意先に巨人でも抱えているのかと言いたくなるくらいに、高い天井。
――この部屋は、歪み切っている。
ミラは思う。
――路地裏を覗けば、冷たい冬の夜風に身を震わせる貧民がいくらでもいるのに、他方で、こんな無駄なくらいに広くて装飾の凝った部屋は、たった一人のお金持ちが、書き物をしたり、お得意様とお話をするためだけにしか使われないなんて。
暖炉の前に少女は立つ。
その紺碧の瞳の先にあるのは、大きな鏡。
鏡面に映し出されるあべこべの世界。そこに少女の姿はない。まるで、この世界に彼女の居場所など残されてはいないと言わんばかりに。
――そっか、そうだったね。
ミラは、気づく。
――もう私は、自分が今どんな表情をしているのかさえ、自力で知ることができないんだ。
映るべき人物を欠いた虚ろな鏡面は、彼女の心そのもの。
――でも、いいんだ。
彼女は、マントルピースに両手を掛けると、額を鏡へと力一杯にぶつける。鏡面に亀裂が放射状に走った。
額の肉が裂け、血が飛び散っても、構わずに頭をぶつけ続ける。
何度も、何度も――。
鏡の砕ける音が、幾度も室内に響き渡る。その断片が大小入り乱れて、マントルピースや絨毯の上へと次々に散らばってゆく。
肩で息をしながら、彼女は徐に顔を上げた。
その額には、破片がいくつも突き刺さり、血が滴り落ちている。
下枠の方に若干の鏡面を辛うじて残す鏡は、見るも無残な姿を晒す。
――もう私に鏡は必要ない。だって、笑顔を見せるべき相手はもういないのだから。
金髪の少女は踵を返すと、開いた扉をそのままに、ふらつく足取りで部屋を出て行く。彼女の通った後に続くのは、血の雫と鏡の破片の葬列。
最愛の妹を失った彼女の脳裏によぎるのは、一人の少女の姿。
今宵、黒衣の女が解き放つに違いない赤毛の猟犬。
――おいで、エイミー。あなたの獲物はここにいるよ?
ミラの足が向かう先は、この建物の屋上へと続く階段。
吹き抜ける風が、仕留めるべき獲物の臭いを、遠い東の果てにいる猟犬の鼻先へと運んでくれる場所。
そして、あの日、最愛の妹と眺めた月に一番近い場所。
――私は、
*
闇と霧に包まれたイーストエンド、ホワイトチャペル地区。その一角に鎮座するのは、壁面に簡素な十字架が掲げられた教会。
その入り口から、赤毛の少女が姿を現した。頭頂部には、野犬を思わせる獣の両耳。ズボンと上着の裾の合間からは、豊かな毛で覆われた尻尾が顔を覗かせる。
彼女が足を踏み出すと、その左腰のベルトに差した刀が、音を立てて揺れる。
狼少女に続くのは、真っ黒なワンピースを着た栗色の髪の女。柔和な笑みを浮かべて、目の前を歩く少女を眺めている。
二人は無言で、敷地を連れ立って歩くと、門扉の前まで進む。
栗色の髪の女が、手にした鍵で、門扉の錠前を開ける。冬の冷気で完全に冷え切った蝶番が、油の切れかかった甲高い悲鳴を響かせた。
「今夜、馬車は来ませんの」
ジェーンが言う。
「いつもとは違い、これはわたくし達の中だけで解決せねばならない問題なのですから」
ふんっ、とエイミーは冷笑した。
「どっちみちアンタはどうせ最っ初から最後まで、自分では何にもやらないくせに。面倒で手の汚れることは全部アタシらに押し付けてくる」
「だからな。――アタシは決めたんだ」
エイミーがジェーンに向き直った。
「悪行三昧のアンタが、一体どんな末路を大好きな神様って奴から与えられるのかを、アンタの傍にずっと居続けて、この目で見届けてやるってな」
嫌悪感のこもった目線で、鋭くジェーンを睨め付ける。
「こんな中途半端な幕切れなんて、冗談じゃない⁉ アンタの末路が、アンタのして来たことに見合った相応しいものかどうか、絶対に見届けてやるっ! そして、もしそうじゃなかったら、アタシがこの手で直接くれてやる。神様って奴の代わりに、アンタに相応しい死に方をな‼」
息を荒げた狼少女と善美な黒衣の女。
両者の視線が、酷寒の空気を切り裂いて交錯する。
時間にすると、ほんの数秒程度。
だがそれは、エイミーにとっては、まるで永遠のようにすら感じた。
教会の方から誰かが小走りに駆けて来る足音がし、ジェーンが視線をそちらへと向ける。
アキだ。
小脇に何かを抱えて、エイミーの近くまで駆け寄って来る。
「――お前さんにやるよ。これ着ていきな」
彼女が差し出したのは、フード付きの紺色のコート。決して高級品などではないが、その手触りは心地よい。
本来、大人用だと思われるその丈は、多少大きめだがエイミーに合うように仕立て直されていた。
「別に要らない」
エイミーが、アキへと押し返す。
「刀出しっぱなしだと、マズいだろが。警官に見つかると色々と面倒だぞ? それに、お前さんの耳と尻尾も、通行人に見られるわけには、いかねぇだろうがよぉ」
もっともな理由。
そう言われて、仕方なしにコートを受け取るエイミー。
「――このコート、煙草臭いんだけど。他のコートないの?」
眉間に少しだけ皺を寄せて、エイミーが文句を垂れる。布地に煙草の臭いが染みついているようだった。
「んなもんねぇよ。そいつは、わたしの一張羅だったからな。それしかない。我慢しとけ。――それと丈が多少大きいのは、間に合わせで適当に仮縫いしただけだからだ」
アキは一度言葉を切り、エイミーの方を見据えた。
「気に入らなけりゃ、後でちゃんと手直ししてやる。――だから、直して欲しけりゃ持って帰って来い。いいな? ……エイミー」
アキが、彼女の名を呼ぶ。憂いを伴う声色で。
「……あぁ」
エイミーは、大きめのコートへ袖を通す。両手で掴んでフードを被ると、振り返ることなく敷地から大きく一歩を踏み出した。
*
コートの紺色が夜霧の向こうへと完全に溶けてしまうまで、黒髪の女は、じっと門扉の前で佇立する。
「それにしても」
栗色の髪の女が口を開いた。
「あのリボンですが、やはり結び付けて正解でしたわ。オリヴィアにとっても良く似合っておりますもの。アキもそう思いませんでしたか?」
アキは無言で、エプロンのポケットから取り出した紙巻煙草に火を付ける。そして一言、吐き捨てた。
「……この外道が」
「あらあら、ひどいですわね」
笑みを崩さずにジェーンが言う。
紫煙を細く吐くと、アキが言った。
「それにしても、ジェーン――お前さん、いつになく機嫌が良さそうだな? あいつの、――エイミーの苦しんでる姿がそんなに面白いか? えぇ?」
ジェーンは、わが意を得たりと大仰に頷いた。
「だって、そうでしょう? あのアミーリアが自発的に善き行いへと出向いたのですから」
「ふんっ、善き行い……ね」
アキが、皮肉の色を帯びた声色で、ぼそりと呟く。
「ローマ人への手紙第三章」
ジェーンが言う。
「もちろん、『義人はいない、ひとりもいない』のですよ、アキ。人は皆、罪人です。――だからこそ」
ワンピースの裾をふわりとさせながら、ジェーンは芝居がかったふうに、その場で優雅に回れ右をする。彼女が仰ぐのは、教会の壁に掛けられた十字架。
「だからこそ、わたくしたちは、悪を自覚する者の改心に、主の御心を感じずにはいられないのです。――シャイロックしかり、スクルージしかり、悪人が改心する様は、いつの時代でも人の心を打つものではありませんか」
頬を紅潮させて熱く語るジェーンを横目に、アキは白けた視線を向ける。
「自発的……ねぇ。――よくもそんなことが言えたもんだ。あの子が選べるだけの手札を持っていたなら、確かにそうも言えただろうさ。でもな、そこに自分の意思がどれだけ介在できたのか、わたしには全くもって疑問だけどな。あの子には自由に選べる選択肢なんて端っから与えられちゃあいなかった。お前さんが、じわじわと握り潰していったも同然だろ」
「なかなか手厳しいですわね、アキ。確かに、アミーリアは心に葛藤を抱えたまま赴いたのかもしれません。
ですが、自らの意思に反してでも、内心では承服しかねる行動に結局のところ出るほかないような状況でこそ、主のお導きを感ずるものではございませんか。預言者エレミヤがまさにそうであったように。
最近の世の中を取り巻く状況をご覧なさい。人々による主への信仰は、その土台を容赦なく削られつつあります。そんな今だからこそ、自身の召命に従う彼女の背中に、偉大なる主のお導きとご加護を見出してしまいたくなるというのも、さほど不思議な話ではないでしょう?」
アキは、ため息交じりの紫煙を吐いた。
「――お前さん、いつか自分の喉笛食い千切られるかもしれないとか、考えねぇのか?」
「まさか! 自らの過去の行いに対して慚愧の念を抱いている子達なのですよ。皆、本当は善き子供達に決まっているではありませんか」
ジェーンが好んで用いるのは、カインの徴。怪物化を発動させるためのツールの一つ。
その発動因子は、人を殺したことに対して罪の意識を抱いていること。
「……やっぱり、掛け値なしの悪党だよ。お前さんは」
アキが呟く。
彼女の脳裏に浮かんだ言の葉は、その唇から紡がれることなく、霧散する。
――人を殺めたという罪の意識が芽生えてしまった以上、あの子らは、もはや人には戻れない。
皮肉だよな。お前さんみたいに、自分が悪党だという自覚すら抱かない奴らの方が、よほど怪物じみてるってのにな。
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