第6話 Nest


 Ⅵ  Nest


 物音で意識が覚醒した。

 寝台で浅い眠りから目覚めたエイミーは、暗闇に浮かび上がる見慣れたシルエットを戸口に認める。

 一日分の仕事を終えた母が帰って来たのだ。


 母がこちらを向いた。

「起こしてしまったかしら? ごめんなさい」

「ううん、大丈夫。お帰りなさい」

 エイミーが答える。

 いつものやり取り。


 慣れた所作で、明かりなしの真っ暗な室内を進む母。節約のために蝋燭はできる限り使わない。もっとも、床の上には余計な物など一切ないので、夜でも足を引っ掛ける心配など、もとより無用であった。

 貧相な背もたれを軋ませながら、椅子に腰を落として完全に身体を委ねると、母は、疲れの色を滲ませたため息を一度だけ小さくつく。そして、痰の絡んだ耳障りな咳を短く、一つだけ。

 机の上のいつもの位置に置かれたティーカップに手を伸ばし、すっかり冷め切った紅茶を一息に飲み干した。いつも通り出涸らしの茶葉で入れた、薄く着色しているだけで、味などしない白湯。エイミーが帰宅する母のために淹れていたものだった。


「何か食べる?」

 エイミーが問う。母と一緒に食べるつもりでプディングを買ってきていた。

「いいえ、もう休むわ」


 寝台に近づいて来る母のために、エイミーは、壁際に目一杯に身体を寄せる。大人一人が横臥するには心もとない狭隘な寝台の上に、半端なスペースが出現する。寝台と毛布の間に、細身の身体を滑り込ませた母と、エイミーの小柄な体躯とが自然に密着する。


 エイミーのお気に入りの時間。

 外で身を粉にして働く多忙な母を独り占めできる唯一の時間。


「ねえ母さん、今日の月見た?」

「ええ見たわ」

「今日は珍しく霧が出てなくて、よく見えたでしょ? 真ん丸のお月様」

「そうね」母が優しく相槌を打つ。

「アタシ、今日は珍しく稼げたんだ」

 半クラウン銀貨を取り出して、毛布の中で母の手に握らせた。一日中、足を棒にして行った掏摸の利益アガリだ。

 母は、半クラウン銀貨に刻印され、擦り減った肖像を指先で撫ぜた。

「ありがとね、アミーリア。いつも本当に助かってるわ」

 齢十歳程度の少女が、一体どのような仕事をすれば、たった一日でこれだけ稼げるというのか。少なくとも真っ当な仕事でないことだけは確かである。

 だが、エイミーがそのことについて口に出すことは決してないし、母の方でも追及するようなことは一切ない。


 母と娘がそれぞれ、どのようなことに手を染めて、二人分の食い扶持を捻出しているのかについて、お互いに言及は決してしないというのが、いつの間にか両者の間に存在していた不文律であった。

 それで良い、とエイミーは思っていた。お金に色はないのだ。あくまでも半クラウン銀貨とは、二シリング六ペンスの商品と交換できる価値を備えた物質でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。

 犯罪や道徳的に非難されるべき方法で稼いだ金。額に汗して稼いだ金。汚い金と綺麗な金。そんな区別は、衣食住に困ったことすらない連中の戯言だ。稼ぐための手札を選ぶことができる連中の傲慢な道徳心や価値観の一方的な押しつけに過ぎない。

 愚直に法律を守って食べ物が得られるのならば、喜んで法律を守ろう。高潔な道徳心を掲げて純潔を頑なに守りさえすれば、雨風を凌げる寝床が手に入るのなら、神様に毎日祈りを捧げたって良い。


 母は、半クラウン銀貨を貴重品袋へ大切そうにしまうと、エイミーの頭を優しく撫でてくれた。お互いの体温で温まった毛布の内側で、母とこうして身を寄せ合っている内に、エイミーの一日の疲れもどこかへ霧散していく気がした。

「アミーリア、まだ寝付けないの?」母が尋ねてくる。

「うん。――ねぇ、母さん」

「何?」

「仕事、少し減らしたらどう? アタシも段々稼げるようになってきたし」

「ありがとね、でも大丈夫よ」

「ホントに?」

「本当よ」

 エイミーの問い掛けに、母が答える。

 幾度となく交わされたお決まりのやり取り。


 そして、沈黙の帳。


「ねぇ、母さん?」エイミーが再び口を開く。

「何かしら?」

「アタシを置いて、どこにも行かないでね」

 毛布の中で母の手を握り締める。乾燥して骨ばった感触の手を握る。

「行かないわよ。どこにも」母が両手でエイミーの手を包み返してくる。

「ホントに?」

「ええ、神様に約束してもいいわよ」

「そっか、良かった。約束だからね」

「ええ」


 この日、母と娘の間で交わされたのは、たった一つの約束。


 歪な富の構造を墨守するこの世界が、あるいは、高潔という仮面の下に貪婪な本性を見え隠れさせるこの街が、自分達を悪だと断じ、母と娘二人きりの細やかな居場所すら奪い去ってしまおうと敵対するのならば、どこまでも抗ってみせる。


 意識が途切れ途切れになる。

 無意識の支配する刻限が近い。

 夜は眠りの時間だ。ゆえに、人は夜に眠りにつく。


 母が囁くような小さな声で歌っているのが、無意識の霧の切れ間から聞こえてくる。高音の箇所で声が掠れ気味になる。


 歌を口ずさむ母を見た、たった一度きりの夜。


 その歌詞も、内容すらも思い出せない。


 けれども、その内容が、その旋律が、そして何よりもその歌声が、悲しげだったということだけが、記憶の底に横たわっている。


 ――あぁ、歌が終わってしまう。

 ――もう少し、あとほんの少しだけでも、この旋律に身を委ねていたい。浸っていたいのに。

 

 無意識の世界への誘いに逆らえない。


 母がまた一つだけ、小さく咳をした。

 これ以上、その音が耳に届いてしまうことのないように、毛布の中に頭をうずめてしまう。


 母の顔は、視界から消えて、思い出すことすらもできない。


 モノクロームの箱庭が歪にねじれてゆく――。


   *


 幼児が複数人で遊ぶ際に発する、あの独特で甲高い声に顔を不愉快そうに顰めて、エイミーが目を覚ました。質素だが清潔感のある寝台の上で、肘をつきながら徐に上体を起こす。


 見知らぬ部屋にいた。

 窓からは明るい陽光が室内へと降り注いでいる。

 自分が横たわっている以外にも空の寝台が二つ、隣に並んでいる。二つとも綺麗にシーツが整えられていた。周りを見渡すと、衣装箪笥が一つと書き物机、それに向かい側の壁に掛けられた鏡が目に入った。


 窓を見やると、その先の景色に見覚えがあることに気づく。既に一度目にしている、例の孤児院と教会に挟まれた敷地だったからだ。孤児院の建物が見えるということは、エイミーがいるのは教会の一室なのだろう。

 そして件の敷地には、さながら精神異常者のごとく奇声を発しながら狂ったように、そして無秩序に、遊戯に興じる腕白小僧の集団がいた。彼らに蹴飛ばされた小汚いやかんが、泥をまき散らしながら、幾度も宙を舞う。


 何の悩みもなさそうな間抜け面を恥ずかしげもなく晒しながら駆け回るちびっ子集団の中に、背丈のある見知った人物が交じっていることに気づいた。

 後ろで無造作に束ねた長い金髪を暴れ馬の尻尾のように跳ね上げながら、やかんの芯を爪先で捉えて、建物の壁の方へと蹴飛ばす少女。鼻たれ小僧共の合間を華麗に縫って一直線に飛んだやかんが、白墨で引いたと思しき、少々歪な長方形にぶつかり、勢いよく跳ね返る。

 頬を上気させて小躍りしながら破顔するミラ。その凄まじい蹴りを目の当たりにした男児全員が、窓越しでも十分耳障りなほどに黄色い声を張り上げながら狂喜乱舞する。

 そして、ひとしきり喜びと興奮を全員で分かち合ったであろう後には、再び遊戯が仕切り直され、我先にと皆がやかんへと一斉に群がる。

「あの馬鹿は、――ガキに交じって、一体何やってるんだか」

 目の前で繰り広げられている平和極まりない牧歌的な光景に対して、半ば呆れたエイミーの口から自然と零れた。

「……ほんっと、くっだらない」


 年甲斐もなく無邪気に、男児らに交じってやかんを一心に追いかける彼女の背中には、あの晩に見た漆黒の両翼など、影も形もなかった。また、壁目掛けてやかんを蹴飛ばさんとする男の子に力一杯声援を送るその口の端にも、鋭利な牙などは見当たらない。


 それはエイミー自身に関しても同様であった。

 壁の鏡に映る自身の姿。その頭部には、獣の両耳など存在していない。


 だが、肘まで捲られたシャツの袖からのぞく、その右腕に丁寧に巻かれた清潔そうな包帯は、あの晩の死闘が紛れもなく現実に起こったことだと如実に物語っていた。牙で抉られた辺りを包帯の上から左手でそっと撫でるが、幸いにも痛みはなかった。


 エイミーが窓の外をしばらくの間、ぼんやりと眺めていると、斜め向かいにある扉が静かに開き、黒衣の女が姿を現した。

「あら、お目覚めでしたか」

 相も変らぬ、落ち着き払った玲瓏たる声色。

「これは失礼致しました。ノックをするべきでしたね。てっきり、まだお休みになっているものかと」

 女が、にこやかに微笑みながら入室してくる。


 見紛うはずもない。

 この教会と孤児院の主であり、エイミーがこうして横たわっていることになった元凶その人。エイミーにとって、起き抜けに会うのはご遠慮願いたい人物の筆頭格であった。

 貼り付けたような薄っぺらい微笑。まるで蝋人形が浮かべているような作り物めいた表情に、エイミーは不快感すら覚えた。


「ジェーン……」

 条件反射的にひくついた口の端からエイミーが零したのは、疎ましさの滲んだ声色。その眉間には自然と皺が寄る。


 そんなエイミーの態度を意に介することもなく、ジェーンは、ゆったりとした動作で、書き物机の前に備え付けられた椅子へと腰かけた。


「無事にお目覚めになられたようで、安心致しましたわ。それで、お加減のほどは如何でしょうか?」

 聖母のような混じりけのない笑みを湛えながら問いかけてくる。その飄々とした態度が、エイミーを一層いらだたせる。

「まぁ、それほど悪くはなかった――アンタの顔を見るまでは、だけど」

「あらあら、それはいけませんわ。でしたら、もう少し横になって休んでいらした方がよろしいかと」

 自分へと露骨に向けられた敵意に微塵も気づきすらしない様子。すなわち、心の底からエイミーの体調を気遣っているふうに、ジェーンが言う。


「アンタさぁ、それ、本気で言ってるわけ?」

 ジェーンは、きょとんと首を傾げた。その動きに合わせて、丁寧に編み込まれて右前へと垂れた栗色の髪が揺れた。

「申し訳ありませんが、貴女のご発言の趣旨が、わたくしには量りかねますわ。アミーリア」

 困り果てたようなジェーンの表情。

 それは、決してからかっているでも馬鹿にしているわけでもなく、エイミーの発言内容が彼女にとって完全に理解の埒外ゆえに、純粋に当惑していることをありありと物語っていた。そこには、悪意や害意など一切ない。あるのはただ、エイミーが一体何に対して不満を抱いているのか、本当に心当たりがないという困惑のみ。

 その純朴な反応が、またエイミーにとっては、甚だ気に食わなかった。


 エイミー達を化け物に仕立て上げ、そして生命の危機と背中合わせの戦いへと駆り立てたはずの張本人。横暴と評しても生温いほどに数々の非人道的な仕打ちを行ったはずであるにも拘わらず、その一挙手一投足には、これらの悪行について多少なりとも後ろめたく思っている様子が垣間見えることすらない。


 なるほど確かに、これが例えば盗賊団の元締めであったならば、ごく自然な反応であろう。

 元締めである彼が、貧民孤児を奴隷のように使役して自身の酒代を稼がせようとも、また子供達がどのような末路を辿ろうとも、その胸の裡には罪悪感の一欠片すら生じることはないであろう。

 あるいは、鼻持ちならない金持ちの貴族が、路上で自身の脚に縋る物乞いの子供を足蹴にして乱暴に振り払ったとしても、数分後にはその出来事は遥か忘却の彼方へと旅立ち、その代わりに頭の中は今宵のポーカーのことで既に埋め尽くされているに違いないことは容易に想像し得る。

 このような人物達に謝罪や改悛を期待することなど、普通は端から考えすらしない。なぜなら、弱者を弱者のように扱い、強者の論理を振り回すというのが、彼らの、悪人の行動原理だということは自明だからだ。


 それゆえに、エイミーには、目の前のジェーンという人物が、単なる俗世の悪人どもとは一線を画した、何か得体の知れない――それこそ、人の姿をした怪物のように――感じられた。ジェーンがエイミーの苛立ちを理解し得なかったのと同じくらい、エイミーの方でもまた、ジェーンの心の裡については到底理解が及ばなかった。


 浮浪児相手であっても常に丁寧で物腰柔らかな口調と態度。しかし、その実、半ば強引に物事を押し進め、実質的に選択の余地のない段階に至ってから決断を迫るという、盗賊団の親玉すら霞むほどに非情な一面。そして、あくまでも自分は善の側に佇立していると言わんばかりの傲慢さ。

 自分の行いは全て善行であると固く信じて疑わず、拾った孤児達に対して掛け値なしの冷酷非道な仕打ちを行い、そして今まさにその結果として寝台に臥せっているエイミーに対して慈愛に満ちた態度で接するというのは、一体どのような精神構造の下であれば、為し得る芸当なのであろうか。


 少なくとも彼女は、自身が善き人であることについて、疑問に思うことすらないのだろう。なぜなら、その笑みは、貧民窟の悪人が浮かべる俗物的で下卑た笑いなどではなく、まさに一点の穢れもない聖職者のそれと寸分違わなかったからだ。むしろ、牧師が日曜礼拝で久しぶりに納得のいく説教を終えたかのような満足感すら漂わせている。


 一夜の内に、エイミーという鍋の中へ無造作に放り込まれた様々な感情。自分達に突如降り掛かった理不尽への当惑と怒り、命の危機への恐怖、運良く反撃に転じることができた際の緊迫感。

 それらが、ぐつぐつと煮込んだシチューのように、どろどろに溶けて混ざり合う。鍋の底をチリチリと焦がすのは、目の前の女に対して抱く得体の知れないどす黒い感情の炎。生理的嫌悪感、軽蔑、あるいは殺意なのだろうか? ――ともかく、それらが渾然一体に絡み合って出来上がった、歪な形をした負の感情の塊こそ、エイミーが今まさに、ジェーンに対して抱いているものであることは、間違いがなかった。


「――一体どの面下げて、のこのこやって来れるのかってことだよ」

 押し殺した低い声で、エイミーが言う。


「――と言いますと?」

 ジェーンが、屈託のない笑顔で次の句を促す。


「アタシら全員をさ、意味不明な化け物にしただけじゃ飽き足らず、アイツの――あのでか物の夜食として送り出したっていうことについて、何か申し開きがあるのなら言ってみたらどう?」

 エイミーは、厭悪を含んだ目線で睨め付ける。


 ジェーンは、やはり実に不思議そうに、当惑の表情を浮かべた。

「やはりわたくしには、貴女の仰りたいことが分かりかねますわ」


「――は?」

 一拍の間をおいて、思わず聞き返すエイミー。


「そもそも貴女方がその姿形を変じるに至ったのは、わたくしのせいではなく主が望まれたがゆえでありますし、それにあの晩、自ら戦うことを最終的に選択したのも、貴女方自身だった――そうでしょう?」

 ジェーンは、聞き分けの悪い幼児を諭すように、言い含めるような滔々とした口調で述べる。


 あまりにも身勝手な物言い。詭弁そのもの。

 その返答に、エイミーは怒りを覚えるどころか、もはや呆れ返ってしまいたくなった。

「……あの時はさ、結局うやむやになったけど――あんまりなめたことばっかり言うなら、今ここでアンタのこと、思いっきり八つ裂きにして、大好きな神様のところに送り届けてやろうか?」

 仄暗い感情を静かに滲ませながら、エイミーがどすの利いた声で言い放つ。


「貴女がそれを望むのなら、わたくしは構いませんわ。そうなることもまた主の御心に沿うのであれば、その運命をわたくしは喜んで受け入れるつもりですの」

 エイミーの言葉に全く動じすらせず、やや芝居掛かった様で胸に手を当てると、ジェーンは晴朗な笑みを浮かべた。


「はぁー……もういい」

 エイミーは、嫌味をたっぷり込めて、大きく、そして長く、見せつけるようにため息をついた。同じ言語でやり取りしているはずなのに、全く噛み合わず手ごたえの一切感じられない会話。そのような不毛なやり取りに心底辟易したからだ。


「ともかく、お元気になられたご様子で、本当に良かったですわ」

 そんなエイミーの態度を一切意に介することなく、勝手に安堵して仰々しく胸を撫で下ろすジェーン。

「――アミーリア、覚えておりませんか? あの晩、毒が回ってぐったりとした貴女を、血相を変えたミラとオリヴィアが、馬車で待つわたくしの下まで一目散に運んできてくれましたのよ。いくら、わたくしに多少の医学の心得があるとはいえ、解毒の処置が少しでも遅れていたら、危うかったかと存じますわ」

「あっそ。要するに死に損なったってわけか。案外しぶといもんだね、アタシも」

 勝手に話を進めていくジェーンへと、エイミーは半ば投げやりに生返事をする。

「それはきっと、主がそう望まれたからでしょう」

 ジェーンは、一人で勝手に得心した顔を浮かべる。


「そんなことよりさぁ、これって一体どういうことなんだよ?」

 エイミーが自分の頭をトントンと二本指で叩いた。

「あの時生えてた耳が、今はないんだけど。――あとアイツにも、あの時と違って、それらしいものがないし」

 窓の向こうのミラの方へ顎を軽くしゃくる。


「あぁ、そうでしたわね」

 言われて思い出したというふうのジェーン。

「彼女達には既にご説明したのですが、そういえば貴女にはまだお伝えしておりませんでしたわね」

 ジェーンは窓の方へと顔を向けた。造形の整った彼女の横顔に陰影がくっきりと現れる。

「貴女方がその力を十二分に発揮することができるのは、夜の間のみなのですよ」

 彼女は一旦言葉を切る。

「もっとも、それは、昼間であれば貴女方が完全に人の身に戻るということを意味しているわけではありませんが」

「でも現に、姿は戻ってるんだけど?」

 エイミーが言う。

「わたくしは魂の話をしておりますのよ。外見の変化など、所詮は単なる上澄みに過ぎません。上辺に惑わされてはなりませんわ。問題にすべきなのは、いつだってイデアなのですよ、アミーリア。――論より証拠。現にほら、ご覧下さい」

 ジェーンが、包帯の巻かれたエイミーの右腕を指し示す。

「あれから二日経ちましたが、今朝わたくしが包帯を取り替えた際には、傷はもうほとんど治癒しておりました。ただの人の身であれば、まずあり得ないことです」

 まるで他人事のように、つらつらと述べる。


「もっとも、それもまた、主が貴女方に望まれたことなのでしょう。現に貴女方はあの夜、主より与えられしその力で、実に善き働きを行いました。とても素晴らしいことです」

 理解の追いつかないエイミーを煙に巻くような説明で半ば置き去りにして、一人で悦にいる。

「はっ、善き働きだって? あのクソ蛇をぶっ殺したことが?」

「ええ、まさしく。貴女方が見事結果を残したことで、それなりの額の報奨金が出たのです」


 エイミーはおもわず哄笑した。

「アンタさぁ、ようやく本性表したね。聖人ぶってるくせに、結局金が目的なんだ? 呆れた」

 ジェーンは困ったような表情を浮かべて、右手を頬にあてた。

「あらあら、どうやら誤解されているようですね、アミーリア。手にした金銭の多寡こそ、主より授かりし自らの召命にどれだけ身を捧げたかの指標なのですよ。――人間とは、とかく堕落した生き物です。どれだけ信仰を積み重ねれば救済の対象となり得るのか? いえ、そもそも自分が今どれだけの信仰を積み重ねているのかさえ確かではない。だからこそ、勤労の結果として手にした金銭というのは、信仰の寄る方となり得るのです」

 ジェーンは徐に立ち上がると、窓辺に立ち、敷地で遊ぶ子供達を見やる。


「それに、此度の報奨金は、わたくしの私欲のためになど消費しておりません。ほとんどあの子達のために使われるのです。――いくら崇高な理念を掲げて孤児院を開こうとも、その維持や運営に少なくないお金が必要となる事実から目を背けることはできませんわ。その収支を篤志家の方々からの寄付だけで賄うのには当然限界がございます」

 ジェーンは、エイミーの方へと向き直ると、実に流麗な所作で慇懃なお辞儀をした。

「だからこそ貴女方には、わたくし、本当に心から感謝しておりますのよ。貴女方が戦いへと赴くことで、不幸にも親を失った子供達が糧を得て健やかに育つことができるのですから」


 手前勝手に一人で雄弁に熱を吹くジェーンに対して、エイミーは冷ややかな視線を送る。

「つまり結局さ、――あそこで吞気に遊びまわっている奴らの食い扶持を稼ぐために、アタシらの身体を弄り回して、命を張らせたってことなんだろ? 何の関係もない他人のために、アタシがこれからも本気で命を張るって思ってんの?」

 ジェーンはにこやかに微笑んだ。

「愛とは求めるものではなく、他人へ与えるものなのですよ、アミーリア。箴言第十一章にも、『物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される』とあります。あるいはルカ福音書第六章でも、『与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう』とも記されております。他人への善き行いは、巡り巡って自身へ返ってくるのです」

 一片の曇りのない眼でエイミーを見つめ返す。


「とは言っても」

 と、続けるジェーン。

「突然、貴女にわたくしの信仰の全てを無理に押し付けることは、もとより望むところではございません」

 既に種々の理不尽を押しつけているにも拘わらず紡がれるそれは、エイミーにとって、あまりにも歯の浮くような白々しい言葉。

「アミーリア、貴女が主の教えをすぐには理解できないとしても無理はありません。なぜなら、親しむ機会を持ち得なかっただけなのですから。これは、全くもって貴女の落ち度ではございません。であれば、此度の貴女の行いがどれほどの隣人愛に溢れた善き行いであったのかについては、わたくしがいたずらに言葉を重ねるよりも、このような目に見える形で直截にお示しした方が、ご理解頂けるかと存じますわ」

 ジェーンは、書き物机に近寄ると、その引き出しから白い封筒を取り出して、寝台で上体を起こしたままのエイミーへと手渡した。

 表面に黒インクで一言だけ何か走り書きされているほかには、何も書かれていないシンプルな封筒。裏返すと、真紅の封蝋で封印が施されていた。走り書きは、文字の長さと形に鑑みれば、恐らくはエイミー宛ての封筒であることを示す記号、すなわち、アミーリアという宛名が書かれているのだろう。手触りから何か硬い物がいくつか入っていることが窺える。

 エイミーは、乱雑にその封を切った。封蝋が砕けて、その小さな破片がぱらぱらとシーツの上に散らばる。封筒の天地を返すと、眩い金色の丸い金属が五枚、かちゃかちゃという金属音を立てて転がり落ちた。


 エイミーはおもわず息を呑んだ。

 シーツの上で金の光沢を惜しげもなく放つそれは、ソブリン金貨であったからだ。それが五枚、すなわち五ポンド。労働者階級のさらに下、最下層で生きる貧民孤児が手にすることなど、それなりの犯罪にでも手を染めなければ、まずあり得ない金額。

 エイミーは、それらの金貨がすぐ目の前に突如出現したという夢のような光景に、眩暈すら覚えそうになる。


「今回、貴女が受けるべき報酬ですわ」

 ジェーンの玲瓏な声が、エイミーを無理やりに現実へと引き戻す。


「アミーリア、貴女はその金額に見合うだけの働きをしたのです」

 再び椅子へと腰を下ろすジェーン。

「もちろん、貴女がここにいる限り、衣食住に関わる出費を負担して頂くことも一切ございません。そのお金は、貴女の好きなようにお使いになられて構いませんわ」


「で、その代わりにこれからもアンタの言いなりになって戦えって?」

「ええ、是非とも」

 人当たりの良さそうな笑みを浮かべる目の前の女。この鼻持ちならないだけでなく、得体の知れない女の言うがままに戦いへと駆り出されることは、エイミーにとって、面白いものでは全くない。

 だが他方で、所詮、学も身分もない孤児が、たとえ命の危険と隣り合わせだとしても、衣食住を保障された環境で、これだけの金額を稼ぐ機会など、イーストエンドの何処を探しても、いやロンドンの何処にもあるはずがないこともまた、紛れもない事実であった。同じく命と尊厳を切り売りしているにもかかわらず、煙突掃除や炭鉱での作業に使われる子供が、この金額より遥かに少ない賃金で使役された挙句に、事故死することも珍しくはなかった。


 結局、貧民は、そして孤児は、何処までも社会の弱者であり、持たざる者であり、搾取される側なのだ。違うのは、搾取する側の顔ぶれだけ。煙突掃除夫なのか、炭鉱経営者なのか、盗賊団の元締めなのか、あるいは愛想のよい笑顔を振りまく鼻持ちならない女なのか、という点に過ぎない。


 エイミーは常に一人で生きてきた。彼女が求めるのは、少しでもまともに生きることができる術。だからこそ、誰かに使われて搾取されるという劣悪な環境を避けるべく、たった一人で掏摸に手を染めてきたのだ。

 だが、それも結局、今にして思えば、いつかは立ち行かなくなる危うい綱渡りでしかなかった。現にそうだったように、いずれは警官に捕まり監獄へ放り込まれる運命が口を開けて待ち構えている。その先にあるのは、看守と囚人という、またもや搾取する側とされる側。監獄に放り込まれた貧民の末路など、想像に難くない。


 五枚の金貨を右手に握り締めると、エイミーはシーツを払いのけて、裸足で底冷えする床へと降り立った。二日間寝たきりだったエイミーは、少々ふらつきながらも、すぐ傍の床に爪先を揃えて置かれた自分の靴へと無造作に足を突っ込む。壁の鏡に映る彼女が着ているのは、普段から着古していた衣服ではなく、エイミーの体格に合うように綺麗に誂えられたシャツとズボンだった。


「――戦ってやる」

 エイミーが、ジェーンを見据えて言う。

 ジェーンの顔が一挙に綻んだ。

「何と素敵なお返事なのでしょう。改めてお礼申し上げますわ、アミーリア」

 徐に立ち上がり、両手を広げて抱擁をしようとするジェーンの鼻先に、エイミーは左の手の平を突き出して、その動きを制止させる。


「だけど、忘れんなよ」

 エイミーがぐいと詰め寄った。その眉間には深い皺が刻まれている。女性にしては背丈がそれなりにあるジェーンを見上げる格好だ。

 両者の顔が、十インチにも満たない距離にまで接近する。お互いの呼吸音が、はっきりと聞き取れる距離。

 エイミーは瞬き一つせず、ジェーンを鋭く睨め付けたままだ。二人の視線が交錯する。


「いい? はっきり言っておく。アンタが、アタシらにした仕打ちを許したわけじゃないってこと。絶対に許さないから。――協力してやるのは、単に自分の利益になるからってだけ。アンタも神様ってやつも、皆くそったれのゴミ屑って感じ。

 ――いいか、よく覚えときな。アンタがアタシを利用するんじゃない。アタシの方がアンタを利用してやるんだ。アンタに利用価値が無くなったら、そん時は前に言った通り、容赦なくアンタの喉笛噛み千切って、そして追手とやらも全員道連れにしてやる。それができるだけの力をアタシに与えたことを後悔させながら地獄へ落としてやるっ! まぁ、せいぜいアタシに見限られないようにしといたら?」


 一気呵成に思いの丈をぶつけるそれは、現状を受け入れる上でのエイミーの落としどころ。いわば彼女が心の整理をつけるための通過儀礼と決意表明。

 昼下がりの陽光が差し込む室内で、口元をきつく結び、あらんばかりの憎しみを込めて見上げる赤毛の少女と、それを微笑ましそうに見下ろす栗色の髪の女。両者の間に揺蕩う空気の温度が急降下する。


 ジェーンは、悲しそうに眉尻を下げて、小さくため息をついた。

「あらあら、つれないことを仰いますのね。――わたくし、貴女とはきっと善き友人になれると思っていますのよ、アミーリア」


「はっ、気色悪い」エイミーは吐き捨てた。「残念だったね。アタシはアンタのこと大っ嫌いだから。――何ならアタシの記念すべき最初の稼ぎの使い道として、底にアンタの似顔絵付きの陶器の便器を特注する以上に有意義な使い道が全く思い付かないくらいに、ね」


   *


 エイミーが乱暴に扉を閉めて立ち去った後、ジェーンだけが一人室内に残された。その両肩は、小刻みに震えている。怒りによるものではない。なぜなら、彼女の表情は愉悦に満ちていたからだ。


 ――ローマ人への手紙第九章。

 陶器職人が同じ土くれから花瓶と便器とを造ったとして、どうして便器が文句を言えようか。土くれから何を造り上げるのかは陶器職人が決めることなのだから。すなわち、救われし人間を選ぶのもまた、人を造りし主の御心のままに。それにより、主は御自分の栄光をお示しになる。


 あぁ、アミーリア。なんと素敵なことでしょう。不幸にも聖書にさほど親しむ機会を持ち得なかったはずの貴女の口から、わたくしが自身について常々思い抱いている言の葉が自然と紡がれるとは。主の便器に過ぎないわたくしなどには到底考えも及ばないことですが、もしかすると貴女こそ主の造り上げし尊き器なのかもしれませんわね。それはまるで、主が自身の最高傑作であると誇るがゆえに、幾重もの理不尽な不幸を課せられたヨブのように。


 わたくしは本当に楽しみですわ。アミーリア、貴女は、これからどのような試練や悲しみ、理不尽を主から課せられるのでしょうか。そして、貴女はそれをどのようにして乗り越えていくのでしょうか。あぁ、主よ。わたくしと彼女との巡り会わせに感謝申し上げます。彼女がこれから辿るであろう試練の途を、是非この目で最後まで見届けさせていただきたく存じます。


   *


 台所のテーブルにあった水差しの水で渇き切った喉を潤すと、エイミーは、そのまま寝室へは戻らずに建物から出た。霧は薄く、太陽が一応覗いてはいるものの、冬の空気は、上着も羽織らずシャツ一枚で外へと出た彼女の身体には沁みる。


 すると、ミラが彼女に目敏く気づいて、大きく手を振りながら駆け寄ってくる。

「エイミー、もう大丈夫なの⁉」

 その視線が、包帯で巻かれたエイミーの右腕に注がれる。

「まぁね。もう平気」

「エイミーっ!」

 何処からともなく現れたオリヴィアが声を上げた。そのくせっ毛の金髪頭には、以前はなかった緑色の長いリボンが結ばれている。


 そして、金髪姉妹に続くのは、先ほどまでやかんで遊んでいた子供達。

「ねー、ミラお姉ちゃん! この人、誰?」

「ジェイムズより髪赤いし!」

「一緒に遊ぼーよー」

 エイミーを取り囲むと、口々に甲高い声で好き勝手に捲し立ててくる。


「うっせぇな!」

 エイミーが一喝した。

「アタシはガキが嫌いなんだよ、あっちに行ってろ!」

 エイミーの恫喝に対する反応はさまざまであった。ある者は怯え、また別の者はその反応すらも面白いと言わんばかりに喜んだ。彼女が少しばかり追い立てるふうな真似をすると、めいめいが狂乱の叫びを上げながら、蜘蛛の子を散らすように、敷地の方々へと一目散に逃げていく。

 エイミーの傍には、ミラとオリヴィアだけが残される。


「もぅー、エイミーったら」

 ミラが少々咎めるような表情を浮かべた。

「ダメでしょ? 怖がらせたら。仲良くしようよ?」

 仕方ないといった口調で、諭すように言う。

 それに対して、エイミーは皮肉のこもった笑みを返した。

「は? 仲良く? 冗談でしょ? アンタらだって、あのジェーンから聞いたんじゃないの? アイツらを食わせるための金がどこから捻りだされているのかってことを」

「――そうだね。全部聞いたよ」

 一瞬の沈黙の後、ミラが言う。

「だけど、あの子達はそんなこと何も知らないの。ここはロンドン中探したって見つからないくらいに恵まれた孤児院で、ジェーンはただの優しい院長先生なんだって、無垢に信じてる。だったら、彼らを邪険にする必要なんてどこにもないでしょ?」

 エイミーは、短くため息をついた。オリヴィアの方を向く。

「オリヴィア、アンタはどうなのさ? あの日、とても怖い思いしたんでしょ? それなのにアンタの苦労なんか知りもせずに、楽しそうにしているアイツらのこと、ムカつかないっての?」

 急に話を振られたオリヴィアは、エイミーとミラ、そして離れた場所で早くも既に遊びを再開している子供達とを交互に見やると、おずおずと口を開いた。

「えっとね、確かにとっても怖かったけど――でも、あの子たちの笑顔を見てたら、こんな私でも誰かの役に立ててるんだって思って、少しだけ嬉しかったの。だから、ムカつくとかムカつかないとか、そういうのとはちょっと違う気がする」

 その答えを聞いたエイミーは、不愉快そうに眉を顰めて、ガリガリと頭を掻いた。

「あっそ。――忘れてたわ。そもそもアンタら二人がお人好し姉妹だったってこと。わざわざアンタらに聞いた私が馬鹿だった」

 わざとらしく肩を竦めて首を横に振るエイミー。

「でもエイミーは、――これからもまた一緒に戦ってくれるんでしょ?」

 不安げにオリヴィアが問う。

「戦う――戦うさ」エイミーは一旦言葉を切った。

「けどね、それは自分自身のため。アンタらみたいに妹のためだとか、よく知りもしない他人の役に立つためだとか、そんな浮ついた理由じゃないから」

 エイミーは、乱暴に顎をしゃくって、子供達を指し示した。

「だから、アンタ達がアイツらと仲良しごっこするのは勝手だけどさ。アタシはそんなことにまで付き合うつもりはないから」

 ポケットへ無造作に手を突っ込むと、例のソブリン金貨五枚を取り出した。

「アンタらも貰ったんでしょ? これからもアタシが戦うのは、これのため。あと、ここは飲み食いと寝るところの心配もしなくていいし」

 そう言い放つと、エイミーは教会の入り口付近に置かれた木製のベンチへと腰を下ろし、脚を組んだ。ズボンの裾が上がり、靴下を履いていない彼女の足首が露わになる。


 そんなエイミーを見て、ミラは何故か悲しそうな表情を浮かべた。

「エイミー、あなただって本当は――」

 言いかけたミラの発言は、中途で遮られた。

 向こうから再び駆けて来た幾人かの子供達がミラを取り囲んだからだ。なかなか遊びに復帰してこないミラに痺れを切らして呼びに来たのだろう。


「行ってきたら?」

 腕組みをしたエイミーが言う。

「アンタのこと待ってるみたいだしさ」


 足元に群がる子供たちとエイミーとを順々に見比べながら、ミラは少しだけ逡巡していたが、頷いた。

「分かった。この子達の相手してくる。――けど、後でちゃんとあなたに話しておきたいことがあるから」

 そう言うとミラは、長い金髪を翻して、子供達の待つところへと手を振りながら駆けて行く。その場に佇立するオリヴィアはと言えば、エイミーとミラを交互におどおどしながら見比べると、姉と同じく、子供達の方へと足を向けた。

 ベンチに一人残されたエイミーは、両腕をベンチの背もたれの上に行儀悪く乗せると、天を仰いで長く細い息を吐いた。


「――勝手に仲良しごっこでもやってれば?」


   *


 しばらくの間、ベンチに腰掛けて、子供達がミラやオリヴィアとともに遊びに興じる様をぼんやりと眺めていたエイミーであったが、それにも飽いたのか徐に立ち上がった。

 その理由は、一つには、他に時間潰しになりそうな何かを探すため。もう一つには、いい加減、冬の空の下、シャツ一枚だけでじっとしていることに耐えかねたからであった。敷地内を散策することで身体を温めると同時に、どこか寒さを凌げる場所でも探そうと、エイミーは考えた。

 自分が寝ていた教会の建物へと戻ることは選択肢にない。なぜなら、ジェーンがいるからだ。もう一つの建物である孤児院にも、彼女の足が向くことはなかった。なぜなら、エイミーにとってそこは、偽善だらけで息の詰まりそうな、欺瞞に満ちた空間のように感じられたからである。

 となると、残された選択肢はそう多くない。二つの建物の裏側のどこかなら、屋外であっても風があまり来ないところがあるかもしれない。

 エイミーは敷地の外塀に沿って歩き出す。門扉には、内側から錠が掛けられていた。これは、往来から無頼漢が侵入することを阻止するためのものというよりも、むしろ内側にいる虜囚へ向けられた無言の警告のように思われた。すなわち、鍵を持つ者の許可なく敷地から出ることを禁ずるということをありありと物語っているかのように。

 門扉を過ぎて、さらに教会の建物の横を通り過ぎると、小さな裏庭があった。そして、そこには押し込められるようにして、古びた小さな小屋がぽつんと建っていた。門扉から入った際、ちょうど教会の裏側に隠れる格好であるので、こうして回り込まねば気づくことは難しかったであろう。

 その小屋は少し奇妙な外観をしていた。小屋の屋根に突き出た煙突は煉瓦造りだが、それ以外の屋根や壁は木製だったからだ。全体から感じる印象は、どこか異国の雰囲気が漂っているようにすら思えた。

 煙突から煙は出ていなかった。今は誰も使っていない小屋なのであれば、冷たい風を凌ぎつつ時間を潰すのには好都合であると、エイミーは考えた。

 正面の戸は、彼女が押すと、鍵も掛かっておらず容易に開いた。窓の鎧戸は全て閉まっており、光源として陽光が差し込む入り口付近を除けば、室内はほとんど暗闇に包まれていた。室内に雑多に置かれている物品の輪郭を僅かに読み取り得る程度である。

 エイミーは、慎重に室内へと歩を進めた。右手側には天井一杯までの棚が据え付けられており、何やら大小さまざまの細長い物が陳列されている。左手側には、広い作業机があり、その上には何に用いるのかすら良く分からない工具や、何かの破片などが散らばっていた。

 彼女が何の気なしに棚に手を伸ばそうとした時、突然怒号が響いた。


「おいっ! そいつに触んじゃねえ! このクソガキがよぉ!」

 驚いて手を引っ込めたエイミーは、声のした方を見た。作業机の下に横たわっている細長い物体が、もぞもぞと少しだけ蠢いた後、ゆらりと徐に起き上がった。

 黒いシャツの上から鼠色の厚手の作業用エプロンを着た女が、エイミーを見下ろして立っている。身長はジェーンと同程度といったところであろうか。くしゃくしゃの黒い頭髪。格子模様のネッカチーフで前髪を上げており、額が露出している。寝起きのような不機嫌そうな顔は、所々が煤で汚れていた。その切れ長の両眼がエイミーを鋭く睨め付ける。


「うわっ、何⁉ このおばさん⁉」

 エイミーはその異様な人物を目にして驚きの声を上げた。


「あぁ?」

 エイミーの発言を聞き咎めた黒髪の女が、どすの効いた声を出した。

「お前さん、今何つった⁉ おばさんだぁ? こちとらまだ三十そこらだってんだぞ? ザケンじゃねぇよ、このクソガキがよぉ!」

 女は腰を屈めると、覗き込むようにエイミーへと顔を近づけた。煙草の匂いがエイミーの鼻孔をくすぐる。

「見たことねぇ顔だな――いや、やっぱりそうだ。お前さん、もしかしてアレか? ジェーンが新しく拾ってきたっていう例の新入りだろ?」


 エイミーは負けじと睨み返す。

「アンタこそ、誰⁉ どうせジェーンと同類のクソったれだろうけど」


 黒髪の女は、口端を意地悪そうに釣り上げた。

「ほー、言うじゃねえか。よりによって、あの吐き気を催す悪党とこのわたしを同列に語るたぁ、お前さん随分と見上げた根性してやがんなぁ」

 そう言うと女は、エイミーのシャツの胸元をぐいと掴んだ。

「一体誰がお前さんのシャツを仕立てたと思ってんだ? あ? こちとら気持ち良く寝てたところをジェーンに叩き起こされて、三人分の採寸やら仕立てやらの縫い物を急ぎ仕事でさせられてんだ。感謝こそすれ、悪態吐かれる覚えなんざ、こっちには全くねぇんだよ。なんなら、感謝の言葉が口から出るように、熱した鉄の棒でも尻の穴に突っ込んでやろうか? 心配しなくても道具なら、たんまりここには揃ってるぜ」

 黒髪の女は、手振りで小屋の奥を指し示す。エイミーが目を凝らして見ると、確かにそこには工房に置いてあるような様々な道具や機械などが鎮座していた。


「そんなのアタシに文句言うのは、そもそもおかしいんじゃない?  全部あのクソジェーンに言えば?」

 エイミーが屈することなく切り返す。

 女は、目を丸くしてエイミーの顔を見つめ返した後、勢いよく吹き出し、からからと哄笑した。


「ははっ、なるほど全部あのクソジェーンのせいか――確かに、そりゃそうだ。お前さんの言う通りだな」

 ひとしきり笑うと、彼女は作業机に横柄に腰掛け、エプロンのポケットから、くしゃくしゃの紙巻煙草を取り出した。作業机の上でマッチを擦り、口に咥えた煙草に火を付ける。紫煙が小屋の中に霧散した。

「それにしても、早速随分と嫌われたみてぇだなぁ、あいつもさ」

 なおも堪え切れずに、くっくと笑っている。


「ねぇ」

 エイミーが言った。

「アンタさぁ、あの女の悪行三昧について知ってるってことはさ、アタシらがどんな目に遭わされたのかも知ってるんでしょ? 違う?」


 女は、エイミーの方へ目線だけを向け、口を開いた。

「ああ、知ってる。赤毛のお前さんは、確か狼人間にされたんだろ? そんでもって、あの金髪の二人は、吸血鬼だったか?」

 事も無げに女が言う。そんな彼女にエイミーは、冷ややかな視線を向ける。

「全部知ってんだ。なのに、アイツに言われるがままに協力するってことはさ、結局のところ、アンタも同類みたいなもんじゃない?」


 エイミーの指摘を受けて、黒髪の女は、ほんの一瞬だけ、一種の諦観を伴う憂いの表情を浮かべたように見えた。

「そうだな。否定はしないさ。お前さんの言う通り、わたしはジェーンのやってること全部知った上で、協力してんだ。死んだらきっと地獄行きだろうさ」

 女は、紫煙を一筋吐く。


 と、その時、一定のリズムで地面を踏み締める足音が戸口の外から聞こえた。エイミーが振り返ると、そこには背後から陽光に照らされた黒衣の女が佇んでいた。

「あらあら、こんなところにいらしたのですね、アミーリア。そんな薄着では風邪をひいてしまいますよ」

 その表情は逆光ゆえに判然としなかったが、いつも通り微笑を浮かべていることがその声色から容易に推測できた。

「アンタの顔をさ、見たくなかったから、こんなとこにいるんだけど」

 エイミーが言う。それを受けて、黒髪の女が小さく吐き捨てるように笑った。

「すっかり嫌われたもんだなぁ、えぇ? ジェーンよぉ? まぁ無理もないけどな。これが普通の反応だろうさ」

「あらまぁ、貴女も随分とつれないことを言いますのね、アキ。それにしても、わたくしよりも先に、彼女と仲良くなるなんて、実に羨ましい限りですわ」


「は? 別にコイツと仲良くなったわけじゃないけど」

 すかさずエイミーが訂正する。

「このクソガキの言う通りさ」

 アキと呼ばれた黒髪の女が言った。

「わたしらは、単にお前さんの悪口で盛り上がってただけだぜ」


「まぁ、いけませんわ二人とも」

 ジェーンが教え諭すように言う。

「『人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう』と、マタイ福音書第七章にもありますでしょう?」

 滔々と聖書の一節を引用する彼女に取り合うことなく、アキは吸い殻を床へ落とすと、革靴の底で踏み消した。


「そんな調子だから嫌われるんだよ、お前さんは。――それよりもだ」

 入り口横の棚の前まで移動すると、細長い布の包みを取り上げて、作業机の上に置いた。その際、包みから聞こえた重たい金属音は、その中身がそれなりの重量物であることを窺わせた。

「ほらよ。ここに来たのは、こいつの出来上がりを確認するためだろ」

 そう言いながら、アキは包みを丁寧にほどいていく。

「有り難うございます、アキ。いつもながら、実に素敵な仕事ぶりですわ」

 ジェーンは、作業机へとつつっと近寄ると、うっとりと恍惚そうに、包みから露になったを眺めている。


 それは、エイミーが今まで目にしたことのない不思議な物であった。

 作業机の上にあるのは、全部で三振りの剣であった。その内、二本は同じ長さで、およそ三十インチ程度。残りの一本はそれよりもやや短い。

 しかし、それらはエイミーが想像するような剣、すなわち古めかしい鉄の甲冑に身を包んだ騎士が手にしているような直線的な剣の形とは異なっていた。と言うのも、黒く塗られた木製の鞘がやや弓なりになっていることから、そこに納まっているであろう刀身の方もまた、少し反っているであろうことが窺えたからである。また、その持ち手部分である柄には、細かく編み込まれた紐が、同じ大きさの菱形の隙間を縦に連ねて、高い違いに交差しながら丁寧に巻かれていた。

 王侯貴族が持つような華美な装飾が散りばめられているわけでは決してないが、それでも質素ながら不思議と視線を惹きつける外観には、素人目で見ても、その細部において非常に洗練された職人仕事が為されたであろうことを随所に窺わせる気品が存在していた。


「こいつはな、刀って言うんだ」

 アキが言った。

「カタナ?」知らない単語にエイミーが聞き返す。

「サムライ・ソードですわ、アミーリア」

 ジェーンが嬉しそうに言う。

「アキは、このような素晴らしい刀を作ることができる鍛冶職人なのです」

「ともかく、これで今宵、貴女方に善き行いをして頂くに際しての準備は整いましたわね、アミーリア」


「は?」

 エイミーが言った。


「あら、お分かりになりませんか?」

 そう言うと、ジェーンは、袂から例の黒い封筒を取り出し、満面の笑みを浮かべた。

「貴女方の出番ということですわ」


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