第10話 殻

 めらめらと燃える強い日差しが、熱を持って容赦なく僕たちを照り付ける。木々に張り付いた蝉たちが少ない寿命を絞り出すようにして、自分の存在を音にして叫びだす。五感全てに否が応でも訴えかけてくる暑さに、体は絶えず水分を流す。


 あれから幾月か経過し、季節は夏になっていた。もうすっかり高校にも馴染み、人付き合いも安定し、ただ夏休みを待ち望むだけの日々。僕は今日も、長そでの制服を着て、暑さでふらふらになりながら学校への道のりを歩いていく。


 他人の評価が体に刻まれる、そんな僕にとって、夏という季節は地獄以外の何物でもなかった。なぜかと言えば、この季節はどんなに暑くとも半袖を着ることができないからだ。僕の傷は、基本的に腕に刻まれることが多い。半袖を着ればほかの生徒に、簡単に傷をさらすことになってしまう。

 

 だからこそ僕は中学校の頃からいつも夏は担任に許可を取って、長袖で過ごすことにしていた。もちろんプールの授業も、体育教師にこの傷のことを打ち明けていつも見学している。


 今日も、どうにか長い道のりを乗り越えて学校にたどり着いた。しきりに手で顔に風を送りながら、自分の教室に入り、席に座る。すると、六月の席替え後も結局僕の右隣に座ることになった海斗が話しかけてきた。


「よ、おはよう、長袖少年。今日も暑そうだな」

「おはよう。別に大した暑さじゃないよ」


 扇ぐものを、手からノートに変え微笑みながら僕は言う。彼は「嘘つけ」と笑いながら、ノートに向き直った。どうやらまた英語の予習をしていないらしい。いい加減家でやってくればいいのに。呆れながら彼の机を眺めると、チラシのようなものが折りたたんでおいてあることに気づいた。僕は尋ねる。


「海斗、その『紙』どうしたの?」

「え、『髪』切ったの気づいた? 少しだけ短くしたんだよね。星見さん気に入ってくれるかな」


 本当に恋する乙女みたいなやつだな。そんな些細な変化、正直全く気付かなかった。多分星見さんも気づかないと思う。


「海斗の頭の髪じゃなくて、その机の上においてあるやつね。それ何の紙なの?」

「あ、これ?」


 なんだこっちか、とばかりに海斗の声の調子が戻る。なおざりな様子で紙を取り出し、折りたたんだまま僕に渡す。渡された紙を開くと、そこには風流な写真とともに、ペンキで塗られた濃い黄色で○○市花火大会と書かれていた。


「何? ここに行きたいの?」

「そう、夏休みの最初の方にあるらしくてさ。星見さんと行きたいなと思って」

「また三人で?」

「ああ、ダメかな」


 僕は呆れたようにため息をつく。あの食事会から二か月弱、星見さんに恋愛感情を抱いているはずの海斗は、いまだに二人で遊びに誘うことさえできていなかった。同情するほどに奥手な奴だ。


「まあいいよ」


 しかし、僕は、この状況で海斗に二人で行って来いよと背中を押すことができない人間だった。海斗には確かに幸せになってほしい。しかし、二人が付き合えば、こうして三人で過ごす時間が無くなってしまうのも事実だ。そんな気持ちが邪魔をして、僕は今日まで海斗の背中を押すことができないでいた。


 ガラガラと鉄を滑る重苦しい音を響かせて教室の前のドアが開いた。相変わらずきれいな金色の髪をなびかせる彼女は、教室に僕たちを見つけると笑顔で手を振った。二か月たち、伸びて後ろに束ねられた髪は、手と一緒にわずかに左右に揺れる。僕たちは、そんな彼女に目を細めながら、手を振り返す。今日は、珍しく早めに登校していたようだ。


「二人ともおはよう。暑いね。あ、平谷君はもっと暑いのか」


 彼女は、そういうと、僕に向かって無邪気な笑みを浮かべた。彼女も、僕が長そでを着ているのは、タトゥーにあこがれて付けた傷(彼女はまだそう思っているはず)を周りに見せたくないからだということを知っている。僕は、彼女の半袖を見て少しだけうらやましく思いながら、彼女に強がって見せる。


「おはよう。そんなに暑くないけどね」


 そして海斗もそれに続く。


「おはよう。星見さん」

「おはよう、東根君。あれそこにあるのなんの紙?」


 そう言って星見さんは、海斗の机の上の紙をひょい、と取った。そしてそれをまじまじと見ながら目を輝かせる。


「花火大会? へーこんなことやってるんだ。知らなかった。誰かと行くの?」


 チラシに目を奪われている星見さんに隠れて、海斗が僕にアイコンタクトを取る。伊達に、何年も一緒にいるわけではない。彼の伝えたいことなど、腕の傷を用いなくても読みとることができる。今がチャンスだ。花火に誘ってくれ。彼の目はそう訴えていた。


 この数か月、星見さんと何度も遊びに行ったが、海斗は一度として自ら、彼女のことを誘ったことがなかった。僕は、呆れた目を海斗に向けながら、星見さんに対して言う。


「実は、僕ら以外に一緒に行ってくれる人を探していたところなんだ。良ければ一緒に行かない」

「ほんと? 行きたいな。こういう花火大会ってあまり行ったことなかったんだ」


 さらさらと髪を揺らして僕の方に向き直りながら、彼女は笑顔でそう言った。あんまりうれしそうな顔をするものだから、僕もつられて笑顔になる。本当に、星見さんとは、四月のころと比べてずいぶんと仲良くなったものだ。


『また、あの三人で遊びに行くんだ。よく星見が怖くないな』


 小さなつぶやき声が、僕の耳に届く。きっとクラスメイトの誰かだ。チラシに夢中の星見さんと、僕らと話しながらも英語の訳と戦っている海斗は気づいていない。いや、きっと普通の人が気づくような声量ではないのだ。普段、人の目ばかり気にしている僕だからこそ、ギリギリ聞こえるような声。


 このようなことは、この数か月の間で何度もあった。異端者とかかわるものはやはり異端者。まあ別にそこまではいかないものの、四月と比べて、僕や海斗は、クラスメイトから少しだけ距離を置かれるようになった。今まで誰も関わらず腫れ物に触るように扱っていた星見京子。そんな彼女と急に仲良くするものが現れたのだ。奇怪な目で見られてもしょうがないとは思う。


 だが、海斗や星見さんのように人の評価に対して決して強くはない僕にとって、こういった言葉を言われるのはやはり慣れない。


 なるべく意識を向けぬように、海斗たちと話を続ける。すると、前のドアから山井先生がゆっくりとドアを開けて入ってきた。山井先生は、細い体に似合わない強面な古典の教師で、僕らの担任の先生である。時計を見ると、まだ授業が始まるまでに何分かある。一体何があったのだろうか。不安に駆られながらも、先生をじっと見つめていると、担任が僕の方を向いて声を発した。


「平谷、今日の昼休みに職員室来てくれないか」

「あ、はい。わかりました」


 山井先生は、それだけを僕に伝えると、ドアを閉めて職員室に戻っていった。またひそひそとクラスメイトのつぶやき声が聞こえる。え、何か悪いことしたかな。バクバクと心臓の音が高鳴る。


「え、和也。なんか悪いことしたの」


 何がそんなに面白いのか、海斗はにやにやとした笑みを浮かべながら、僕に尋ねる。僕は、ぶんぶんと首を振ってその質問に応じる。うわ、なんだろ。怒られるようなことじゃないと良いけど。得体も知れぬ不安に押しつぶされそうになりながらも、僕は、呆然と外を眺めた。


 昼休み、授業が終わり、僕は憂鬱な気分で席を立つ。海斗にはやし立てられながらも、僕は重い足取りで職員室に向かう。


「失礼します。一年の平谷和也です」


 三回ノックして、自分の名前を明かし、職員室に入る。きょろきょろとあたりを見渡し、先生の居場所を見つける。


 唐突な訪問者に向けられる、他の教師たちの視線を受け止めながら、僕は担任のところまで歩いていった。


「おお、来たか。じゃあこれに座ってくれ」

「はい」


 そう言って先生は、簡単な丸椅子を僕に差し出す。僕は、その椅子に座りながらも、胸をなでおろす。座って話を聞いてもいいということは、少なくも、これから叱られるわけではないということだ。必要最低限の安全はこれで保障された。


「それで今日お前をここに呼んだ理由なんだが」


 山井先生は、気まずそうに僕から目をそらしながら、そう言った。机に手を置き、人差し指で、トントンと机をたたいている。咄嗟に頭の中の辞書で引き出せる言葉の中から、何を引用すれば、目の前の少年の心を刺激しないのか。自分もよくそのように考えるからこそ、きっとこの先生も、今そんな考えを浮かべているのだろうと思った。


 彼は、あー、とかえー、とか、意味を持たない母音をしきりに羅列した後に、僕の目を軽く一瞥しながら、こう尋ねた。


「平谷は、何か交友関係で悩んでいることはないか?」

「え? 特にはないですけど」


 なるべくそっけない言い方にならないよう最善の注意を払ってそう答えると同時に、なぜこんなことを聞かれたのかに対して考えを巡らせた。今のところクラスで浮くような行為をしたことはないし、孤立しているように見られる行動をした覚えもない。いつも通り何の問題もなく、衝突もなく、円滑に学校生活を送れているはずだ。それなのに山井先生はなぜ僕の交友関係を心配しているのか。


 すると、先生がまるでカメレオンのように目をきょろきょろさせて、僕に言った。


「あれだ。平谷と、東根は、その、星見と仲いいだろ。なんでそれほど仲が良いのか気になってなあ」


 ――ああ、なるほど。


 『よく星見が怖くないな』今朝のクラスメイトのそんな発言を思い出す。確かに山井先生も、彼女に対してあまり良い印象を持っている感じはしない。そんな彼女と自分のクラスでおとなしい方である僕が仲良くしているのを知って、普通の交友関係を想像できなかったのだ。


 ただ黙って話を聞いている僕に対して、彼は続ける。


「その、星見は、あまりまじめな方じゃないだろ? だから彼女みたいな生徒と関わると、周りも心配するんだ。平谷も、あまり周囲に心配をかけたくないだろ。だから、な」


 ひやりと、僕は、背中に冷たいものが這っていくのを感じた。つまりは、この先生は恐れているのだ。一人だけ学校の風紀を乱していたものが、徐々に交友関係を広げ、その雰囲気を次第に広げていくことを。学校の風紀は確かに大切だと思う。しかし、だからといってそのために生徒の交友関係にまで口出ししていいものなのか。


 念のため一言付け加えておくが、山井先生は、決して生徒から評判の悪い先生ではない。そして僕自身も今まであった教師の中で、彼の評価はかなり高い方である。


 五月、夏の暑さが近づいてくるころ、衣替えを無視して勝手に長袖の制服を着続けるわけにもいかないため、僕は、山井先生にこの傷について事情を話しにいった。


 別に先生に傷について話すことは僕にとって特別勇気を出して行うようなことではなかった。なぜなら、担任に傷の事情を話すことは、今回が初めてのことではなかったからだ。中学校生活でも担任が変わってから夏になるたび、僕は毎回この傷のことを話す必要があった。だから山井先生にこの事情を話すのも、僕にとっては、運動が得意でなくても、強制的に参加しなくてはならない体育祭のようなものだった。


 その時に深く僕の中で深く印象に残っていることがある。それは、僕が傷のことを話した時の山井先生の反応が、今までの担任とは違っていたことだ。


 今までの担任は、この傷を見ると、たいてい僕に対して憐れむような視線を向けた。話を聞いた途端、彼らの頭の中で、僕と、他の生徒とで線を引いて区別し、僕に対して、特別な配慮をしたがった。自分から他者の評価を知るためにこの傷を願った自分にとって、勝手に気の毒そうな視線を向けられるのは、全くいい気はしなかった。


 そんな今までの先生に対して山井先生は、決して僕に対してそんな視線を向けることはなかった。彼は、ポン、と僕の肩に手を置いて、こう言ったのだ。「まあ人の評価が気になるのは、誰にでもあることだし、平谷の場合それが少し強いだけだ。いつかその傷が出なくなる日が来るといいな」と。


 そんな彼の対応が正解だったかどうかはわからない。きっとそれは生徒によって変わってくるのだと思う。しかし、人の評価を過度に気にする僕にとって、他の生徒と僕を線引きしないでいてくれる彼の反応は、やはりとても温かく感じた。


 だから今回このような言葉をぶつけられても、僕は彼の教師としての質の悪さに結び付けようとは思わない。別に妙な情を持ち出さなければ、これは彼女の方が問題なのだ。校内の風紀を乱すような服装をしたら、このように信用を失ってしまう。これは全く持って仕方のないことなのだ。


 校則に逆らうのであれば、そのようなリスクも考慮しなければならない。そして間違っていないのならば、僕は、この眼前の先生の言う通りに行動すべきである。またこうして変な疑いをかけられたくないのであれば、彼女との関係は切って、いつも通り穏やかに暮らしていくべきだ。


「ーー星見さんは、彼女は、決してそんな人じゃありません」


 けれどもなぜか僕の口から発せられた言葉は、理性とは全く異なっていた。山井先生は、言い返されるとは思っていなかったのか、まんまるとした目でじっと僕を見つめていた。僕はそのまま、続ける。


「確かに、彼女の服装は、校則違反ですし、風紀を乱しているとは思います。だから先生やクラスメイトに良い印象を持たれないのも無理のないことなのかもしれません。でも、ほんとの彼女はみんなが思っているよりもずっとずっと優しい人なんです。だから僕はこれからも彼女と仲良くし続けます」


 このような言葉を発したことに対して、何よりも驚いていたのは、自分自身だった。僕は、今までの学校生活で、自分の教師に対して反抗したことはほとんどなかった。周りの生徒と同じように、平穏に学校生活を過ごす。学校の権威者である教師に逆らわないのは、そのために満たすべき最低条件のようなものだった。


 ――なんでこんなことを言ってしまったんだろう。


 頭の中を、後悔の念が徐々に支配していく。山井先生は、あくまで親切心で僕に対して忠告してくれた。それなのに僕は、このようなきつい言い方で、先生の親切心を踏みにじってしまった。そんなこと普段は絶対にしないのに。


 あの強面の顔が多少ゆがむようなことがあっても仕方がない。僕は、心の中で縮こまりながら、先生の反応を待った。


「お前は、怒るときはそんな顔をするんだな」


 しかし、先生は僕に対して優しく微笑みかけながら、そう言った。顔に似合わない、さわやかで暖かで、自分の子供が初めて足で立ち上がったときに浮かべるような、そんな笑顔だった。

彼は続ける。


「そうだなあ。確かに俺は星見のこと誤解しているのかもしれないな。あいつにももう少し話を聞いてみるよ。ありがとな。後、急に呼び出してごめんな。もう戻っていいぞ」

「は、はい」


 僕は、唖然とした表情で、彼の言葉を迎えた。

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