第3話 音に囲まれた君は
まどろみの中、確かに音を鳴らすベル式のアラームが、僕の耳を刺激する。かすかに目を開けながら、僕は、その音の根源を鷲掴みにして自分の顔に近づけ、長針と短針がさしている数字を確認する。時刻は十一時。土曜日とはいえ、もうそろそろ起きなければおそらく母親が心配する。僕は、ゆっくりと体を起こし、カーテンを開けて、大きく伸びをした。
すっかり太陽は昇り、日光が部屋を照らす。僕は、ベッドから降りて、寝間着から私服へと着替える。
『なにあのきず』『きみがわるい』
すると、昨日のうちに、自分の左肘近くに刻まれた言葉が目に入った。これが誰の感情から来たものなのか、僕にはすぐわかった。これはおそらく昨日僕の傷を見た、星見さんが抱いた感情なのだろう。
昨日の一件は本当に失態だった。もっと周りを良く見ていれば、そもそも袖なんかまくらなければ、あんなことにはならなかったのだ。僕はこの傷ができてから初めて、誰かに偶発的に、この傷を見られることになってしまった。
――なんだ。やっぱりいい印象を持っていなかったんじゃないか。
僕は腕の傷を見て、内心で深いため息をつく。当たり前のことではあるのだ。あれほど傷だらけになった腕を見て、純粋にかっこいいという感情だけを抱く人間なんているわけがない。けれども、頭では分かっていたとしても、やはりありもしない可能性を期待してしまうのが人間なのだった。
『かっこいいじゃん』あの言葉をもらった時、きっと僕は、本能的に受け入れてくれたと思ってしまったのだ。他人の評価を気にしてしまう自分を。他人の評価でつけられた傷を、どんな時でも引きずって生きている自分を。急に関わりを持った人が、こんな個性を受容してくれるはずがないのに。
「和也起きてる?まだ一応ご飯あるわよ」
「起きてまーす。食べます」
起き抜けの体に活を入れて、何とか大声をひねり出す。洗面台にいって顔を洗い、だらだらとした足取りで階段を下りて、台所までたどり着く。そしてご飯とみそ汁を器によそい、椅子に座る。
「全くあなたは、いつまで寝てるのよ。もう高校生になったんだからしっかりしなさい」
「悪かったよ。でも今日は休みなのに午前中に起きたんだからいい方じゃん」
母さんの小言に付き合いながらも、少しずつ箸を進める。温めなおされたアツアツの味噌汁をゆっくりと口に入れ、その塩気の余韻で白米を食べる。
「あ、そうそう。和也にお願いがあるんだけど」
味噌汁を平らげ、漬物をポリポリとかみしめていると、母からそのように声がかかった。僕は、口の中の食べ物を飲み込み、母の言葉に応じる。
「なに?」
「ちょっといろいろ買ってほしいものがあるのよ。母さん今日家でやりたいことがあるから。あなた今日一日中暇だったでしょ?」
「まあそうだけど。分かった。いいよ。じゃあ忘れそうだから、買うもの後でラインで送って。後ごちそうさまでした」
母さんとの会話が終わるタイミングで、同時に食事も終了する。食器を一皿一皿積み重ねていき、流し台までもっていく。さて、買い物か。もう私服に着替えてあるし、それほど準備するものもないだろう。
自室に戻り、壁にかけてある小さなショルダーバッグをひったくった。そして、キッチンに数枚あるマイバッグを畳んで、肩にかけたそのショルダーバッグにしまい込む。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい。晩御飯までに帰ってきてくれれば大丈夫だから、少し散歩でもしてらっしゃい」
「分かったよ」
はるか高みから見下ろす太陽の光に思わず目を細める。芽吹いたばかりの緑葉が、光を反射し、みずみずしく輝いている。四月下旬。高校入学から一か月弱。また当たり障りのない青春を過ごそうとしているのにもかかわらず、胸の高まりだけは抑えられなかった高校の入学式。あれからもうそれほど月日が経っていたということに、ふと驚く。
今思えば、自分の生活の半分を占める場所が中学から高校に変わったくらいで、何をあれほど興奮していたのだろうか。身長が伸び、以前より難しい内容を覚え学ぶようになっても、自分の生活が大して変わるはずがなかったのだ。
僕は今まで部活というものに所属したことがない。スポーツであれ音楽であれ、何かに熱中し、時間を注ぐのは素晴らしいことだと思う。そのような生き方は僕自身とても尊敬しているし、自分自身そういう生き方ができればよいのにと思うことだってある。ならばなぜ僕が部活に所属しないのかと言えば、それは自分が集団に属するということが好きではないからだ。
僕は正直、学年をクラスに分けているということさえ嫌いだ。どうしても自分が集団に所属して長い時間を過ごすことで、無意識のうちに他人や知人よりも深い関係となってしまう。それがどうしても好きになれなかった。自分を認知して、自分を評価して、自分に傷を刻む。人間関係を広げることによってそのような人を増やすのは、どうしても僕にとって億劫でしかなかった。だから、僕はやりたいことがあっても、部活に所属しそれに熱中するというようなことはなかった。
そのようなことを考えているうちに、近所の公園が見えた。しかし公園といっても、そのすべての公園が近所の人たちの憩いの場としての役割を果たしているわけではない。うちの家に最も近い公園は、整備があまり行き届いていないため、人がいることは少なかった。滑り台と鉄棒とシーソーだけが置いてあるとても小さな公園だった。
また今日もここには、きっと人一人いないのだ。そう思って通り過ぎようとすると、ふと、僕の耳に何かの楽器の音が響いてきた。
――へえ、珍しい。どんな人がいるんだろう。
そう思い、音の方向へ目を向けると、そこには、星見さんがいた。
彼女は目を閉じて、小さな声で何かを口ずさみながら、まるで水を得た魚のように、活き活きとギターを鳴らしていた。ロックバンドが持つようなギターよりも、丸みを帯びたそれは、確か音楽の授業で見たことがあった。そう、アコースティックギターだ。
休日のクラスメイトとの唐突な邂逅。いつもの僕なら、きっとすぐにでもこの場から立ち去るはずだった。あれが友人やある程度関わりのある人なら、世間話や挨拶ぐらいはする。一応それぐらいの社交性は身に着けているつもりだ。しかし、星見さんのような関わりのない人と下手に関係を深くして、評価を気にしなければならない人が増えるのは僕が最も面倒に感じることだった。
それなのに、この日の僕は、なぜか彼女から目を離すことができなかった。風に吹かれて、柔らかに揺れる金の髪。一定のリズムで美しい音を奏でる、白くてこまやかに動く指。そして小さく静かに動く唇から発せられる、清らかで透き通るような声。この場から立ち去ることが合理的だと分かっていても、他でもない自分自身がここから足を動かすことを拒んでいた。
「――綺麗だな」
それが自分の声だと自覚するには、なぜだか少し時間がかかった。
星見さんは、声に気づくと、演奏を止め僕の方を向いた。そして、しばらく驚いたように目を見開いた後、こちらに微笑むようにして言った。
「ありがと」
その瞬間、僕はようやく自分がどれほど恥ずかしい言葉を口に出したのか自覚した。血液が目まぐるしく体を循環する。自分の頬が、じわじわと火照っていくのを感じる。
「あ、ごめん。綺麗っていうのは変な意味じゃなくて……えっと……」
――変に動揺するなよ。余計気持ち悪いだろ。
自分の感情をごまかすために必死で言葉を考えるも、動揺して言葉がしっかり出てこない。よく知っている同級生が、目の前で慌てふためく姿はさぞ滑稽に映るだろう。ああもう、穴があったら入りたい。
けれども彼女は、どうやら僕のことを滑稽などとは思っていないようだった。彼女は、僕にまた少し微笑みかけながら、ベンチの隣を開けて座り直して、言った。
「そんなところに立ってないで座ったら?」
「あ、はい」
流されるがままに、人一人分の隙間を開けて、星見さんの隣に座る。買い物のことだとか、昨日の件のことだとか、考えている心の余裕は全くなかった。
「平谷君だよね? 今日はなんでこんなところにいたの?」
ギターをいじりながら、星見さんがそのように話しかけてくる。普通の女子より高めではあるが落ち着いた声だった。彼女はこんな声をしていたのか。授業中何度か耳にしたことはあったが、しっかりと心を傾けて彼女の声を聴いたことはなかった気がする。
「親の手伝いで買い物に来ていたんだ。この公園通り道なんだよね」
「そうなんだ。あまり人がいないからこの公園で歌っていたのに。見苦しいもの見せちゃったね」
彼女は、頭を掻きながら、照れ笑いを浮かべてそう言った。また笑っている。教室ではそんな顔、全く見せないのに。
「そんなことないよ。本当に上手だった」
僕はそんな彼女に本心をぶつけた。自分の言葉をまっすぐにぶつけることは、僕の価値観とはかけ離れている行為だ。普段ならきっとこのような言葉は絶対に口は出せない。しかし、誰よりも人の評価を気にする自分だからこそ、他の人にどう思われようと、人には正しい評価を下せる自分でいたかった。
「ありがとう。素直に受け取っておく」
そういって彼女はまた微笑んだ。優しくて大人びているけど、どこか無邪気で子どもっぽい笑顔だった。そして彼女は言葉を続ける。
「そういえば、君も、そういうロック的な曲とか好きなの?」
「え?なんでそう思うの?」
「なんか腕の傷が反骨精神の塊みたいだったからさ。そういうの聞くのかなって」
確かにロックという音楽には、反骨精神なるものが根付いているという話はよく聞いたことがある。だが、だからと言って、腕が傷まみれの人全員が、ロック好きというわけではないだろう。僕は、彼女の質問に何と答えればよいのか、少し迷った。しかし、僕にとっても、この腕の傷の成り立ちについて説明するのは気が進まなかったため、彼女の話に合わせることにした。
「あーうん。そうなんだよ。昔そういうのに憧れていて、でも実際に掘るわけにもいかなかったから、傷を付けてみたんだよね。この前は僕こそ見苦しいもの見せてごめんね。あんな傷だらけの腕『気味が悪い』よね」
『気味が悪い』あえて、今腕に刻まれているその言葉を使ったのは、そのような感情を抱いた彼女を責めたかったからではなかった。この腕を見たら、誰だってどのような感情を抱くに決まっている。だからこそ、自分からこの言葉を発することによって、彼女が人に対して『気味が悪い』と思ってしまったという罪悪感を、可能なら緩和してあげたかったのだ。
「そんなことないよ。私は、人と違っている事に対して絶対にそんなこと思わない」
けれど彼女は、僕の目を見据えながら、僕の言葉にかぶせるようにしてそう言った。まっすぐで純粋な瞳。彼女が嘘をついているとは全くもって思えなかった。きっとこの言葉に嘘はない。そんな気がした。
「ありがとう。そう言ってくれると気が楽だ」
――多分あの言葉は、時々あるエラーだったのだろう。
先述した通り、腕の傷が誤った感情を刻むのは、何もこれが初めてのことではなかった。もちろん彼女が演技派で、かつ、人に気を遣うのがうまいという可能性もあるにはあるのだが、さっきの彼女の言葉には、なんというか彼女の今までの人生の価値観が、かすかに凝縮されているような気がした。だからこそ僕は、先ほどの彼女の言葉が、真実ではないと疑いたくはなかった。
そして話がひと段落すると、彼女と僕の間で、少しの間沈黙が流れた。彼女はギターをいじり、僕は閑散とした公園を呆然と眺めていた。しばらくそうしていると、急に、強い風が吹いた。風は、彼女の髪を揺らし、チャリチャリと耳のピアスの音を鳴らす。
「そういえば、星見さんは、なんでいつもそんな恰好をしているの」
ふと、僕は彼女に対してそう尋ねた。今日彼女と話してみて僕には、やはり彼女が悪い人には見えなかった。外見から想像したものよりも、ずっと優しい心を、彼女が持っていると思った。それでもやはり、彼女の容姿を見て壁を設けてしまうクラスメイトの気持ちを、僕は分からないわけではなかった。だからこそ、僕は彼女に対して、この質問をぶつけたくなった。
彼女は、僕の言葉を聞くと、空を見て、呟くように言った。
「そうだなあ。私はきっと強くなりたかったんだろうなあ」
僕は、彼女の言葉の意味が良く分からなかった。髪を金色に染めたら、ピアスを付けたら、人は強くなれるのだろうか。彼女は、不思議そうな表情を浮かべる僕を見て笑った。そして、こう続けた。
「分からないか。まあ、君は、人の顔色をよくうかがっているから、私の生き方とは少し違うかもね」
そういって彼女は、ベンチを立った。太陽が彼女と重なり、僕は眩しそうに彼女を見上げる。
「じゃあ、次会う時は学校かな。あ、そうだ。ロックが好きならさ。もしよければ、私の好きなCDを一つ貸してあげるよ。聞いてくれたら嬉しいな」
そうして彼女は、僕に手を振ってすたすたと去っていった。自分の身長ぐらいある楽器を背中に担いでいるのにも関わらず、ずいぶんと軽やかな足取りだった。
『人の顔色をよくうかがっている』
僕の頭には、靴で踏んでしまったガムのように、彼女の言葉がこびりついていた。なぜ彼女は、僕の内心を看破できたのだろうか。それほど自分は他人から見てわかりやすかったのだろうか。いろいろな疑問が頭に浮かんでは消えてゆく。けれども僕は、その彼女の言葉によって気分を損ねたわけでは決してなかった。むしろ関われば関わるほど初めて知ることが増えていく彼女に対して、僕はこう思ったのだ。
――もっと彼女といろんな話をしてみたいな。
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