キズアト

笹原うずら

第1話 星降る夜のプロローグ

―――発症患者B―――


 昔から僕、平谷和也は、人にどう思われているのかが怖くて仕方がなかった。


 「昔」というのはいつのころだったのか、具体的な月日を覚えているわけじゃない。もちろんこんな僕にも、他人の評価など気にせずに、自分の気持ちを外にさらけ出しているような時期もあった。


 しかし、なぜか大人になるにつれてそれがだんだんできなくなってしまったのだ。自分の知らないところで、自分の言葉が、誰かの大切なものを踏みにじっているのかもしれない。


 一度そう思い始めると、気づけば僕は、『自己』というものを決して表に出さないようになった。


 しかしもちろんその『自己』を自分の心のうちにしまい込むようになっても、人の気持ちが気にならなくなるようなことはなかった。自分が言葉を発さないことで周りはどう思っているのだろう。周りに気を遣わせてはいないのだろうか。結局そのような懸念が自分の頭を支配するだけだった。


 ――ああそうか。自分は一生、人を気にして生きていくんだ。


 僕が自分の人生にそのような一種の諦めを抱くのは、時間の問題だった。駅前で、周囲の評価を顧みずに、夢を追いかけるギタリスト。周りの冷ややかな視線を歯牙にもかけず、署名活動に勤める自称有識人。   


 僕は彼らのような人間を、一種の憧憬にも似た眼差しで見つめながら、自分の個性に辟易して生きていかなければならないのだ。


 だから僕は中学生の頃、とある流星群を家族と見に行った日、たくさんの星が、命を燃やして空を彩る夜に、とある願い事をした。

 ――人の感情が理解できるようにしてください。


 自分の性格が変えられるように願いを唱える気持ちは全くなかった。今まで生きていくうえで、いやというほど直面し、そしてともに過ごしてきた、僕の価値観。それが簡単に変わるはずなどないと思ったからだ。

 

だからせめて人の気持ちが分からないまま頭を悩ませるよりも、分かったうえで、その評価に対して頭を悩ませたかったのだ。


 僕はその日の夜、自分がした願い事を、幼馴染である東根海斗に打ち明けた。彼は、僕の性格を理解したうえで、今日まで親しくしてくれた大切な友人だった。


「なんで和也はそんなこと願ったんだよ」


 海斗はあきれたようにそう言った。海斗の気持ちは良く分かった。どんな願い事でもかなえられる可能性があるのかもしれないのに、僕は、富でも名声でもなく、自分が誰も傷つけないために人の気持ちを理解することを望んだんだ。きっと他の人からしたら理解できない選択なのだろう。

 

 しかしそれでも僕にとっては、これが一番かなえたい願い事だったのだ。


 すると次の日の朝、僕の体に不思議な現象が起こった。朝、寝間着から制服に着替えているときのことである。服を脱いでから、なんとなく全身鏡に映る自分の姿を見ていると、自分の腕に、小さな切り傷があることに気づいた。それも一つではなく、縦横様々な方向に延びた傷が複数刻まれていた。

 

 僕は不思議に思った。そのような傷跡は、昨日までの自分の体には決して刻まれていなかったからだ。起きたばかりのさえない頭で、昨日起こった出来事を良く思い出してみる。


 しかし、自分の腕を何か鋭いものでひっかいたような記憶は全くもって持ち合わせていなかった。もちろん寝ている途中、寝返りを打った時に、何かしらで傷を負った可能性も考えてみた。しかし、そうだとしても、この腕のように、不規則な方向で傷跡が残るというのはやはりおかしな話だった。


 ――人の感情が理解できるようにしてください。 


 そこでふと、昨日自分が星にした願い事を思い出した。僕はもしやと思って自分の腕の小さな傷跡を鏡に近づけて良く見てみた。

 

 『へんなねがい』腕の傷は、乱雑な文字ではあるが確かに、そう刻まれているように感じた。きっとこの傷跡は、海斗が僕に対して感じたことなのかもしれない。僕はそう思った。そしてこの日から、僕の体には他の人の感情と思われるような傷跡が刻まれるようになった。


 しかし、感情が刻まれるとは言っても、自分以外の人間の全ての感情が際限なく傷跡として表出されるわけではなかった。経験則から導き出したものだが、この傷跡にはいくつかのルールがあった。


 ルールその一。傷跡はずっと残るわけではない。自分の体に刻まれた言葉の形を成す傷跡は、二日たてば、跡形もなく消えてしまった。


 ルールその二。自分に対する感情しか刻まれない。傷で刻まれた文字は、すべて他の人が自分に向けて抱いた心情であり、他の人が自分以外の人に向けて抱く感情を察知することは不可能だった。


 ルールその三。時々外れることがある。笑ってしまうようなルールだが、僕の傷跡は、時々人の感情と違う心情を刻み示すことがあった。とはいっても、頻繁に間違うわけではない。確立としては、大体十回に九回ぐらいの確率で的中する。だから、別に外れすぎて役に立たないと思うようなことはなかった。


 そしてルールその四。傷跡として刻まれる感情は自分にとってマイナスなものしか表示されない。つまり傷跡は、他の人の自分に対する不平や不満は表示してくれるが、自分に対する好意や称賛は表示することはなかった。


 以上が自分の体に刻まれる傷跡に関するルールだ。これだけ縛りがあると、もしかするとこの傷跡は、他の人からすれば不便に映るかもしれない。

 

そして、もちろんこの傷跡があることによって、普通の人が負う必要のない負担を強いられているのも事実だった。中学校でジャージに着替えるときは、人に傷を見られないよう細心の注意を払わなければならない。さらに夏でも気軽にプールに行ったり、袖をまくったりすることはできなかった。

 

 しかし僕は、この傷跡が刻まれるようになってから数年間、一度たりともこの力を不要に感じたことはなかった。自分の言葉や行動で傷ついた人がいる。それを察知できることは、僕にとって本当に大切なことだった。


 中学三年間、僕はこの傷とともに当たり障りのない青春を過ごした。誰にも自己を開示することはなかったし、誰とも意見をぶつけ合わせることはなかった。

 

 しかし、それなりに友達はいたし、それなりに遊びにも出かけた。嵐も竜巻も起こらず、突風も吹き荒れない、いうなればずっとそよ風が吹き続けるような青春。恋も喧嘩も生じない、ありきたりな日常を繰り返す日々。僕はそんな中学校生活に心から満足していた。


 『なにかいえばいいのに』『このひとはじぶんがないの』そのような傷跡を体にいくつか残しながら、僕は高校に進学した。

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