パートナー
新歓コンパの場はあろうことか、宿木橋にあるバーであった。宿木橋にバーが何軒あるか知らないが、その九割以上がゲイバーである。
「いらっしゃいませー、あっ、みんなだ!」
亀沢本橋加蔵中寉という「王子様」の面々に矢束と律を加えた馬鹿六名様を迎えてくれたのは、今日はワイシャツに黒いエプロンを巻いて、髪はポニーテールにしているもののぐっと男性的なスタイルの蒔田皐醒だった。中寉も「おはようございます」と、蒔田と、それからカウンターの中にいる店主らしい三十にはなっていようかという長身の男に挨拶をして、店の奥に引っ込んでいく。
矢束が来たがっていたこの店、「緑の兎」はカウンターとテーブルが数席、それほど広くはないが、清潔感は上々、店内はモノトーンでスタイリッシュな印象に纏められている。とはいえゲイバーであるから主要な客は同性愛者ということにはなろう。カウンターで語り合っていたサラリーマン風の二人が大所帯六人組を見てちょっと驚く。あちらからこちらがどう見えているか、考えるとちょっと居心地が悪い気に、律はなった。自分が同性愛者としての一線を超えてしまっていることは明白だし、そう見られることに抵抗があるというわけでもないのだが。
「では、新しい仲間であるヴィットーリアとの永久の友冝を誓って、乾杯!」
ソファの上席に座らされてた矢束は、加蔵と本橋に両サイドを固められて緊張気味ではあるものの、満更でもなさそうである。隅に追いやられたことについては、そもそも律は「王子様」なとでは決してないのでいいのだが、無責任な酒の呑ませ方でもされては困るし、中寉に(おんぶが必要になるかどうかは置くとして)連れて帰れと言われているので、目を離すこともしがたい。しかし概ね蚊帳の外にあるうちに、間もなく倦んで、独りカウンターに移動する。店主が「何かお呑みになりますか」と無愛想な顔ながら優しい声で訊いてくれたので、おすすめだというスコッチをロックで頼み、流石に「王子様」たちであって下品な感じはない盛り上がりを背中に聴きながら、グラスを傾ける。
「あの子、俺の代わりにメイドさんやってくれるんだって?」
気を遣ってくれているのか、蒔田がひょいと隣の席に座った。
「……なんか、あの人にそう言われて……」
半分は呑み会に参加しながら、残り半分ではグラスを洗ったり料理を作ったり、つまり半分真面目に働いている中寉を見て律は答えた。
「あー……、了はああ見えて強引だからなあ。知ってる? 俺たちバンドやってるんだ。了と僕と、別のバンド、『ドアストッパーズ』っていうわりと有名だったバンドでギターボーカルやってた結人と俺の中国語のお師匠さまと四人で」
結人、大月結人という名前は今日まで知らなかったが、「ドアストッパーズ」というバンド名は知っていた。高校のときに付き合っていた彼女が大好きだったバンドで、でも地方だったのでライブを観に行くことは出来なくて、「大学生になって上京したら絶対りっくんと一緒に観に行く」と誓っていた。彼女が「ドアストッパーズ」のライブを観に行くよりも先に二人は別れ、ウイルスが流行り、ようやくそれがおさまってあちこちでライブが行われるようになったころ、メンバーの一人が女装して別のバンドで演奏しているという事実を何と表現したらよいものか、律には言葉が浮かばなかった。
「結人とお師匠を誘うときなんて、すごかったんだよ。バンドやろうって了一人で決めちゃってさ、二人に何の相談もしないで『ハイキングに行きましょう』なんて呼び出して。集まったところで『四人でバンドをやりましょう』って言い出してね、でも、山には行ったんだ。湯汲山っていう、地味な山。そこ着いたところでさ、『これに着替えてください、アー写を撮ります』って四人分の衣装取り出して。結人も老師も……、あ、老師ってお師匠さまのことね、めちゃめちゃ驚いて嫌がって逃げ出そうとしたのを、了と俺とでベルト掴んでさ……」
中寉了がだいぶめちゃくちゃであることは解ったが、どう訊いても、蒔田皐醒もまた同じぐらいにめちゃくちゃである。
「皐醒、人聞きの悪いこと言わないでください。君だって大いに乗り気だったのですから、共犯です」
「あ、聴こえてた?」
仕事がひと段落着いたのか、律を挟んだ反対側のカウンターに中寉が座る。背が低いので、高い椅子に座るのはなんとも安定感がない。
「マスター、炭酸水を頂けますか」
店主が無言で氷も入れずにマグカップに注いだ炭酸水を中寉の前に置いた。ゆるい職場であるが、蒔田も中寉も客に呼ばれればすぐに飛んでいくし、行った先では客と談笑している。そして見たところ、独りで寂しく呑んでいる者にはすぐに話し掛けて、口にする酒が甘い味になるよう努めている様子だ。無愛想な店主と異種の愛嬌を備えたボーイが二人、客は緩やかに入っては出て行く、繁盛しているのだろう。
「僕には確信がありました、『僕たち四人であれば、きっと素晴らしい音楽を演ることが出来るに違いない、この暗い世の中を照らす光になることが出来るに違いない』と」
どうやら中寉も酒には強くないらしくて、最初にグラスビールで乾杯した後はずっと飲んでいるのは炭酸水ばかりだ。矢束はどうか、と思って見ると、ひとまずは今のところ甘いカクテルをそうっと啜っているだけで、酔いも周り切ってはいない様子であるし、「王子様」連中も矢束を酔い潰してやろうなどとは思っていないようだ。
蒔田が他の客に呼ばれて「はぁい」と愛想良く席を立った。
「三摩くんは」
炭酸水を一口呑んで声のヴォリュームを落とした中寉が、背後に憚ったように少し顔を寄せて訊ねた。
「矢束くんと付き合っていらっしゃるのですか」
静かで、穏やかな訊き方ではあったが、言葉は律の胃にちくりと刺さった。
「……なんで?」
「なんで、というのは『何故そんなことを訊くのか』という意味でしょうか」
他にどんな?
「あるいは、『何故それが判ったのか』という意味と捉えることも出来るでしょう。三摩くんはどちらの意味でいま、僕にお訊きになったのですか」
厄介な男だと思った。
ずっと、ほとんど表情を変えないでいる。蒔田とは好対照だ。
「『何故そんなことを訊くのか』という意味で訊きました」
同じぐらいに淡々と、と努めても、どうも違う。人間の声になる。
「お答えしましょう。この街はご存知の通り僕も含めて同性愛者が多く過ごす街です。そして、僕は気のせいでなければ矢束くんをこの街でお見かけしたことがあるように思うのですよ」
発展場に行ったことがある、……と言っていたこと。矢束の側は気付いていなかったとしても、中寉は覚えていて、あの駅前でへべれけ面を晒している矢束を見たときに思い出した。
一緒にいる男について邪推を巡らせたとしても不思議はない。
「なので、きっと矢束くんも僕らと同じなのでしょう。ああ、『僕ら』と言うのは、僕と皐醒のことであって、亀沢さんたちは違います」
「まあ、どうでもいいですけど……」
「なので、お訊ねしようと思ったのです。矢束くんは、三摩くんのパートナーなのですか」
「違いますよ」
どうでもいい話を挟んでいる間に、そう答えることはすんなりと律の中で定まっていた。
恋人ではない、まだ、ない。そして、今後そうなるという保証もない。
「ただの友達です」
セックスをするけれど、友達です。
だから、セックスフレンドです。
それがお互いにとって丁度いい距離感であることを、少なくとも律はよく判っている。男同士であるということを理由にするつもりもない、そして矢束とセックスをするのがとても楽しい理由が「男同士であるから」という理由では多分ないことも判っているけれど、執着して、矢束に「そんなつもりはなかった」なんて言われるほど情けない話もないし。
「そうでしたか」
中寉は相変わらず淡々としている。
「では、例えば明日僕が矢束くんを遊びに誘っても、特に問題はないということですね」
明日は祝日である。
律の返事を待たずに、中寉は椅子から降りた。何も問題はない、そもそも別に関係もない。……店主がこちらを見ていた。律のグラスは空になっていた。もう一杯ください、と言った律のために、彼は静かに同じグラスを作り始める。
アイラモルトの潮の馨りで鼻腔と頭蓋の中を満たしてもやもやとしたものを追い出すことに努めているところに、蒔田が戻ってきた。正直、もうしばらく独りで考え込んでいたいところではあった。
「三摩くんは、いいの? 矢束くんにさ、女の子の服着せて」
中寉にせよこの男にせよ、放っといてくれればいいのにお節介なのは仕事柄だろうか?
「別に……、あいつが着たいなら何だって着ればいいと思いますし、俺にはそんな、関係のあることじゃないですし」
心の浅いところから浮かんできた言葉は自分でも捉えどころがないもので、声に出すときには慎重になって、唇が尖る。蒔田は「二人は付き合ってるんじゃないの?」と意外そうに首を傾げた。
「普通に、友達すよ」
今度は中寉に対して言うときよりも上手に言えた気がする。振り返って見れば、矢束は「ちやほや」「ちやほや」という音が聴こえてくるぐらいの歓待ぶりを受けている。そこに彼の憧れの存在でもある中寉まで加わって、もう酔い潰れるのは時間の問題。……ここから山北台までおんぶして帰るなんてごめんである。夜の上り通勤ラッシュの中でおんぶして仁王立ち、爪弾きものだ。
「そうなんだぁ……、ふぅん……。じゃーさ」
男としてはずいぶん長い髪、ある程度の手入れをしていなければそこまで整うとも思えない天使の輪を被った蒔田は、カウンターに肘をついてにっこりと微笑みを浮かべた。
「明日、俺と遊ばない?」
柔和な表情である。美しく甘い顔をしていることは認めるが、女装はしないほうがいいのではないか、なんて余計なお世話を思った。中性的な容姿をしているのだが、女装をすると途端に男が滲んでしまうようだ。一方で、今のように男の服を来ているときには、声を聴けば男だと判るのに、そして別にくどくどと化粧をしているわけでもなさそうなのに、自分より歳上の男であるという事実がずいぶんと薄くなる。
「明日、祝日でしょ? お店お休みで、……だから出掛けようかなって思ってるんだけど、三摩くんがもしよかったらさ、付き合ってよ」
蒔田はごく平然と律を見て言った。
それというのは。
律の視線はまた、和やかに盛り上がる「王子様部」の面々に向いた。
「遊び行こうよ。三摩くんが矢束くんと付き合ってるならさ、誘っちゃまずいじゃん? でも三摩くんがいまフリーなら、俺と遊ぼうよ」
にー、と笑う顔には形の整い方を冷たさに変えさせない愛嬌が漂う。中寉の顔がガラスや氷の近付きがたさを感じさせるものであるならば、蒔田にはより人間的な温もりめいたものが感じられる。
自分の店で働いているスタッフが相次いで、明日の予定を客と組もうとしていることが、やはり少しは気になるのだろうか? 店主がちらりとまた、こちらへ視線を向けているのが判った。いや、学生でもないのだし、休みの日に誰と何をしていようと勝手であるから、彼も何も言いはしないのだろう。律だって同じことだ。会わない日に矢束が誰とどういう時間の過ごし方をしようと。
それこそ、自分以外の誰かと、楽しくセックスをしようと。
「別にやることないしいいですけど……、どこ行くんすか」
「ないしょ。でも、きっと楽しいって思ってもらえると思う。俺の大好きな場所だよ」
あいくるしい、という形容でいいのだろう。正直得意なタイプではないのだが、目にする快さとしては、……男に限らなくとも、相当な高みにあるのがこの蒔田という男の顔ではないか。三つも上なのに、屈託のなさで言えば矢束よりも。いまでさえ大分あちこち傷んで錆びて黄ばんでいる自分が三年後、こんなに瑞々しい笑顔を浮かべることが出来るだろうかと律は遠い気持ちになった。
それでも時折、例えば手元のグラスに視線を落とすとき、うっすらとした陰めいたものが睫毛の先に宿る瞬間がある。横顔美人という言葉が頭に浮かんだ。美人であるから価値があると言うつもりもない、……事実として目付きの悪い矢束が、律の心を捉えたように。だからと言って美に宿る価値をわざわざ否定するための言説を用意する理由もあるまい。
「ラインかメルアド教えて。仕事終わって一眠りして起きたらメールするよ、たぶんお昼前ぐらい」
律の背中はその日、矢束の体重を負うことなく家路に就いた。彼がどうやって家に帰ったかは知らない。独り寝から目覚めてスマートフォンを見たのは翌日の朝十時、しばらくすると予告されていた通り蒔田からメッセージが飛んできて、ここ来て、と駅から電車を乗り継いで一時間足らずの場所が指定されていた。そこは都心から東に伸びる地下鉄路線の駅で、乗り継ぎ案内を調べるついでにちょっと地図を調べて見たけれど、いったい何があるのやらまるで判然としない。ただ、矢束が隣にいない休日をどう過ごそうとも自由なのだ。
それが楽しいものになるのかどうかは判らない。矢束は矢束で、きっと中寉とどこかで遊ぶ一日。友達なのだから、適した距離感というものがきっとどこかにある。ひょっとしたらこれぐらいの方がいいのではないか、あるいは、……別にずっと会うことがなくたって、寂しい気持ちになんてならないのではないのか。
そんなことを考えながら身支度を整えて、慣れない乗り換えを辿り始めた。
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