第63話 出会い
***
――ピピピピッ
単調で耳障りな電子音が左胸の辺りから鳴り響く。天井で埋め尽くされたぼんやりとした視界に、母親の顔が興味深そうに入り込んできた。
ずっしりと重たい腕をイモムシのように身体の上を這わせると、脇に刺さったそれを気だるげに取り出した。
「えーっと、三十七度、九分」
「うん。完全に風邪だね。学校にはお母さんが連絡しておくから、薬を飲んで今日は一日家でゆっくりしてるんだよ」
そう言って母は、ベッドに横になった僕の手から体温計を受け取った。
中学に入って二年目の四月。クラス替えなどによる環境の変化に気疲れしていたのか、新学期早々にしてバテてしまった。身体中がぐらぐらと熱を蓄えている。四肢は重たく、ベッドに張り付いたのかと思うほどに動かすのが億劫だった。
しかし幸いなことに、熱っぽいだけでそれ以外の症状は特になかった。この調子なら休みを満喫できるだろう。
「じゃあお母さん家にいるからなにかあったら言ってね。あっ、なんだったらずっと横にいてあげようか? 一人で寂しいだろうし」
「やめてようっとうしい。そこまで重症じゃないから大丈夫だよ」
「なんだ、残念」
子供が熱を出しているというのに、微塵も深刻さを感じさせない佇まいに肩をすくめる。でも、その軽さが居心地よくもあった。
母が部屋からいなくなり一人きりになると、途端にじわじわと休日の実感が込み上げてきた。
二階から窓の外を見下ろすと、登校中の学生の姿が見えた。パジャマ姿のまま眺める僕の視界から、学校へ向かう制服姿の学生が僕を置き去りに遠くに消えていく。普段ならば見ることのできない光景に、喉がグッと高揚の音を鳴らした。
ぽこぽこと現れる優越感に、控えめな自尊心がくすぐられる。学校を休んだ、ただそれだけのことなのに、いつもどおりから外れた自分が少しだけ特別な存在になれたような気がした。
平日という要素が加わるだけで、外の景色はまるで別物のようだった。好奇をにじませながら観察していると、部屋のドアが叩かれた。母親が電話の報告でもしに来たのだろうか。一応病欠の身なので、注意されないようにとベッドに戻る。
「はーい」と返事をすると、音が立たないようにゆっくりとドアが開かれた。おずおずと様子を見ながら入ってくる小さな体躯に、大人びたベージュのランドセル。そこにいたのは、神妙な面持ちでこちらを見つめるあさがおだった。
「お兄ちゃん、風邪なの?」
「そうみたい。まあ、熱があるだけだからたいしたことないけど。というか学校は?」
「これから行くよ」
「え、なに。もしかしてお見舞いに来てくれたの? 優しいねー」
「……うん」
ふへ、とゆがんだ唇の間から空気が漏れた。驚きが頬を引きつらせる。冗談のつもりで言った台詞をまさか肯定されるとは思わなかった。からかってやろうと張り切っていた気持ちが、彼女の言葉につまずき派手にずっこける。
こうして素直に反応されることには慣れていなかった。あからさまに元気がないあさがおを、窓から差し込む朝日が照らす。日差しを受けて白が強調された小ぶりな耳とは対照的に、うつむいた彼女の目元には静かに影が溜まっていた。
「はい、これ」
目の前に差し出された彼女の手には、見覚えのあるプリンが乗っかっていた。昨日母親が兄妹二人に買ってきてくれたものだ。
「それはあさがおのプリンでしょ? 俺の分は昨日食べたよ」
「ううん。私のやつ、お兄ちゃんにあげる」
「めずらし。いいの?」
「いいの。ほらっ」
そう言ってあさがおは、僕の手のなかにカップを半ば強引にねじ込んできた。グイグイと力任せなその動きに、つい吹き出してしまう。
「ありがとね」
そうあさがおに笑いかけると、安心したのかやっと彼女はその頬をほころばせた。冷たい表情はコロッと変化し、嫌味っぽく緩んだ目尻が現れる。
「こんなところに長居してたら風邪がうつっちゃう。はやく学校行ーこおっと」
「うん。いってらっしゃい」
じゃねっ。そう言い残して嵐のようにあさがおは去っていく。揺れるランドセルが、ジャラジャラと愉快げな音を残していった。
風邪の熱とは違う暖かさが身体を巡っている。手のなかにあるプリンの冷たさが愛おしいほどに心地よかった。
◇
あさがおからのプリンを食べ終え、よし、休日を満喫するぞ! と意気込んでみるも、特にすることもなく一瞬で暇になってしまった。なんとなくテレビをつけてみるも、主婦層に向けた日中の番組は男子中学生には退屈なものだった。
そういえば小さい頃は学校を休んだときに見る教育番組が大好きだったっけ。ピンクの恐竜に、ガラガラ声の青いネコ。工作が好きなあのおじさんはいまも元気だろうか。
記憶に促され、ウキウキとチャンネルを変えてみる。映し出された番組は昔と変わらないままで、見覚えのある愉快な映像に心が踊った。
しかし、数年間見ていなかったうちにその番組は、面白い番組から懐かしさに浸るための番組へと変わってしまっていた。内容はなにも変わってないはずなのに、あのころのわくわくは身体のどこを探しても見つからなかった。
過去から今日までずっと続いていたと思っていた楽しい印象。それがとっくの昔に途切れていたことを実感する。後戻りできない時間の流れの向こうで、置き去りにされた幸せな思い出が過去に孤立していた。
まだ半日も経っていないのに、肌にくっついてまわる退屈にもう音を上げそうになっていた。枕元のデジタル時計は、さっき見たときからまだ三分しか経っていない。予想では十五分は経っていたはずなのに。
眠くもないのにずっと横になっていたせいで、フラストレーションが爆発した。お腹の奥から込み上げる爆風はそのままうなり声に変換され、春色の日光が満ちる空間にとどろく。
なにかオレを満たしてくれるものはないのか! とお腹を空かせた猛獣のように部屋をジロリと見渡すと、机の上のそれを発見しハッと目を見開いた。
机の片隅に佇んでいた黒色のノートパソコン。それは新学期早々父親が「いまどき持っていたほうがいい」と買ってくれたものだ。買ってから日が浅いため、すっかり存在を忘れていた。
まだ検索機能や動画視聴くらいしかできないが、それでもいまの僕には十分だった。ベッドの隣に机のイスを移動し、その上にパソコンを運ぶ。近い場所にコンセントを繋ぎ直して準備完了。
アニメでも見ようかなと動画サイトを開く。しかし、不運にも現在視聴中のアニメの最新話は、すべて見てしまっていた。残しとけよ! と過去の自分を恨む。
またしてもあてがなくなってしまった。ネットの世界に出たはいいものの、結局暇という迷路に閉じ込められてしまうのか。
助けを求めるように見上げた窓の外は、汚れのない新鮮なスカイブルーで満たされていた。もこもこの白い怪獣が、地上で生活する人々を見守りながら気持ちよさそうに闊歩している。そこから見下ろせば、僕の学校も見えるかもしれない。僕の席が空いた教室を想像する。まるで僕という存在が初めからいなかったかのような自然さで行われる授業の光景が、やけに実感を伴って脳裏に浮かび上がる。そんなことを考え、そっと視線をパソコンに戻した。
どうしようかと焦る心に急かされながらあてもなくマウスを動かしていく。
すると、ふととある文字が目に入り、意識が引き寄せられた。
『生放送』
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