第18話・乳母メリッサの朝
まだ夜が完全に明ける前、窓の外は薄ぼんやりと明るくなりかけていた頃、メリッサはすぐ隣に設置されたベビーベッドから聞こえてきた、赤子の発した微かな声で目が覚めた。
たとえ睡眠中だろうが、ただの短く漏れ出ただけの赤子の声に反応できてしまうのは、産後の母親だからこそ。子供達が本格的にぐずり泣く前に気付けてしまうくらい、今のメリッサの眠りは浅い。
ベッドから起き上がると、二台並んだベビーベッドの中を順に覗き込んでいく。ぐっすりと眠っているギルバートは、寝返りがうてるようになってから寝相が悪くなった。蹴り上げられた布団を掛け直し、息子の前髪をそっと撫でる。
そして、その隣のベビーベッドで三毛猫に寄り添われて眠っていたはずのマローネが、瞼は閉じたままなのに嫌々と首を横に振っているのに気付いて、静かに抱き上げた。
「お腹が空きましたか?」
自分用のベッドに腰掛けると、空腹と眠気の狭間でもがいている赤子の口へ乳を含ませる。目を閉じたまま吸い付くように飲み始めたマローネの顔を乳母は我が子と同じように愛おしそうに見つめた。
夫が怪我で仕事に出れなくなったせいで、産後すぐに奉公に出るはめになったが、自分は職場にとても恵まれていたと思っている。こうしてギルバートとは一緒に居れるし、娘二人とも遠く離れていて全く会えない訳でもない。雇い主である辺境の魔女は、自由に帰宅すれば良いと言ってくれていたし、その言葉に甘えて実際にも何度か自宅の様子を見に帰らせてもらったことがある。
散らかり放題になっていると思っていた家は、意外とちゃんと片付いていて、娘達が頑張っていることを垣間見れた。
正直言って、マローネのことを我が子と同じように愛せるかどうか、メリッサは最初の頃は自信が無かった。マリスからはギルバートと同じように育ててと言われていたが、やはり自分の血を分け、腹を痛めて産んだ息子と、どこの誰の子かも分からないマローネとを同じようには見れる訳はないと思っていた。
しかも、この子は守護獣付きという、自分にとっては未知の人種だ。
――でも、そんな心配は無用だったわ。
もう片側の乳を加え直させてから、メリッサは女児の栗色の前髪を撫でた。自分の乳に必死で吸い付いている赤子を、愛おしいと思わない訳がない。確かにギルバートと違って、この子は自分の腹から出てはいないが、自分の母乳だけで日々育っているのだ。血を分けた子供も同然。魔力があろうがなかろうが、そんなことは関係ない。
マローネの吸い付きが止まったのに気付いた乳母は、促すように赤子の頬を指で突く。飲み疲れてそのまま眠りかけていたマローネは、慌てたようにまた小さな口を動かし始めた。しかし満たされた腹が睡魔を呼び込んでしまったのか、すぐに吸い付きは止まってしまい、完全に寝入ったようだった。
丸くなっている三毛猫の横に寝かせると、布団を掛けてから優しくマローネの前髪を撫でる。眠っている子供の前髪を撫でるのは、ぐっすり眠りなさいという、おまじない。メリッサも子供の頃に母親から同じようにして貰った記憶があった。
ベッド脇の棚に置いていた水入れからグラスへ注ぎ入ると、それを一気に飲み干す。常温でぬるくなった水でも、授乳後の乾いた喉には心地いい。
再びベッドに潜り込んだメリッサが目を覚ましたのは、階下で使用人達が慌ただしく朝の支度をしている物音が聞こえて来た時。家では自分より先に起きて動き回る者がいなかった為、慣れるまでは少し戸惑った。自分も奉公に来ている身だから、皆が動き出すタイミングで朝の身支度は整えるようにしているが、子供達が眠っている間にしなきゃいけないことは特にない。
ソファーに腰掛けて編み掛けの毛糸を手に取ると、二本の編み棒をリズミカルに動かしていく。赤子達が歩き回るようになるまで、乳母には自由に過ごせる時間は十分にある。今から取り掛かれば、年明けには子供達用の揃いのベストくらいなら編み上げることができそうだ。
だが、乳飲み子二人を同時に世話するのは決して楽ではない。朝食が部屋に運ばれて、給仕の侍女と話し込んでいると、ギルバートが屋敷中に響きそうな声で泣き始め、その声に起こされてしまったマローネも一緒になって泣き出した。静かだった室内は一気に騒々しい場へと変わり果ててしまう。
侍女と二人がかりで子供達をあやし宥め、お腹が空いて起きたらしいギルバートへと授乳する。
「ふふふ、大きな声が出せるようになったわね」
黒猫の為にと開けられたままの扉の隙間から、主である辺境の魔女が顔を覗かせて笑っていた。朝食の為にホールへ向かう途中なのだろう、一言だけ声を掛けてからすぐに階段を降りていったようだ。その足元には彼女の守護獣である黒猫が寄り添うように歩いていた。
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