夕焼けの町

鳳濫觴

螢ア

 いつからだろう。

 気がつけば似たような町並みを歩き続けていた。夕焼けで赤く染まった町は燃え盛るようで、影を延々と伸ばしている。

 帰り道、今日はちょっと違う道を使ってみようと横道に逸れたのが運のつき。喧騒が遠くにうっすらと聞こえるような静かな住宅地。少し前までは下町と呼ばれていたであろう町並みだった。古い家が多く立ち並び、よく言えばレトロな雰囲気をまとっていた。

 しかし、その町並みは上京したての私には少し荷が重すぎた。余計なことなど考えずさっさと家に帰ればよかった。

 そう思いながらとぼとぼと歩き続けて早二時間。ようやくこの状況の異常性に気がついた。

 一向に大通りに出ない。それどころか似たような風景を繰り返すばかりで、目印にしていた都心の高層ビルに全くもって近づいた様子がない。追いかければ逃げる影法師のようだった。距離が遠ざかりはすれど近付くことはない。

 そして何よりも傾いた日が沈まない。じりじりと照りつける日差しの鬱陶しさに気がついたとき、ようやく私は途方に暮れた。

 喧騒は遥か遠くに、私の周りは水を打ったように静まり返り人の気配はない。自らの靴が砂利を踏み潰す音すらはっきりと聞こえる。

 もういっそのこと、どこかの家の戸を叩き道を聴くのが早いか、と考え始めたときだった。

「────」

 先の角を曲がった辺りから人の声が聞こえたような気がした。

 なんだ、いるじゃないか。

 安堵し、若干早足になりながら角を曲がる。ちょうど西日と真正面から対峙し、つい目を細める。家々の屋根や、垣根や、軒先の輪郭が薄ぼやけ、水彩絵の具のように光のなかに溶けている。

 声の主は赤白む太陽の中、地平線の陽炎の向こう側で微かに揺らめいている。

「あの、すみません」

 大きな太陽の中に浸かる人影は揺らめきながらこちらに振り返ったような気がした。

「すみません、道を伺いたいのですが」

 田舎の祖母に言葉遣いだけは丁寧にしておけと厳しくしつけられた甲斐があった。

 窮地を脱し、安堵すると人は意識散漫になるのだろう。迫り来る人影を見ているのにそれが何か理解するのに時間がかかった。

 小花柄のフレアスカート、コットンのブラウスと薄レモン色をしたカーディガン。そしてベージュのパンプス。

 私の着ている服と全く一緒だった。

 少し違うとするならば相手の衣服は所々ほつれ、煤け、薄汚れている上にずっと着古しているかのように色褪せている。ブラウスは何かをこぼしたのか胸元が酷く黄ばんでいるし、パンプスなんか、かかとが折れて変な音までしている。

 私は地に根を張ったように動けなくなった。その間も同じ格好をした人物はカタカタとパンプスを不規則に鳴らしながら迫ってくる。

「遘≫?ヲ窶ヲ?」

 まさかドッペルゲンガーではあるまいと暢気なことを頭の片隅で考えていた。しかし、その顔は私の想像とはまったく違った。

 まるで虫でも棲んでいるようなひどい虫食いが顔中に広がり、小さな空洞がひしめき合うように不規則に並んでいる。それは到底「顔」などと呼べるものではなかった。鼻や目は欠落し、いびつに空いた穴は恐らく口だろう。掠れた呼気が漏れ出ている。

 異形を目の前にして私はひきつった呼吸しかできなかった。

「縺ゥ縺?@縺ヲ?」

 異形が一歩、半ば崩れるように片足を出した。スコン、とパンプスの音が木霊する。今にも倒れ混みそうなのをぐっとこらえ、前屈しかけた異形は顔だけでこちらを仰ぎ見た。

 その瞬間、私は弾かれたように踵を返し駆け出す。蒸された空気が呼吸を浅くし、ひきつった声が喉の奥でキリキリと鳴っている。

 私のパンプスが地面を叩く規則的な音の後ろから、カタタ、カタン、と乱れた硬い音がついてくる。

「ついてこないで!」

「蠕?▲縺ヲ?」

 甲高い唸り声をあげながら追ってくる異形。振り返ると十五メートルほど先で髪を振り乱し追いかけて来る。酷くボロボロのパンプスは勿論、脚がほとんどまともに動いていないせいだろう。

 喉がひきつってまともな呼吸なんてできやしなかった。まとわりついた恐怖を振り払うように、なりふり構わず前へ前へと進み続けた。ここがどこだかなんて理解する暇なんてない。とにかくから離れなければ。

 後ろには手を振り回しながら歪な動きで追いかけて来る異形。気味の悪さに吐き気を覚える。しかし、先程よりも距離がとれていた。

 微かな希望の糸にすがり付くように、私は走り続けた。

 お願い、来ないで!

 そう祈りながら迎えた辻を左に曲がった。そこには民家の門扉と垣根の群れ。直ぐに路地に入り込むとコンクリートブロックでできたゴミ捨て場の影に隠れた。荒れる息を潜めるとどっと汗が吹き出してくる。五月蝿いくらいの心臓の音が身を震わせた。それだけじゃない。心の底から侵食してくる恐怖がギリギリと心臓を締め付けるのだ。

 ──カタタ、カタン、カタタ、カタン

 アレの足音が夕暮れの町に木霊する。

 気づけば顔は汗と涙でぐしょぐしょに崩れていた。しかし、それを拭う余裕はまったくなかった。

 異形の足音に細心の注意を払う。奴が近付いてきたら直ぐに逃げられるように。

「縺ゥ縺難シ」

 ぐちゃぐちゃと声とも音ともとらえられない声で何かを呟いている。それだけで恐怖が神経の中を走り抜けていく。

 震える吐息にキリキリとひきつる声が混ざる。なんとか気配を押し殺そうと背を丸め、できるだけ小さくなった。

 甲高く響く乾いた足音が辻を歩き回っている。なぜ私を追ってくるのだろう。そんなこと確かめようもなかった。

 それに私と同じ格好をしている。ストーカーという線も捨てがたいが、そもそもは人と言えるのか甚だ疑問だ。話している言葉も理解ができないし、日の沈まないこの町がそもそもの疑問だった。走り続けても似たような町並みが続き、太陽は地平線にとどまり続けている。辺りは蒸せ返るほど暑いのに、身体の芯は恐怖のせいで氷のように冷えきっていた。

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