番外編:想い出 1

◆◆◆◆◆


「美桜、おはよう」

低くて甘い声。

その声にゆっくりと瞼を開けると、漆黒の瞳が私をみつめていた。

「…おはよう…蓮さん…」

寝起きの掠れた声で答えると蓮さんは優しい笑みを浮べた。

それから大きな手が伸びてきて、無造作に撫でてくれる。

頭の上に温もりと心地いい重みを感じながら、私は瞼を擦った。


今日と明日は休日で学校はお休み。

私の休みに合わせて休暇を取ってくれている蓮さんもお休みの日。

だから、昨日の夜はちょっぴり夜更かしをして、蓮さんと一緒にDVDを観た。

…観たんだけど…その内容を途中までしか覚えてない。

…ってことは、どうやら私は途中で睡魔に負けて眠ってしまったらしい…。


「美桜。」

「うん?」

「もう起きるか?それとももう少し眠るか?」

蓮さんの問い掛けにベッドのサイドテーブルにある時計を見ると、10時を少しだけ過ぎていた。


…もう少しだけ温かいベッドの中でゴロゴロとしていたい気もするんだけど…。


身に付いた習慣とは恐ろしいもので…。

蓮さんと一緒に生活をして『飯ぐらいちゃんと喰え!!』って言われ続けているうちに、決まった時間になると自然とお腹が空くようになってしまった。

蓮さんと出逢う前は朝食なんて食べなかったのに…。

朝食どころか昼食だって夕食だって不規則にしか食べてなかったのに…。

今では、1日3食、きちんと食べていることに私自身が一番驚いていたりする。

そんな規則正しい食生活を送っている所為で、体重の増加が気になるような…ならないような…。

…とは言え、いつも朝食を食べる時間から数時間が過ぎている今日はいつも以上にお腹が空いていて…。

「…もう起きる。お腹空いた…」

私は空腹感に負けてしまった。

「よし、じゃあ飯でも喰うか?」

「うん。」

私は大きく頷いた。


「朝飯は米とパンどっちがいい?」

まるでお母さんみたいな質問。

こんな質問をする蓮さんを組の人やケンさんのチームの人が聞いたら驚くに違いない。

…とは言え、このマンションの部屋にいる時や2人きりの時は蓮さんはいつもこんな感じだ。


蓮さんと一緒に住み始めて半年以上が経った。

それだけの月日が経っても蓮さんの私に対する接し方は全くと言っていい程変わらない。

どんな時でも…。

なにをする時でも…。

いつも私の意志を一番に尊重してくれる。

私が優柔不断なことを知ってる蓮さんは、なにかを私が決めなければいけない時、選択肢を与えてくれる。

それは、私が必要以上に悩んだり、迷ったりしなくてもいいようにで…。

…たまに、その選択肢はどれもが選びにくいこともあるけど…。

それでも、前に比べると私は自分の意志や考えを主張できるようになってきた。

「う~ん。パンかな…。」

「分かった。」

頷いた蓮さんが先にベッドを出る。

その後からベッドを出た私は

「…寒っ…」

思わず呟いて身震いをした。

部屋の中は暖房が充分に効いていたけど、ベッドの中に比べるとやっぱり寒く感じた。

そんな私の肩にフワリと掛けられたのは、いつもパジャマの上に着ているガウンだった。

「…風邪ひくんじゃねーぞ」

素っ気無い口調とは正反対のさり気ない優しさに嬉しくなった私は

「うん!!」

心がふんわりと温かくなり、思わず笑みを零した。


◆◆◆◆◆


ベッドルームを蓮さんと一緒に出た私はまっすぐにトイレに行き、リビングのソファに腰を下ろすとタバコを銜え、火を点けた。

ここに住み始めて私の生活は大きく変わった。

夜、眠る事が怖くて昼夜逆の生活を送っていた私が今では毎日朝起きて学校に通に通うようになった。

制服に身を包み、友達と過ごす時間。

他人から見れば、それが当たり前の生活かもしれない。

だけど、私にとってみればそれは大きな変化だった。

『ただいま』と言える家があることも…。

時間が経つと“想い出”と言える日常があることも…。

一緒に過ごすことが苦痛なんかじゃなくて、心の底から楽しいと思える友達と過ごせることも…。

絶対に失いたくないと思うほど大切なモノがあることも…。愛しいと想える誰かがいることも…。

今まで想像すらしたことのない“未来【あす】を思い描ける事も…。

“生きている資格がない…”そう想っていた私が誰かに必要としてもらえるという喜びを知ることができたのも…。

私にとっては大きな変化に違いない。


そんな変化を私にもたらしてくれたのは…。

今、キッチンの対面式カウンターで鼻歌を口ずさみながら軽快に包丁の音を響かせているこの人だ。


私は灰皿でタバコを揉み消すとソファから腰を上げキッチンへと向かった。


「蓮さん、何かお手伝いすることある?」

「ん?」

蓮さんの視線が手元のまな板から私へと向けられる。

「なんか手伝うよ」

「そうか?…じゃあ、卵を割ってくれるか?」

「…卵…」

「あぁ」

蓮さんの言葉に私は固まった。

自慢じゃないけど、私は料理ができない。

苦手とかそんなレベルじゃなくて、全くできない。

きっと私は極度に不器用なんだと思う。

なんにでも、向き不向きがあると思うけど…。

どちらかに自分を部類分けするなら、私は明らかに後者だと思う。


…一応、手伝いを申し出たのは料理を手伝うって意味じゃなくて…。

使った調理器具洗ったりとか

必要なお皿を準備したりとか

パンを焼いたりとか

その程度のお手伝いをするつもりだったのに…。

卵を割るなんて私には責任が重過ぎる。


「…ちなみに割った卵は何に使うの?」

「ん?目玉焼き」

「…!!」

…ダメだ…。

…絶対に無理!!

「…美桜?」

「なに?」

「どうした?なんか顔色が悪いぞ」

「…」

「美桜?」

「…無理」

「なにが?」

「…目玉焼きに使う卵なんて私が割っていいはずがない…」

「はっ?」

「だって、蓮さんだって知ってるじゃん!!私が卵を割ったら、黄身はベチャって潰れちゃうし、殻の破片だってたくさん入っちゃうんだよ!!そんな卵で目玉焼きなんて作れるわけないじゃん!!」

過去に数回、私は蓮さんのお手伝いをしようと思って卵を割ったことがある。

その度に私は大惨事を引き起こしていた。

蓮さんに何度教えてもらっても、私は上手く卵を割ることができない。

パカって感じで上手に割る蓮さんに比べて、私は何度やってみてもグチャって感じで…。

それはもうどうみても割ってるんじゃなくて握り潰してるようにしかみえない。

そんな私が割った卵で目玉焼きなんて作れないことは安易に想像できるのに…。

なんで蓮さんはそんな重大任務を私なんかに任せようとするんだろう?

私は、不思議で仕方が無かった。

「美桜」

「な…なに?」

「大丈夫だ」

自信満々な感じの蓮さん。

だけど私にはその『大丈夫』の意味が全然分からない。

…っていうか、むしろ全く持って“大丈夫”なんかじゃないと思う。

それなのに蓮さんは、満面の笑顔でボールと卵を私に差し出してくる。

…結局、私はそのボールと卵を渋々と受け取るしかなかった。

受け取ったボールを自分の前の台に置き、私は深呼吸をした。

…なんか、すっごい緊張するんですけど…。

恐々と両手で卵を持った私は隣にいる蓮さんをチラッと視線を向けてみた。

「…」

蓮さんは手を止め、楽しそうな表情で私を見ていた。

どうやら、私が卵を割るのを待っているらしい。

助けてもらえない事を悟った私は諦めるしかなかった。

…仕方ない。頑張ってみよう…。

意を決した私は、割れやすくする為にボールの淵に卵をぶつけようとした。

私の緊張感は最高潮に達していた。

私が卵を持った手を高く振りかざした時、蓮さんが口を開いた。

「軽くだぞ」

「は?軽く?」

「そう、軽くだ」

そう言って蓮さんは振りかざしていた私の手を握り、そのままコツンとボールの淵に当てた。


いつもはこの時点で悲惨なことになってる卵が、今日はまだ私の手の中でその原形を留めている。

「…んで、そのひびが入ってるところに親指を当てて…」

蓮さんの言葉の通りにすると…。

「あっ!!できた!!」

ボールの中には全然崩れてない黄身と殻が入っていない白身、そして私の手の中にはキレイに真っ二つに割れた殻だけが残っていた。

「な?大丈夫だったろ?」

得意気な表情の蓮さん。

「うん!!」

そんな蓮さん以上に私は得意気な表情を浮べていたかもしれない。


◆◆◆◆◆

「…美味しい!!」

生まれて初めて自分で割った卵で蓮さんが作ってくれた目玉焼きを、私はいつも以上に美味しいと思った。

「良かったな」

感激する私を蓮さんはなんだか嬉しそうに見つめていた。


朝食を食べ終え、タバコを銜えると蓮さんは呆れたように溜息を吐いた。

「…?どうしたの?」

「お前もそれだけは止められないみたいだな」

「はっ?」

「それだよ、それ」

蓮さんが顎で指したのは、私の指に挟まれているモノだった。

今、火を点けたばかりの紫掛かった煙を発しているこれ。

…やばい…。

この展開は、久々の説教タイムかもしれない。

危険を察知した私は

「…」

無言で蓮さんに微笑みかけてみたけど…。

「…笑って誤魔化してんじゃねぇーよ」

その効果は全くと言っていいほどなかった。


これでも、蓮さんと知り合った当初に比べればタバコの本数はかなり減った方だと思うんだけど…。

まだ、完全に禁煙をすることはできていなかったりする。


「…目覚めの一服と食後の一服を止めるのは無理かもしれない…」

恐る恐る口を開いた私に、蓮さんは盛大な溜息を吐いた。


こうやって私に『タバコは止めろ』っていう蓮さんも最近ではその本数が減ってきているような気がしなくもない。

仕事中は分からないけど、私と一緒にいる時はあまりタバコを吸わなくなったと思う。

だからこそ、こうやって注意されるととてつもなく居心地が悪いんだけど…。


私にとってタバコは忌まわしいものなはず。

私の背中に残る傷跡は、母親にタバコの火を押し当てられてできた傷。

時間の経過と共に薄くなる事はあっても完全に消えることはない。

永久に消えない傷を刻み付けたタバコを私は止めることができないでいる。

それがなんでかは分からないけど…。

ただ1つだけ言えることは、このタバコの煙の香りが唯一の私の想い出だからかもしれない。

今、私が思い出せる幼い頃の記憶と言えば、母親に叩かれたりタバコの火を押し付けられた辛い記憶と母親がいつも吸っていたタバコの香りだけ。

辛い記憶はできれば思い出したくない。

だから、タバコの香りだけが私にとって唯一の想い出だと言えるのかもしれない。


「…美桜?」

「えっ?」

「どうした?ボンヤリして…」

「…あつ…なんでもない…なんか…」

「…?」

「食後のタバコはやっぱり美味しいなぁ…なんて…」

「…ったく、お前は人の話なんて全然聞いてねぇーだろ?」

「…えへ」

ニッコリと微笑んだ私に蓮さんは再び盛大な溜息を吐いた。


◆◆◆◆◆


「蓮さん」

「うん?」

「今日は何するの?」

「そうだな…お前は何かしたいことがないのか?」

「私?」

「あぁ」

「…私は…別にないかな…」

「そうか…じゃあ…」

その時、テーブルの上に置いてあった蓮さんのケイタイがなり響いた。

そのケイタイを手に取った蓮さんは液晶の画面を見て

「…チッ…」

小さな舌打ちをした。

…もしかして…。

電話の相手がなんとなく予想できた私に蓮さんは

「ちょっと悪ぃ…」

一言断ってから、鳴り響くケイタイのボタンを押し耳にあてた。


「…んだよ?」

開口一番、ダルそうな声を出した蓮さん。

そんな蓮さんを見て私の予想が確信に変わっていく。

『おっはよ~!!』

蓮さんのケイタイから漏れてきた声が私にもはっきりと聞こえた。

…やっぱり、間違いない…。

このテンションの高い声はケンさんだ。


ハイテンションのケンさんに蓮さんは大きな溜息を吐き

「何か用事か?」

面倒くさそうに尋ねた。

『んだよ?冷てぇーな。用事がねぇーと連絡しちゃいけねぇーのかよ!?』

「…」

『俺だって寂しい時があるんだよ』

「…寂しいなら葵に相手してもらえよ…」

『葵?』

「あぁ、葵なら面倒くせぇーてめぇの相手でもしてくれんだろーが」

『…てか、葵なら今俺の隣にいるんだけどな』

「それなら、なんで俺に連絡してきたんだ?」

『…』

「…?」

『…あれ?なんでだっけ?』

「…切るぞ」

『うぉい!!ちょっと待てぃ!!』

「…うっせぇなぁ…んだよ?」

『なぁ、蓮。飲み会しようぜ!!』

「飲み会?」

『そう、飲み会』

「いつだ?」

『今日の夜』

「誰が来るんだ?」

『もちろん俺が主役だ』

「…だれも主役が誰かなんて聞いてねぇーよ」

『…』

「お前以外の参加者は?」

『…葵とヒカルとアユ…』

それを聞いた蓮さんは、ケイタイを耳から少し離すと

「どうする?」

私に尋ねた。

…私の答えはもちろん…。

「行く!!」

私の答えを聞いた蓮さんは小さく頷くと再び耳に当てると

「あとで顔を出す」

とケンさんに告げた。


それから蓮さんはケンさんとちょっとだけ話をしてケイタイを閉じた。


「ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「飲み会ってどこでするの?」

「今回はケンの家みたいだ」

「ケンさんの家?」

「あぁ」

「…ふ~ん…あっ!!そう言えば…」

「どうした?」

「…私、ケンさんがどこに住んでるのか知らない…」

「は?」

「えっ?」

「行ったことなかったか?」

「うん、ない」

「そうか」

「うん」

「じゃあ、今日ビックリするぞ」

「ビックリ?」

「あぁ」

「なんで?」

「ケンの家はすっげぇデカイ」

「デカイ?」

「あぁ」

「蓮さんの家よりも?」

「俺の?」

「うん、綾さん達が住んでいるお家」

「あぁ、あれよりデカイ」

「は?」

「あ?」

「あの家よりデカイ家があるの!?」

「…そりゃ、あるだろ…」

「…!!」

「…?」

「…私、蓮さんのお家に初めて行った時も充分驚いたんだけど…」

「それなら、ケンの家を見たら失神するかもな」

「失神!?」

「心配すんな。そん時は俺が病院に運んでやる」

「病院!?」

「あぁ」

「…私、病院が大嫌いなんだけど…」

「あぁ、知ってる」

蓮さんは楽しそうに笑ってて…。

その瞳は悪戯っ子みたいに輝いていた。

そんな蓮さんの表情を見て私はやっと気付いた。

…私、またからかわれてる!?

「…ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「どこからが冗談なの?」

「冗談?」

「うん、また私をからかって楽しんでるんでしょ?」

「…からかって楽しむって…それじゃ、俺がかなり性格の悪い奴みてぇじゃねぇーか?」

「えっ?違うの?」

「あぁ、違う」

「…?」

「からかって楽しんでるんじゃなくて、これはコミュニケーションだ」

「…はい?」

「会話って大事だろ?」

「…まぁ、確かに…」

「だから俺はお前をからかって楽しんでるんじゃなくてコミュニケーションを取ってるんだ」

自信満々にそう言い放った蓮さん。

あまりにも自信満々過ぎて…。

その堂々とした態度に圧倒された私は

「そ…そう…」

としか言えなかった。

「…まぁ、それはいいとしてケンの家がデカイってのは本当だぞ」

「そうなの?」

「あぁ」

「ケンさんって実家に住んでるの?」

「あぁ」

「そうなんだ。…てかさ、ケンさんってお仕事とかしてるの?」

「仕事?」

「うん…あっ…でもチームの事とかあるからお仕事なんてする暇ないか…」

「いや、ケンは一応働いてるぞ」

「えっ?なんの仕事?あっ!!居酒屋さんでアルバイトとか?」

「弁護士事務所だけど」

「…」

「…」

「…はぁぁぁ!?」

…今、“弁護士事務所”って聞こえた気がするんだけど…

…もちろん、気の所為よね!?

もし、そうじゃなかったら…。

「…これもコミュニケーションなの?」

「あ?」

「…また、私をからかって楽しんでるんでしょ?」

「お前…俺の言葉を信じてねぇーのか?」

蓮さんは落ち込んだように肩を落とした。

そんな蓮さんを見た私はかなり焦った。

「だってあのケンさんが弁護士事務所で働いてるって…ケンさんは金髪なんだよ!!ピアスだってジャラジャラつけてるんだよ!!焼肉大好きなんだよ!!」

「…別に焼肉好きは関係なくねぇーか?」

「…うっ…」

こんな時でも冷静なツッコミができる蓮さんに私は絶句した。

「…親父さんの本業が弁護士なんだよ」

「親父さんってケンさんのお父さん?」

「あぁ」

「本業は弁護士って副業もしてるってこと?」

「副業っていうか…」

「…?」

「ケンの実家は昔から先祖代々大地主なんだよ」

「大地主?それって土地をたくさん持ってるってこと?」

「あぁ、今はケンのじいちゃんがまだ元気でそっちの管理をしてるから親父さんは弁護士の仕事に専念してるんだ」

「…そうなんだ…」

「別にケンが弁護士をしてる訳じゃなくて、親父さんの事務所で書類つくったり雑用を手伝ってるだけだ。」

「…なるほど…」

「まぁ、ケンもチームを引退するまでは忙しいから仕事だけに専念する事は難しいだろうしな」

「うん」

「それでも、全然働かねぇー訳にはいかねぇから親父さんの手伝いをしてるんだ」

「そっか…じゃあ、引退したらケンさんもおじいさんの家業を継ぐんだね」

「多分な」

「そうなんだ…でも…」

「うん?」

「ケンさんみたいな弁護士さんがいたら、それはそれでおもしろいかもしれないね」

「…だな。ケンが弁護士になってくれたら俺も助かるんだけどな」

「蓮さんが助かる?なんで?」

「ケンの親父さんはウチの組の顧問弁護士なんだよ」

「そうなの!?」

「あぁ、だからケンが弁護士になってくれたら俺が跡を継いだ後も色々と助けてもらえるんだけどな」

「…そうだね」

「まぁ、ケンがじいさんの跡を継いだとしても色々と助けてもらうことになるんだけどな」

「地主さんだから?」

「あぁ…っていうかなんかお前も俺の仕事のことが分かるようになってきたな」

「そうかな?」

「あぁ」

蓮さんは嬉しそうに頷いた。

「良かったね、蓮さん」

「なにが?」

「蓮さんとケンさんはずっと付き合っていけるね」

「ずっと?」

「うん、ケンさんがチームを引退しても今度は仕事上のパートナーとして付き合っていけるじゃん」

「…だな。ケンとの腐れ縁は切れねぇーな」

そう言った蓮さんはどことなく嬉しそうにも見えた。

「それでケンさんのお家はどこにあるの?」

「葵の家のすぐ近くなんだけど…その葵の家をお前は知らねぇーよな…」

「知ってるよ」

「は?」

「葵さんの家でしょ?」

「あぁ」

「私、葵さんの家なら知ってるよ。」

「知ってる?なんで?」

「…なんでって…だって行った事あるし…」

「それはいつの話だ?」

「ほら、アユちゃんと葵さんにグラタンの美味しいお店に連れて行ってもらったことがあったでしょ?」

「あぁ」

「あの時、葵さんの家に行って洋服を貸してもらったんだ」

「…」

「それにしてもあのお店のグラタン美味しかったなぁ。なんか思い出したら食べたくなっちゃった。今度、蓮さんも一緒に行こうね」

「…」

「蓮さん?」

「…」

「どうしたの?」

…あれ?

「…なるほどな」

…蓮さん?

「…」

…なんか顔が怖いんですけど!?

「お前はあの日学校をサボってそんなことをしてたのか」

…。

…。

…しまった!!

つい、うっかり暴露しちゃったけど…。

この話は思いっきり禁句だったんだ!!

「…」

「…」

自分のウッカリ加減に唖然としている私とそんな私を明らかに横目で見ている蓮さん。

…。

…。

…気まずい…。

気まず過ぎる。

一刻も早くこの沈黙をどうにかしないといけない。

そう思った私は

「れ…蓮さん!!なんかグラタンを食べたくないですか!?」

思いっきり敬語になりながらも会話を変えようとしてみた。

…だけど…。

私のそんな作戦に蓮さんが素直に嵌ってくれるはずなんてなく…。

「…」

相変わらず蓮さんは私を横目で見ていた。

…!!

…ヤバイ…。

すっごい見てる。

しかも、私の焦り顔を見て蓮さんは大きな溜息を吐いた。

それは本日一番の盛大な溜息だった。

…あっ…。

これはヤバイ。

ヤバすぎる!!

この空気は蓮さんが“アレ”変身する予兆に違いない。

不吉な予感を察知した私はゴクリと生唾を飲み込んだ。

いつもはとっても優しい蓮さん。

その優しさは、今まで他人に優しくされたという記憶がない私にとって申し訳なくなるくらいだったりする。

だけど、蓮さんはたまに“アレ”に変身してしまう。

“アレ”というのは…恐怖の閻魔大王様…。

蓮さんが変身してしまったら、私は何も言えないし、何もできない。

だから、蓮さんが変身してしまわないように私は細心の注意を払っているつもりだった。

…だけど、蓮さんの“閻魔大王スィッチ”を毎回入れてしまってるのはどうやら私らしい…。

その事実に私は最近気付いてしまった。

…ってことは、今回もきっと蓮さんのスィッチを入れてしまったのは私だということで…。

しかもそれは私のウッカリ発言が引き起こしてしまった事態らしい…。

「…えっと…その…あの…」

かなりのパニック状態に陥った私は、この状況をどうにかしようと試みてはみるけど…。

私の口から漏れるのは言葉にすらならないものばかりだった。

閻魔大王様に変身した蓮さんに睨まれている私。

それは例えるなら“蛇に睨まれた蛙”状態で…。

この状況にとてつもなく弱気になってしまった私の口からは自然と

「…すみませんでした…」

謝罪の言葉がでてしまった。

私が謝った瞬間、蓮さんの表情が少しだけ緩んだのが分かった。

「…ったく…」

呆れ果ててるような口調の蓮さん。

だけど、蓮さんが無言ではなく言葉を発してくれた事に私はほんの少しだけホッとした。

「今度から学校をサボる時はちゃんと俺に連絡してこいよ。お前は一体なんの為にケイタイを持ってるんだ?」

「はい?」

「あ?」

「…蓮さん、なにか間違ってない?」

「間違ってる?なにが?」

「…なにがって…蓮さんは私が学校をサボったことを怒ってるんじゃないの?」

「は?」

「…いや…だから、私が学校をサボって葵さんやアユちゃん達と繁華街で遊んでたことを怒ってるんだよね?」

そう尋ねた私を蓮さんがまっすぐに見つめている。

“こいつ、なにを言ってるんだ?”って表情で…。

…あれ?

…私、またなにか間違ってる?

ひたすら首を傾げていると

「半分正解だけど、半分は間違ってるな」

「えっ?」

「俺は別にお前が学校をサボって葵やアユと繁華街で遊んでいたことを怒ってる訳じゃねぇーよ。その時にお前が俺に対してあることをきちんとしてれば問題はなんもなかったんだ」

「…あること?」

「…お前…さっきの俺の話…また聞いてなかっただろ?」

「…話…なんだっけ?」

そう尋ねた私に蓮さんはまたしても盛大な溜息を吐いた。

「連絡だよ」

「連絡?」

「あぁ、もしあの時お前が俺に連絡さえしてれば別に俺は何も言う事はなかったんだ」

「…」

「だから、もし今度同じようなことがあれば連絡だけはちゃんとしろよ?」

「…」

「分かったな?」

「…」

「美桜?」

「…はっ?そっちなの?」

「あ?」

「蓮さんが怒ってたのは連絡をしなかったからなの!?」

「あぁ、そうだ。…っていうか、別に怒ってはねぇーよ。心配はしたけど…」

「…おかしい…」

「おかしい?」

「うん?普通は学校をサボって繁華街で遊んでたことを怒るんじゃないの?」

「まぁ、確かに学校をサボることはいいことじゃねぇーかもしれない。でも、お前にとって葵やアユと時間を共有して一緒に楽しむってことは決して悪い事じゃねぇ。むしろ、お前にはそんな時間も必要だ」

「…」

「それに、聖鈴に行ったのはそんな時間を作るためじゃないのか?」

「えっ?」

「親父との約束を忘れたのか?」

「…約束…」

「たくさん想い出を作れっていう約束だ」

「…あっ…」

「あの日、葵やアユと過ごした時間は楽しかったか?」

「うん」

「なら、それはお前にとっていい想い出になったんじゃねぇーか?」

「うん」

「…それなら俺が怒る必要なんてねぇーじゃん。それにお前が言う“普通”って言うのは何を基準にしてるんだ?」

「…なにって…なんだろう?」

「…」

「…う~ん…世間一般的にかな?」

「…俺が聞いてんのになんで疑問形なんだ?」

「…さぁ?」

「…」

「…」

「…」

「…」

「…まぁ、それはいいか…確かに世間の常識から考えれば俺の言ってることは間違いかもしれねぇ。だけど、俺は世間の常識の中では生きていけねぇんだ。だから、お前の言う“普通”は俺にとって“普通”じゃないことも多々ある」

「うん」

「なにが正しくてなにが間違っているか。結局最期に判断するのは他の誰でもない。自分自身なんだ」

「うん」

「だから、俺はあの日のお前の行動が間違っていたなんてこれぽっちも思ってねぇーし、怒ったりもしてねぇ…ただひとつだけ言うなら…」

「…?」

「…すっげぇ心配はした」

「…蓮さん…」

「…でも、それはお前達3人が悪いって訳じゃねぇ」

「…えっ?」

「…元はと言えばその原因を作ったのは俺達“男”だ」

「…それってどういう意味?」

その言葉の意味が理解できず首を傾げる私に蓮さんはフッと笑った。

それは言葉の意味が理解できない私を笑ったんじゃなくて…。

自嘲的な笑いだった。

「…蓮さん?」

「…お前達が危険に晒されるのは、結局俺達“男”の所為だ」

「…」

「俺達が選んだ道の結果の所為で何よりも大切にしたいと思う人まで危険に晒してしまうんだ」

「…」

「“友達と遊びたい”って思うのは決して悪いことなんかじゃない。だけどそれすらも許してやれないのは俺達の所為だ」

「…悪ぃな、美桜。不自由な思いをさせて…」

申し訳なさそうな蓮さんを見て私はようやく分かった。

蓮さんが言いたい事を…。

…もう少し早く私が蓮さんの言葉を理解できていたら…。蓮さんにこんなに辛そうな顔をさせなくて済んだかもしれない。

そう思うと胸が締め付けられるように痛くなった。

…だから私は口を開いた。

「…ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「別に私は今の生活を不自由だなんて思ったことはないよ」

「美桜?」

「それに私は後悔もしてない」

「後悔?」

「うん、この生活を選んだこと」

「…?」

「だって蓮さんの傍にいるって決めたのは私でしょ?」

「あぁ」

「そう決めた事を私は後悔なんてしてない」

「…」

「それにそう思っているのは私だけじゃないよ」

「…?」

「きっと葵さんやアユちゃんも今の生活に不満なんてないんじゃないかな」

「…」

「私は幸せだと思うよ。例え危険に晒される可能性があったとしても大切な人の傍にいれることは何よりも幸せだと思う」

「…」

「それに人から心配をしてもらえることも…」

「…美桜」

「だから、蓮さんは自分を1番に信じて選んだ道を進んでいって欲しい。きっとそれが私にとっても幸せだと思うから」

私の顔をまっすぐに見つめていた蓮さん。

不安や迷いの色を含んでいたその表情がフッと緩み、瞳が輝いたように見えた。

その表情は私が大好きな瞳。

いつも自信に満ち溢れてる漆黒の瞳。

見ているだけで吸い込まれそうになる漆黒の瞳。

この漆黒の瞳が私は大好き。

この漆黒の瞳を見ていると私まで強くなれるような気がするから…。

 

蓮さんにはいつも前を向いていて欲しい。

どんな時でも…。

なにがあっても…。

蓮さんの“自信”は私の“勇気”に繋がるから…。


テーブルの上に並んだ色違いのマグカップ。

そのマグカップから白い湯気がゆっくりと立ち昇っていた。


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