三本の線
深雪 了
三本の線
死のうと思った。
言葉にすればこんなにも簡単だけど、そう思うまでに様々な紆余曲折を経てきた。
こんなドロドロな心を抱えながら、何の為に生きているのか分からなくて・・・
そんな思いがいつも頭の中にあって、抱えきれなくなった。
思い悩んだ私が辿り着いたのは、自殺現場としてはそこそこ実績のある高い崖だった。見下ろすと下は海に面していて、絶えず荒い水しぶきを崖壁に打ち付けている。
これなら飛び込んでしまえば助かることはないだろう。
崖の淵の数メートル手前に立って、少しの間物思いに耽った。
真っ直ぐに立つ私の黒くて長い髪が強い風にあおられた。
そろそろ頃合いだろうか。
そう思った時、地面が何かに踏みつけられる音がした。振り返るとそこには青い乗用車が低速のスピードで現れて、私から少し離れた所で停止した。
「あれ、こんな所で人に会うとは」
車から降りて来たのは二十歳過ぎくらいの青年だった。茶色い髪に、派手なんだか渋いんだか分からない柄の入ったシャツを着ている、明るそうな青年だった。
それにしても、私だって彼と同じことを言いたいくらいだ。折角意を決してここまで来たのに、人が来るとは予定外だった。これでは計画が狂ってしまう。
「あ、あなたは・・・?」
警戒を隠しきれず震える声で私は尋ねた。突然のハプニングに心が追いつかず動揺していた。
そんな私を見た青年は、ドライブですよ、と簡単に答え、まばたきをして私を見た。
「お姉さんは、何してるんです?」
青年の問いにぎくりとしたが、私はなるべく平静を装って「観光です」と答えた。
私の返事に青年はへえ、と相槌を打ったが、何かを思案するように顎をさするとまじまじと私を見た。
「あのー、違ったら悪いんですけど、もしかして、自殺しようとしてます?」
やや間延びした、しかし慎重さも感じられる声音で青年は私に聞いた。
「えっ・・・・・・」
核心をついてくるとは思わなかったので、私の心臓は激しく鼓動した。ここはどう言い訳したらいいのだろう。とりあえず、質問を質問で返すことにした。
「どうして、そう思うんです・・・?」
青年は眠そうな目を細めた。
「まずここは自殺がそれなりに多い場所です。そんなところで、荷物も持たない、しかもワンピースなんていうアウトドアには適さない恰好で人がつっ立っていたら、それはそう見えますね」
「・・・・・・」
私は着てきたベージュのワンピースを見下ろした。死ぬ時くらい綺麗に死にたいと着てきたこの服が裏目に出るとは思っていなかった。
私の様子を見て、青年は自分の予想に確信を持ったようだった。
「お姉さん、せっかく綺麗なのに死んだら勿体ないですよ」
「・・・この世は顔では生きていけません」
諭すように話し掛ける青年に、私はうつむいたままきっぱりと言い放った。
「自殺で死ぬと死後の世界で苦労するって聞いたことが」
「死んだ後のことまで知りません」
頑なな私の態度に、青年はふーっと溜息をついた。このまま面倒になって帰ってもらえないだろうか。私はそう期待したが、青年は腕組みをしたまま動かなかった。
「じゃあ、お姉さん、僕とゲームしません?」
「ゲーム?」
私が鸚鵡返しに尋ねると、青年は「はい」と言って、近くに落ちていた木の枝を拾い上げた。
そして私が見守る中、私の数十センチ先の地面に横線を引いた。
その作業を、等間隔に二回繰り返す。私と崖の淵との間に三本の線が出来た。
「今から僕が、お姉さんに問題を出します。それに正解したら、一番最初の線まで進んでください。次も正解したら更に一本先の線まで。
それで最後の三本目の線まで辿り着けたら、お姉さんの勝ちです。僕はもう止めませんよ」
何よそれ、と正直思った。何で死のうとしている時にそんなことに付き合わないといけないのだろう。
そう思ったけれど、私はもう何もかもが面倒臭くなって、青年の言葉に従うことにした。仮に問題とやらに正解できなくても死ぬことはいつだってできる。
「分かったわ」
私が少し投げやりに答えると、青年はにっこりと笑った。「ノリが良くて助かります」
そして笑顔を崩さないまま、じゃあ早速第一問、と青年の口が動いた。
「ヒヨコの足は何本でしょう?」
「は?」
私は言葉に詰まって青年を見た。問題が簡単すぎる。
さっきまで私を止めようとしていたのだから、どんな難問が来るのかと思っていたのに、これはどういうことだろう。
本当は青年は人でなしで、私が死ぬところを見たいのだろうか。
「・・・二本」
「はい、正解です!じゃあどうぞ、一本分進んでください」
私は困惑したまま、一番手前の線まで進んだ。
「じゃあ、二問目いきますね。・・・千円札を全部百円玉に両替すると、百円玉は何枚になりますか?」
「10枚・・・。あの、馬鹿にしてるんですか?」
私はいよいよ不快になって青年に文句を言った。しかし青年はにこにことした顔を崩さない。
「問題が簡単な方がお姉さんにとって得なはずですよ。さあ、進んでください」
青年への不満が消えないまま、私は更に線を一本進んだ。死ぬまでに進む線はあと一本。私はだんだんと心臓の鼓動が早くなってくるのを感じた。
「では、これで最後ですね・・・。今の首相の名前、言えますか」
鼓動は鳴りやまない。
「〇〇総理・・・・・・」
私が青白い顔で答えを言うと、青年は拍手をした。
「お見事です!これで全問クリアです!では最後の線まで進んで、あとはお好きにしてください」
「・・・・・・」
私は青年に言われた通り最後の線まで踏み出した。ここからあともう一歩進めば死ぬことができる。
しかし覚悟していたはずだったのに、胸の内側はうるさく鳴動して、体には冷や汗をかいていた。あと一歩、一歩前に出るだけ——
「どうしたんです?問題は全部正解したんですから、いつでも死んでいいんですよ」
「————」
私はうつむいたまま動くことができなかった。
どうして。どうして。
もう人生に未練なんて無いと思っていたはずだったのに、どうして最後の一歩が踏み出せないんだろう。
「・・・・・・」
下を向いて固まっている私を見て、青年はぱん、ぱん、と手を叩いた。
「どうです、死ぬの、怖くなったでしょう?」
青年を振り返る。彼の穏やかな笑顔を見て、私は気づいた。やられた、と思った。
私が普通に止めても聞かないのを見て、彼は私が死ぬのが怖くなるようにけしかけたのだ。
簡単な課題を出して、半強制的に、しかし容易に死へと近付けさせる。
他人から強いられるから自分で覚悟することができない。
それなのに一歩を踏み出すための条件は簡単で。
他者からぽんぽんと背中を押されるように死へと近付けさせられる。
これでは死ぬ覚悟なんか出来るはずがない。そして改めて自分は死ぬのが怖かったのだと実感させられたのだ。
「ふふっ」
気が抜けた私は笑って、崖の淵から少し遠ざかると腰を下ろした。ベージュのワンピースは色が薄いから汚れるな、と思った。
「やってくれるじゃない」
近くに立つ青年を見上げた。まだ若いのに、こんな知能犯だったとは思わなかった。
「死ぬの諦めてくれました?」
「おかげさまでね」
私がそう言うと彼はふーっと溜息をついた。
「それは良かったです」
「でも最後の問題だけ少しレベルが上がったわよ。世の中には首相の名前を答えられない人だっているんだから」
私がにやりとして挑発すると、青年もくすっと笑った。
「お姉さんは答えられそうだと思いましたから」
そして青年は眼前を仰いだ。遠くを見るように手を額にかざしておっ、と声を漏らす。
「お姉さん、海、綺麗ですよ」
私も顔を上げる。
先ほどまで荒れていた海面は一変して静まり返っていて、つられるように私の気持ちも穏やかになる。
「・・・そうね」
そして微笑みを浮かべ青年に向き直った。
「ありがとう」
青年はどういたしまして、と笑顔で頬を掻いた。
そろそろ帰ろうと思い、立ち上がった。服についていた砂をできるだけ掃う。
そういえば、この青年はドライブと言っていたけれど、何でわざわざこんな通りづらい道を通ったのだろうか。私は停めてあった彼の車を振り返った。
四角いフォルムの青い自動車はともすると軽自動車かと間違われる程度の大きさで、新車なのか手入れが行き届いているのかだいぶ綺麗だった。
車内に目を走らせると後部座席の様子は見えなかったが、助手席に何かが置いてあるのが目に映った。
それは黄色や紫の色とりどりの花や緑の葉が鮮やかな、透明のフィルムに包まれた一つの花束だった。
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