エピローグ

最後に

    1


 柔らかい太陽光が降り注いでいる。景色は灰、茶、白などの地味な色合いで構成されている。空も重く感じる鉛色だ。それでいて乾燥した空気が遠景までくっきりと見せている。

 リリーが部屋で編み物をしていると、ドアがノックされた。

「はーい」

 中年の女が器を持って入ってくる。

「リリーちゃん、朝ごはん。ごめんね。こんなもので」

「ありがとうございます。助かってます」

 リリーはベッドを降りて朝食を受け取りに行く。器の中身はスープだ。農村では一般的な食事。細かい野菜と少ない雑穀が入っていることが多い。

「だいぶ体調が回復してきたね。ここに来た頃は顔色が悪くて心配したよ」

 リリーの肌は血色がよく、体調不良には見えない。ただし、手と足には布が巻かれている。

「おばさんのお陰よ」

 中年の女――ケリーは冗談っぽく胸を張る。その仕草にころころと笑い声が生まれた。


 リリーとムーンは城から逃れた後、しばらく近くの農村で世話になっていた。冷たい石牢に二日間閉じ込められていたリリーは軽い凍傷になっていた。そんな状態では森での暮らしは厳しい。身体が治るまで息子が一人立ちしたばかりで部屋が余っているという夫婦の家に転がり込むことになった。村中で少しずつ食材を出し合い、リリーの分を捻出している。その礼にリリーは薬草の相談に乗ることにした。凍傷はゆっくり身体を温めることで順調に回復し、牢屋を出た直後に動かせなかった手足は既にほとんど機能が戻ってきた。


「うひゃあああ」という外から情けないような男の悲鳴が聞こえた。ケリーとリリーは顔を見合わせる。

「またやっちゃったみたい……」

 外へ確認しに行くと、男とムーンがドアのすぐそばに立っていた。ペコペコと頭を下げる男のズボンには土埃がついている。

「すまん。すまん。ムーンさん」

「こちらこそ、すまない。驚かせた」

 ケリーは呆れた顔をして腰に手を当てた。

「あんたはもう……! 肝っ玉が小さいんだよ。いい加減になれなさいよ」

 バツが悪い顔をした男は外見からするとケリーより少し年上に見える。後頭部を掻きながら食料の入った袋を渡して帰っていった。

「またやっちゃったの?」

 リリーは眉根を寄せてムーンを見上げる。

「ああ。悪いことをしたな……」

 心なしかムーンの兜の角度が下向きになっていた。


 村でリリーの療養をしている間、ムーンは薪を割ったり、設備の修繕を手伝ったりして村に貢献していた。

 しかし、一つ困った問題ができた。前に増してリリーから離れないようになったのだ。用事がないときは、門番のようにドアの外に立って不審者がいないか見張る。人の気配がすれば、すぐに飛んでくる。

 ケリーの家を訪れる村民は突然目の前に現れるムーンにことごとく驚かせられた。毎日悲鳴が上がり、今の男で五十四人目だ。

 リリーが心配しすぎだとムーンを言い聞かせても、よほど誘拐されたときのことが心の傷になっているのか、ムーンの行動は治らない。元々は森で攻撃的な人間を見つける度に黙らせていたのだから、態度に出さなくても繊細なのかもしれない。最近生まれたリリーの悩みだった。

 ――大切に思ってくれるのは嬉しいけど、ずっと警戒を続けて疲れないのかな。


    2


 部屋は常に暖炉で温めて温石おんじゃくでリリーの身体を保温する。ムーンは薪を絶やさないようにしていた。

「もう帰っちゃうのかい。寂しくなるねえ」

 ケリーは残念そうに口をすぼめる。

「ずっとお世話になるわけにはいかないもの。それに家も心配だし」

 年が明けて一月になる。これから三月の半ばまでは寒い季節が続く。平民には厳しい季節だ。食料だって少ない。二日後には出発するつもりだった。

「リリーちゃんが教えてくれたセボリーと豆の和え物、美味しくて今年の冬は楽しく越せそうよ」

「役に立ててよかった」

 リリーはテーブルに寝室から持ってきた荷物を置く。色違いの手袋が二組。

「おじさんと使ってね。間に合ってよかった」

 部屋に籠りきりのリリーはリハビリも兼ねて夫婦へのお礼用に編み物をしていた。ケリーは「あら、嬉しい」と笑って手袋を試着して眺めていた。


 寝室に戻るリリーにムーンは後ろについて行きながら声をかける。

「動き回って大丈夫か?」

「今のうちに動いておかないと家で困るもの」

 そこまで言ってから、リリーの指が顎をとんとんと叩く。

「とは言っても、ハンス兄さんみたいに怪我の治りかけで動き回ると悪化しちゃうもんね」

 ハンスは計画の日に町で騒ぎを起こした。事前に打ち合わせた相手との乱闘騒ぎ――のはずだったが、全員に熱が入り過ぎて騒ぎが大きくなり、無関係の平民まで参加。そこへ警備兵も加わり、予定以上の事態になった。ハンスは最前線で警備兵と取っ組み合いをしたそうだ。お陰でそのすぐ後に寝込み、母親からこの冬は無断外出禁止を言い渡された。散々な目に遭ったが、山猫亭のカナリアがお見舞いに訪れることもあり、悪いことだけではないらしい。

 リリーは言葉を躊躇い、唇を小さく開閉してから切り出す。

「ムーンさん、これ……っ」

 胸元に抱えていたものをムーンに突き出す。防寒用に見えたそれは、一枚の長い毛糸の編み物。果てしない大海原のような紺に近い青色をしている。

「本当は年越しのときに渡そうと思ってたんだけど、間に合わなくて……。そもそもムーンさんには必要ないものかもしれないけど……」

 自信なさげに言葉が口の中で消えていく。たくさんの刺繍も入れるつもりでいたのに、年末の騒動で時間がなくなってしまった。張り切っていた分、リリーは落胆している。

 ムーンは編み物を受け取って広げた。二メートルほどある服飾品を見つめる。兜がわずかに右に倒れた。

「すまない。これは何に使うものだ?」

 リリーは驚いた顔をしてから小さな声を上げ、しどろもどろに説明をする。

「あっ! えっと、マフラー……首に巻くもので……」

「なるほど」

 外を歩く民衆たちの中で見たことがある。ムーンは相槌を打ってから首に巻きつける。二周してから余った端を背中に流した。

「こうか?」

「そう!」

 リリーから不安げな表情が消えて嬉しそうな笑顔が浮かぶ。

 常人からは見えないが、マフラーからは手をかけて作った気配がしている。ムーンは首に巻いたマフラーに触れて言った。

「使わせてもらう。ありがとう」


    3


 家を空けていたのは半月ほど。心配するほどに部屋は荒れていなかった。獣が侵入した形跡もない。動物たちが活動しなくなる冬だったことが不幸中の幸いだったのかもしれない。日が高いうちに籠った空気を入れ換え、軽く掃き掃除するだけで元通りになった。残念ながら取っておいたパンなど一部の食料は無駄になってしまった。

 シーツを干しつつ、畑の様子を見る。先月植えた大根やカブなどがある。侵入している雑草をリリーは引き抜いた。数少ない冬の食料だから大切にしなければならない。

「大丈夫か?」

 ムーンは円筒形の容器を一つ持って木立から現れた。川に沈めていた保存用の肉だ。身体を回復させるための栄養になる。

「大丈夫よ。ありがとう」

 家に戻ってからムーンの心配癖は少し和らいだものの、リリーが動く度に後ろからついて回る。まるで生まれたての雛鳥のようだった。大きさの違いは比べるまでもない。

「ここが終わったら、お茶にしようかな」

「そうするといい。部屋を温めて置こう」

 農村で年越しをしたときは賑やかだった。森の家に戻ると人の声がしない。その代わり、風の鳴る音、小動物の鳴き声、葉が揺れる音、鳥の羽ばたき――微かな自然の音が鮮明に耳へ届く。人によってはわびしく感じるものかもしれない。しかし、森に住む二人は苦にもならない。彼女と彼は、二人で寄り添っている限り孤独ではない。


(――了)

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