行く春3

 里枝子のあとについて教室を出ていった。無言で光のない廊下を歩く。

 真生は、自分にリボンをねだった下級生のことを思い出していた。

 彼女たちが騒ぎ立てるのを嬉しいと思う反面、複雑な思いで眺めていた。彼女たちは身近に憧れる対象を求めている。けっして真生の内面に興味をもっているわけではない。だから真生もリボンをあげる気になれた。さして深刻な思いではないから、容易に応えることができた。

「中庭のイチョウに、ヒバリの巣があったよね」

 廊下の窓からのぞく樹影に、里枝子は目をむけた。

「毎年巣を架けてたけど、来年からはもう、なくなるかな」

 ヒバリ。壊される校舎とともに消えるヒバリの巣。真生はふいに怒りを覚えた。里枝子は故意に核心へ触れるのを避けている。

「どうして電話、くれなかったの?」

 微妙に離れた位置で、里枝子がふりかえった。

「どうして今さら呼び出したりしたの?ほかにも言いたいことがあるんじゃないの?」

 里枝子は凍りついたように動かなかった。

「卒業式の前日に言われたって、どうしたらいいのかわかんないよ!」

 叫び声が廊下に反響する。怒りが去ると、自分がひどく見当違いなことを言っているような気分になった。

「リボンのこと、本気で言ってたの?」

 里枝子はうつむいて、しばらく何も言わなかった。真生は焦る思いを抑えつけながら里枝子の答えを待った。

「最後まで言うつもりなかったんだけどね、本当は」

 押し殺した声で呟くと、里枝子は首をかたむけた。

「聞かなかったことにして、って言ったら、虫がいいかな」

「良すぎる」

 里枝子が穏やかになればなるほど、真生の苛立ちはつのっていく。

「春休みのあいだ、何度も電話したのに。冗談ならこんなに連絡が取れないはずはないって思ってたのに」

 宙吊りの問いは、抜けない棘のように真生の脳裏に残っていた。

「何を考えてたの、私にどうしてほしかった?本当にリボンが欲しかったの?」

 里枝子の肩がかすかに震えた。

 真生は静かに溜息をついた。一ヶ月間繰り返した問いの、それが答えだった。里枝子からむりやり引きずり出した――

「最後まで隠しておけると思ってた。今までずっと、そうしてきたから」

 里枝子は声を低めて言った。

「でも、あのときだけは――腹が立って。真生はどうしてわかってくれないんだろうって、思って。馬鹿だよね、隠してきたのは自分のほうなのに」

 悲しげな声がかすれて消える。下級生とは意味合いの違う告白が、真生に重くまとわりつく。嫌悪感とともに、罪悪感を感じた。これだけ近くにいたのに、里枝子の思いに気づくことはなかった。里枝子のことなど見ていなかった。

「ごめんね」

 里枝子は罪人のようにうなだれていた。

「軽蔑されたと思ってた。このまま連絡しなければ忘れられると思ったのに、そうするのが自分でも嫌だったの。矛盾してる」

 真生はようやく里枝子も戸惑っていたのだということに気づいた。一ヶ月間、自分と同じように、あるいは自分よりも深く、里枝子は考えつづけていたのだ。

 真生は里枝子の肩に手を置こうとした。が、意外な強さでその手を払われる。

「触らないで」

 悲痛な声だった。

「お願いだから、触らないで」

「怖いの?」

 真生が詰め寄る。里枝子が壁際へ後ずさる。

「私が怖いの?」

 里枝子ははじめから逃げようとしている。自分でも整理できない思いを真生に押しつけて。

「自分からは何も聞こうとしなかったくせに、逃げないでよ。あなたは私のことが好きなの?」

 怯えるように、里枝子の肩が揺れる。

「それとも自分が傷つくのが怖いの?」

 真生は挑みかかるように里枝子に顔を近づけた。

 里枝子はうつむいて、顔を手のひらに埋めた。里枝子の背後で、イチョウの枝の影が波立つように揺れる。

 重い沈黙のなかで、窓枠のきしむ音が暗い廊下に響いた。苦しくなって、真生は喘ぐように大きく息を吸った。

「――好きだった。ずっと」

 喉を捻られたような、かすれた声だった。

「ずっと一緒にいたかった。受験、落ちたらいいなって思ってた。そうしたらここにいられるのに」

 空気が粘り着くように重い。言葉が、重い。

「おかしいよね、あんなに頑張ったのに、親を見返すためにすごく頑張ったのに。なに馬鹿なこと言ってるんだろう、馬鹿みたい――」

 手で覆った口元から、しゃくりあげるような息が洩れた。里枝子が泣くなんて想像もつかなかった。

「ごめんね」

 里枝子が肩をふるわせて呟いた。何度も。崩れるように壁際に座り込む。真生は胸苦しくなってコートの襟元をつかんだ。

 女子校に三年もいたから、疑似恋愛に陥っているだけだと、真生は思っていた。自分を慕ってくれた下級生のように、学校を出たら自分のことなどきっと忘れてしまうだろう。絶望したように告げられた言葉を聞いて、真生は胸を殴りつけられたように苦しくなった。里枝子の思いが、水が浸透するように伝わってくる。

 どうして里枝子は自分を好きになったのだろう。ここまで思いつめるほどに。

 里枝子から向けられた思いが重すぎて、怖くなった。同時に、何もわからなかった、正しくて残酷な自分に、腹が立った。

 里枝子に告げたかった親友という言葉すら、おそらくは無意味だった。真生は里枝子に覆いかぶさるように座り込んだ。里枝子の髪を指に絡め取るようにして、頭を抱く。

 里枝子が硬い動作で顔を上げた。その顔に唇を近づける。喉がつかえているように苦しくて、こうすれば、呼吸がすこし楽になるような気がした。

「死んだ女よりも」

 互いの吐息が感じられるほど近くなったときに、里枝子が囁いた。

「もっと哀れな女は?」

 真生は動きを止めた。里枝子の真意を計りかねて、戸惑う。

 里枝子は邪険に真生の腕を払うと、真生を押しのけて立ちあがった。

「触らないで」

「里枝子」

「私に同情しないで!」

 喉元に刃を突きつけるようなきつい調子だった。真生は叱られた子供のように身体をすくませた。ダッフルコートの襟元に唇を忍びこませようとする自分の姿を想像して、ぞっとする。いったい何をしようとしていたのだろう――身体から力が抜ける。座り込む。

 里枝子を哀れんで、キスをしようとしていたのか。真生を頭を押さえた。取り憑かれたように、魅入られるように真生は唇を近づけた。まるでそこにしか空気が存在していないように。

 見えない表情をさぐるように、真生は里枝子を見上げた。

「ごめんね」

 廊下に座り込んだ真生に手を貸すと、里枝子はさきほどの激しさからは想像もつかないような穏やかさで言った。

「今日はこれから雨が降るから、早く帰ったほうがいいよ。傘、持ってないでしょう」

「雨――?」

 天気予報ではそんなことは何も言っていなかった。問い返すと、里枝子は雨の匂いがする、と言った。

「空気がひんやりして、濡れたような感じがする。私は鍵をかけて帰るから、先に行ってくれる?」

 真生は里枝子と一緒に帰りたかったが、言葉には有無を言わさぬ響きがあった。結局、里枝子に何の返事も返さないまま、真生は里枝子に別れを告げた。

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