行く春

千住白

行く春1

夜桜見物 於 水之江高校三年C組教室

日時 四月一日 二十時

集合場所 校門 バス停前


 紀田真生は手紙の文面を睨みつけると、便せんをグレーのコートのポケットに入れた。

 あと一時間で、約束の八時になる。真生は自分の部屋を出ていこうとして、ふと何かに惹かれたようにふりかえった。

 部屋の長押に吊ってあるグレーのブレザーの制服に目を向ける。制服の胸を飾るピンク色のリボンを見て、これから会いにいく友人のことを思いだす。

 三月に卒業式を迎えて以来、どんなに電話しても一度も連絡をよこさなかった友人。岩波里枝子。

 里枝子はこの春から東京の私立の美術大学へ通うことになっている。地元の大学に早々に受かった真生からみれば、羨ましい東京組のひとりだが、里枝子は合格通知をうけとってから、どことなく沈んでいるような感じがあった。

 里枝子の言葉がなければ、制服のリボンはここにはなかったはずだ。真生は歪む口元を手で覆った。桜の花びらに似た、淡いピンク色のリボンを、真生は三人の下級生にねだられた。女子校である水之江高校では、憧れの先輩のリボンを貰うのが卒業式の風物詩になっている。

 真生は部屋を出ると、薄暗い階段を降りていった。足取りが重い。二日前に届いた手紙は、一方的に用件だけを真生につきつける。

 この手紙がエープリル・フールであればいいと思った。が、里枝子は約束を忘れる人間でも破る人間でもない。会うのが怖いのに、里枝子からの誘いを断れない、そんな自分が嫌になる。

 真生は母親に出かける旨を告げると、すでに残照の気配の消えた外へ出ていった。


 


 卒業式の一日前。真生は、ホームルームが終わってからいなくなった里枝子を探しに、美術準備室を訪れた。

 大学に受かってから、里枝子のようすは微妙におかしかった。倍率の高い美大の難関を突破したというのに、受かったあとのほうが神経が高ぶっているようだった。

 美術準備室のドアをあけると、油絵の具の匂いが鼻についた。衝立のように視界を阻むキャンバスやイーゼルの森のなかに、グレーの制服の背中が見える。

 長い髪が躍って、岩波里枝子がふりかえった。浅黒い肌に、炯々とした黒い瞳。里枝子には八月の木々の緑のようなイメージがあった。朽ちて葉を落とす寸前の、狂ったように茂る八月の緑。里枝子は真生の姿をみとめると、安らいだように目をほそめた。

「どうやって持って帰ろうかな、これ」

 真生はイーゼルに立てかけられた一枚の絵のまえに立った。里枝子が描いたアクリル画で、カラーの花束を抱く横顔の少女は、真生だった。

 絵の基調は灰色がかった淡い虹色で、紗のようなうすい膜が、螺旋をえがいて画面全体を覆っていた。浮き出たアンモナイトの化石のようにも見える。里枝子はいつも多重露光の写真のような絵を描いていた。元の絵を透かすようにもう一度色をのせる、細緻な描き方だった。

「親に車出してもらったほうがいいかな……」

 里枝子は口元を覆って呟いた。真生がうなずくと、里枝子はとくに持って帰りたくもないんだけど、とそっけない返事をかえした。

「昔の絵なんて見るのも嫌。下手すぎる」

「私はそうは思えないけど」

「描き上げたときはやった!と思うんだけど、あとで見たら全然だめ。満足する絵なんて一度も描いたことがない」

 里枝子がこの絵は、と横顔の少女を指さした。

「ローランサンの絵みたいでちょっと嫌だな」

 真生はローランサンという画家の絵を知らない。が、真生をモデルにしたこの絵は、自分がすこし幼すぎると思っていた。甘ったるい顔立ちをひきしめるために髪型をワンレングスに変えたのに、絵のなかではミルク色の額がさらに子供っぽさを際だたせている。

「『追われた女よりももっと哀れなのは死んだ女です』」

 里枝子が視線をさまよわせる。

「『死んだ女よりももっと哀れなのは――』」

「何?」

「ローランサンの詩」

 里枝子はしばらくこめかみを押さえて考えこんでいたが、先の詩句は出てこなかった。

「そういえば、真生は誰にリボンをやるの?」

 里枝子は急に話題を変えた。

「そんなこと、決められないよ。欲しいっていわれたらあげようと思うけど」

「希望者が何人もいたらどうする?」

 真生がそういう場面を苦手に思っているのを知りながら、里枝子は追い打ちをかけてくる。

「いっそのこと購買部で予備を買っておいたら?みんなに行き渡るように」

「相手に悪いよそんなの」

 不機嫌になる真生に、里枝子は黙って腕を組んだ。指がリズムを刻んでいる。機嫌が悪いときの里枝子の癖だ。

「誰でもいいんでしょ?それこそ、相手に失礼だよ」

 里枝子の指が、空を強くはじいて止まる。

「いっそのことそのリボン」

 投げ出すような口調で。

「私にちょうだい」

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