39 竜殺し
青空を裂くようにワイバーンは飛ぶ。
立ちのぼる黒煙を背後に残し、辺境の森の上をまっすぐに飛んでいく。
「まさか本当に勝ってしまうとはの」
木像に戻ったヨルがしみじみと言い、「うん、」とネイは言葉をためらう。
「……いや。母を慮っておるなら無用じゃよ。ぬしと同じじゃ。あの
言いながらもヨルの声は暗かった。
選んだ道が誰かの道とぶつかった時に取り得るのは、一方が道を歩き続けるか、あるいはどちらも歩みを止めるかだ。ネイは自分が先に進むためにオロトエウスを殺した。選択に後悔はない。そうすべきだったと思う。
だが――こんなにも空しいものか。
逆巻く風の音をネイは聞く。底抜けに青い空の下で燃え広がる森を思う。すべては灰になった。死とは、途切れた道とは、これほどに何も残さないものなのか。
その時、「でも」と言う声があった。タニシャだった。
「でも、わたしには最後の時、オロトエウス様が嬉しそうに見えました」
タニシャの声は木を思わせた。踏みにじられ、焼き払われた土地に、それでも根付いた若木。タニシャが言う「信じるもの」とはきっと、そんなふうに
「そうじゃな。ああ、そうじゃ……」ネイの肩に止まったヨルが何度も頷く。「タニシャ、ぬしの言うとおりじゃな。あやつは満足しておった。ネイ、おぬしの名を聞くことができて」
くすりとヨルが笑った。母子の間に流れた永い時とつながりを思わせる声だった。
「本当に、……馬鹿な
「まったくだ」ナザレが言った。「お前のお陰で、全員無事に法院のお尋ね者だ」
揶揄めいた台詞とは裏腹に、その声にも笑いが混じる。
「わたしは『巨人還り』です!」
突然、タニシャが叫ぶ。くすくす笑いがそれに続く。
それにつられるようにナザレも笑った。初めて聞く笑い声だった。
「私は裏切り者の『敬虔』だ!」
風の音に負けないような大声。ネイも笑いながら叫ぶ。
「じゃあ私は……国崩しの〈殺竜〉!」
ヨルがいぶかしげな声でうなった。
「なぜ母がお尋ね者にならねばならんのじゃ」
残りの三人は腹を抱えてゲラゲラ笑った。法院が血眼になって探しているはずの当人は、まったくその自覚がなく、けれどそれでこそ、ネイのよく知るヨルだった。
「そうだな……」ネイは笑いをこらえながら答える。「うちの玄関扉を壊したからだね」
「それは謝ったじゃろ……!」
「いや、謝ってはないでしょ」
ネイは、三番目を選ぶ。共に歩いていくという道を。
*
《お前に看取られるとは、わたしも無様を晒した。ここまで己が生き穢いとは、死ぬる時まで、わからぬものだ。ああ、母上もそうであったか……》
逆巻く炎の中で竜は白濁した目を開き、うわ言のように話した。竜の言葉に舌も咽も要らない。それらが燃え尽きても、竜は末期の瞬間まで意志を残す。
「其は死なぬ」
彼の傍らで声が発される。
白い布に一点落とされた暗闇のような声。
《そうだろうな。お前が齎すのは、死よりもはるかに穢らわしい汚辱だ》
「拒むか」
声は尋ねる。
《否――受け容れよう。それが大逆に与えられる報いならば》
声が頷く気配があった。声を中心として、暗い、死の予兆、墓土の匂いのようなものがあたりにじわじわと広がっていった。森の木々を薪として燃え盛る炎ですら、刹那、畏怖したように静まった。
静寂に、どくりと、最後の心音がひびいた。
それから声は言った。
「ならば告げよ――」
竜の巨体が身じろぎをする。緩慢な動作で起き上がる。焦げた鱗が剥がれ落ち、その下から凝血色の竜鱗が現れる。白濁した目は生の輝き、否――その暗がりを映して底なしに深く、まなじりの縁からは、黒ずんだ血が筋をつくって流れ落ちる。
《ならば名乗ろう――》
開かれた口から真っ黒な血があふれた。牙の合間からしたたって、焦げた大地を穢した。
《我が名はオロトエウス。天の炉の燃え朽ちてなお残る血痕――〈虚血死灰〉のオロトエウス》
冥府の底からひびく声で、竜は声に向かって咆哮した。
《我を使ってみせよ。悍ましき輪廻の蛇よ!》
声は沈黙でそれに応じた。
炎が、それらすべてを隠した。
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