37 〈大地母竜〉ヨルネル

 そこにヨルが割り込んだ。

《ここは引き受ける。ぬしらは疾く逃げよ》

〈解放戦線〉の男たちが顔を見合わせた。今この場で口を開ける者がいるということが、理解できなかったのだろう。ネイもそうだった。オロトエウスが呆れたような声音で言う。

《母上、戯れはよしてもらおう。彼我の戦力差もお分かりにならないか》

「……ヨル」

「安心せい。作戦通りにやればいいんじゃ」

「作戦なんかないだろうが!」

 吼えるナザレ。たしかに、オロトエウスが真の力を見せたことで、事前に考えていた作戦はほとんどが白紙になってしまった。

 ガハハとヨルは笑う。

「そうじゃなあ――作戦はこれからぬしらが考えるんじゃ」

「そんな時間がどこに――」

「……それまでは、母がやろう」

 言うや否や、ヨルが金の光を吐いた。息吹ブレスではない――光の中からは無数の羽ばたきが聞こえてくる。金の光が徐々に凝縮していくと、極彩色の鳥の群れが忽然とそこに現れた。

 おそらく数は――数万羽。

鸚鵡カカチュア……」

 目の前で起こった『生命創造クリエイト』の奇跡にタニシャが息を飲む。群れが赤い竜の視界を塞ぐ。

《くだらぬ目眩ましが!》

 轟く業火。鸚鵡カカチュアの群れは炎に飛び込む寸前で二手に分かれ、オロトエウスの頭上に渦巻いた。竜が首をめぐらす前にはばたきの音色が変わる。羽音が縮んでいる。

 ――蜂だ。鳥たちが蜂群へと姿を変えた。数万の鸚鵡カカチュア一羽ごとに数千匹の蜂が生まれたことで、上空は霧のごとくかげった。大群が球を形作ると、ネイたちからも竜が視認できなくなり、腹に響くブウウ――ンという羽音だけが聴覚を埋めつくした。

 億万の羽音が竜の鱗を逆撫で、オロトエウスが苛立ちに吼える。息吹ブレスと『熱血』の線条が群れを貫くものの、これほどの数を前にしては、大河に石を投げるのと変わらない。

《何をしておる。今じゃ。早く行け!》

 戸惑う〈解放戦線〉の亜竜たちをヨルが叱咤した。彼らが弾かれたように飛び立つのと、蜂の群れからオロトエウスが飛び出すのは同時だった。竜の飛翔速度に蜂では追いつけないのだ。

 全身から血を噴き上げる〈燼灰〉の息吹ブレスが一閃し、亜竜の一頭が墜ちた。

 オロトエウスが次を構えたところで、死角に回り込んでいたヨルが、その頭を尾で横ざまに殴りつけた。息吹ブレスはあらぬ方向に逸れる。竜が怒りに頭を振り向けた時には、こちらは射程を離脱しており、次にオロトエウスを取り囲んでいるのは蝙蝠の大群だ。

 キイキイと声を立てる蝙蝠の飛行速度はオロトエウスのそれを超え、簡単には包囲を抜けさせない。赫怒の咆哮と共に、白光と赤血が群れを割り、そのたび灰の雨が散った。

 ネイは亜竜たちが戦域を離脱したことを確かめる。

 嵐のような蝗の群れ。魚が宙を飛び跳ね、青く輝く羽根をもった蝶がひらめく。金色の光――ヨルの『生命創造クリエイト』が紡ぎ出す、変幻する生命のまたたきが、多様な様相でもって怒れる竜を翻弄する。それでもオロトエウスの絶え間なく放つ熱量は、着実にその規模を削っていく。

「〈燼灰〉の野郎。底なしか……」

 ホバリングするヨルの背でナザレがぼやいた。

 彼女の驚嘆も無理はなかった。戦闘が始まってからこちら、周囲の気温を数度上げるほどの熱量を吐き出しておきながら、オロトエウスの魔素と血は、依然尽きる気配がないのだ。それどころか増大しているようにさえ思えた。

 まさに旭日そのもの。無尽蔵の熱を放射し続ける竜を前に、ネイは額の汗をぬぐった。

 一方で、ヨルの魔力には限界がある。いくら〈大地母竜〉といえど、今のヨルは魂だけの存在でしかなく、あくまでその肉体はトロットリード――亜竜のものなのだ。均衡が破られる瞬間はそう遠くはないはずだった。

「母が間違っておった」

 唐突にヨルが言った。たとえ〈完全言語〉でなくとも感情が伝わる声音。

 それは悔悟だった。

「母は自分に言い聞かせてきた。母はすべてのの母じゃ。じゃから、すべてのに平等にあるべきだと。それが〈大地母竜〉だと。しかし記憶を取り戻して――いや、そうではないか――ネイに頬を打たれてよくわかった。母はもう、かつての〈大地母竜〉とは違うのだと。肉体を失い、魂を奪われ、ふたたび生を得てより千年、とっくにそうだったんじゃよ」

 燃え落ちていく鳥たち。ヨルは『生命創造クリエイト』で〈燼灰〉を押さえ込みながら続けた。

「じゃから……母は〈大地母竜〉ではなく、この地に生きるひとつの命として不平等に願う。生きていてほしい。生きていてほしかった。母が出会った者たちに。タニシャ、おぬしもだ」

「わたし……」

 ネイは手の甲に滴が落ちるのを感じて、腕にそっと力を込める。

「――ナンシー、ミケーラ、ロナン。レニーにリニー。アイリー。ザイルにグクマッツも、ルマンだってそうじゃ。シアーシャ。ナザレ。ネイ。名を知らぬ者たちも。できるなら……」

 途切れたヨルの言葉の続きがネイにはわかる気がした。

 善悪も好悪も超えて、出会ったすべての者に生きていて欲しいと願ってしまう。それはやはり超越者の心性で、ただの人間のそれとは違うものだ。ヨルはどうしたって〈大地母竜〉ヨルネルであり、けれど今、そこから始めて、別の場所へと歩き出そうとしている。

「いいんだヨル。殴ってごめん。私もアンタに、生きていてほしい」

「……作戦は出来たのか。竜狩り」

 いつも通り優しくないナザレの物言いに今は頼もしさすら覚える。ネイは計画を告げる。

「――大それたことを言うのう」

「できないの?」

「〈大地母竜〉を侮るでないぞ」

 均衡が崩れたのはその時だった。全身から血と炎を光背のように噴き上げながら、『生命創造クリエイト』が紡ぎ出す変幻自在の檻をオロトエウスが抜け出てきた。熱そのものの化身となった、赤い竜が猛々しく咆哮する。

 刹那、二頭の竜が睨み合う。

 対峙するのは、母と、その不肖の息子。

「……オロトエウス」

 つぶやいて、ヨルは翼を打った。

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