太陽に最も近い場所

硯哀爾

第1話

 がリンツェンの住まう村を訪れた日は、特別な予兆などこれっぽっちもなく、彼一人を除いては変わったところのない、何処にでもありそうな一日だった。

 彼を真っ先に見つけたのは自分だったのではないかと、リンツェンは思う。

 まだ若いヤクを草原に放していた彼女は、ふと頬が痒くなって視線を移ろわせた。その先に、彼がいた。

 一目で、この辺りの者ではないとわかった。外套についた頭巾を深々と被り、一歩一歩、踏みしめるように歩みを進めていた。細身だが、その足取りはびっくりする程確かで、ある程度山慣れしているか、もともと丈夫な足腰をしていることが見ただけで理解できた。ポェの民が住まうは、峻険なる山々に囲まれた高き土地である。生半可な体では、上がってくることなどままならない。

 無言で歩いてくるその人物を、リンツェンはしばらく黙って見つめていた。あまりにもじっと凝視していたからか、やがて旅人と思わしき人物はゆるりと顔を上げて、リンツェンに視点を定める。


「この辺りの者か」


 中性的な声だった。男とも女ともつかぬ、不思議な声色である。

 しかし、何となくだが、リンツェンはその人物を男性だと思った。村の女よりも背が高く、そして一人旅をする程しっかりした肉体を有していることが予想できたから、反射的に力仕事を担う男を想起したのであろう。少なくとも、女の身である自分には、遠出する程の体力や気力はない。故に、リンツェンはこれから謎めいたこの旅人のことを『彼』と思う。

 彼の問いかけに、リンツェンはこくんとうなずいた。衣服の裾をもうとする子ヤクをいなしてから、一歩、彼に近付く。


「あなたは、旅をしているの?」


 宿が必要なのか、という意味を込めて問う。彼はああ、と首肯して、リンツェンの真正面までやって来た。


「太陽に最も近い場所を目指している。俺は其処に行かねばならない」

「太陽に最も近い場所……って、お山に登るつもり?」

「ああ」

「一人で?」


 また、同じように首肯される。リンツェンはふうん、と相槌を打ちつつ、旅人を観察した。

 頭巾のせいで全容ははっきりとしないが、恐らく非常に整った顔立ちをしている。柔らかそうな口元に、すっと通った鼻梁。日に焼けている者が多いリンツェンの周囲には見当たらない、健康的だが白い肌をしていた。世の中には彼よりも肌の白い者などもっといるのかもしれないが、少なくともリンツェンにとって彼は驚く程色白に見えた。

 しかし、彼の目指すところは太陽に最も近い場所だという。ならば村からもよく見える高嶺に登ろうとしているのだろう。


「やめておいた方がいいよ」


 彼の意気込みを否定するのは申し訳ないと思ったが、リンツェンは忠告せずにはいられなかった。道程として村を通っていくなら良いが、聳え立つ山嶺に挑むなど危険が過ぎる。

 旅人は少し首をかしげて、何故、と尋ねた。ごく自然に、意味がわからない、というような素振りだった。


「だって危ないもん。それに、神様が住まう山もある。神様の怒りに触れたら、ろくなことにならないよ」


 山は神そのものである。リンツェンは村の古老から、そう語り聞かされてきた。お祈りをする時は、とりわけ大きく高い山に向かって五体を投げ出した。見上げた先にある山々の名前を全て覚えている訳ではないけれど、いずれ至るべき浄土の化身なのだとは、日頃から口酸っぱく言われているので理解している──つもりだ。要するに、生者が軽々しく立ち入ってはいけない、清浄な場所なのである。そういう認識が、リンツェンの中では常識として据えてあった。

 旅人はそうなのか、と抑揚のない声で言った。多分納得している訳ではないのだろうな、とリンツェンは予想する。きっと、彼は己が目的を曲げるつもりなど微塵もないのだ。


「なんで太陽の側に行きたいの」


 乾いた唇を舐めてから、リンツェンは静かに問うた。まずは前提から明らかにしなければ、と直感的に思った。

 太陽に対して、少なくともリンツェンにこれといった感慨はない。時に暖かくて、時に眩しくて、時に焼き付くような暑さをもたらす、当たり前にあるもの。天気によって見えないこともあったが、それでも永遠にお目にかかれない訳ではない。生活の側にあり、それでいて遠い、白くて橙色で金色の丸い輝き。近付こうと思ったことはなく、ただ何となく大切にしなければならない、そんな存在だった。

 旅人は暫し無言を貫いた。聞いてはならぬことだったかな、とぼんやり考えていた矢先に、彼は口を開く。


「俺を裁くに相応しいから、だろうか」

「……?」


 よくわからない答えだった。

 裁く。ということは、この旅人は何か悪いことを、許されないことをしたのだろうか。しかし、彼は見た感じ恐ろしくもなければ悪辣にも見えない。姿は見えるのに透明で、雑じり気がないように感じられた。

 恐らく、彼には彼にしかわからない事情があるのだ。狭い村と、その周辺しかわからないリンツェンではあるが、そればかりが全てでないことは知っている。きっと旅人はリンツェンの理解が及ばぬ程遠くから来て、途方もない高みを目指そうとしている。その道筋の途中に、たまたまリンツェンがいただけなのだ。


「──リンツェン!」


 気を抜けば、心が取り返しのつかない程遠くに行きそうだった。それを済んでのところで止めたのは、聞き慣れた家族の声。

 はっとして振り返れば、小走りで駆けてくる姉の姿が見えた。まだ嫁いでいない、三番目の姉──デーマ。気が強くてしっかり者で、いつもぼんやりしているリンツェンを引っ張ってくれる、頼もしい存在だ。

 姉はまずリンツェンを見て、ほっと安堵の表情を浮かべたが──次点で旅人を目にした時、その顔の何もかもが強張った。物怖じしない彼女にしては珍しい。普段は、同年代の男の子であっても、達者な口で言い負かすような人物なのに。


「リンツェン、帰ってこないと思ったら、まだこんなところにいたの。皆心配してたわよ」

「ごめん、姉さん」

「別にいいわ、謝らなくても。……それで、其処の人は誰? 行商人……じゃないわよね」


 旅人だって、と軽く説明すると、彼は追って首を縦に振った。口数が少ない性分なのか、それ以上彼が語ることはなかった。

 姉の眼差しから疑いの色は消えない。別に、他所からやって来た人に酷いことをされた経験などないはずなのに。何がそんなに気に食わないのだろう、とリンツェンは疑問を覚えずにはいられない。普段の姉なら、もっと当たりが柔らかいはずなのだけれど。


「とりあえず、案内はしようよ。この辺りで一番近いの、うちの村だし。泊まるかどうかはあっちに着いてからでも良いと思う」


 そう姉を促せば、彼女は腑に落ちない、といった顔をしながらも仕方ないわね、と受容した。きついようでいて、姉はリンツェンに甘い。唯一、年下の同胞きょうだいであることが由来しているのかもしれない。

 ヤクたちを伴ってさっさと行ってしまう姉の背中は、既に小さい。彼女は歩くのが早いのだ。


「行こう。後のことは、その時になってから考えればいいよ」


 声をかけなければ、旅人はずっとその場に突っ立っていそうだった。歓迎されていないことを、この中の誰よりも理解しているのだと言わんばかりの雰囲気を醸し出している。

 そんな彼を置いていくのは忍びない。リンツェンが呼び掛けると、旅人はやはりひとつうなずいてから、遠慮がちな足取りで後を付いてきた。初めて見た時の歩みとは、似ても似つかなかった。

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