第6話 涙のキッス

「千夏さん、君は生きているんだね。ごめんよ、幽霊とか言って」


 正樹は千夏の胸から手を外すと、申し訳なさそうに頭を下げた。


「ありがとう。でもね、私がこうして生き返るのはどうやらこの場所だけみたい」

「はあ?」


 千夏はそう言うと、空いている座席に腰掛け、窓の外を見つめた。


「死んだ後、気付いたら私は駅の中にいて、身体中の傷もなくちゃんと歩けるし、え?私死んだんじゃ無かったんだ!って、びっくりしたの」

「ホント?」

「うれしくなって、駅の外に出て家に帰ろうとしたんだ。でも、家に帰ってお母さんに話しかけても、何の反応も無い。お父さんにも話しかけたけど、全然何も返してくれない。それどころか、私に向かって何も言わず突進してこようとしてさ。学校に行って友達に話しかけても、誰も反応してくれなかった。それどころか、私が死んだことをみんなで悲しんでいて。『え?何で泣いてるの?私ここにいるよ?生きてるよ!』って大声でわめいたけど、全然反応なし。え?私、生き返ったんじゃないの?どういうことなんだろうって思って。で、試しに学校の玄関の大きな鏡に、自分の姿を写しだそうとしたら、そこには何も写っていなくて……」

「!?」


 正樹は千夏の言っていることがどうしても理解できなかった。確かに目の前にいる千夏はちゃんと生きている。僕の目にもちゃんとその姿が見える。けれど、誰に話しかけても何の反応もなく、鏡に自分の姿が写っていないなんて。


「私、すごく悲しくなった。自分の姿はもう誰にも見えないんだ。私が話しかけても、誰も振り向いてくれない。私の存在は、空気と同じなんだって……。愕然として私が事故にあった駅に戻ってきて、たまたま駅舎の中にある鏡を見たら、何と自分の姿がちゃんと写っていたの!」


 千夏は横長の目を見開き、正樹を驚かすような口ぶりで語りだした。


「そんな驚かすような言い方するなよ。でも、ヘンだよな。どうしてあの駅に来たら、姿が見えるようになったんだろう」

「私自身も分からないよ。私の体に、何が起きているのか……」


 そういうと千夏はうなだれた様子で、座席の中でうずくまった。


「千夏さん……落ち込むなよ」

「落ち込んでなんかない。でも、こんな自分を嫌になっちゃうの。生き返ったはずなのに、独りぼっちで寂しい。この地下鉄なら自分の姿を取り戻せるけど、電車で昔のクラスメイトを見かけても自分から避けるようになったの。だって、地上に出たらただの空気なんだもん。そんな自分の姿を見せたくないもん」


 どうやら千夏は、死後すぐには往生せずに生き返ったものの、何かの理由があって地下鉄の構内では姿を見せられるものの、そこから外に出ると全く姿が見えなくなるようだ。

 千夏が時々口にした「独りぼっち」というのは、どこに出かけても周りの人間が自分の姿に気づかず、疎外感を味わっていたからなのだろう。

 千夏は顔を座席の背もたれに押し付け、咳き込みながら泣き出した。正樹は千夏の隣に座り、背中をゆっくりとさすりながら耳元でつぶやいた。


「泣くなよ。千夏さんらしくねえよ」

「だって、寂しいんだもん。そして、こんな自分の姿、正樹さんに知られたくなかったもん……」

「さっきも言ったけど、俺はどんな千夏さんでも受け止めるよ」

「どうしてそんなことが言えるの?私の姿が見えるのは、この電車の中だけだよ。外に出たら、どこにいるか分からなくなっちゃうんだよ。そんな私と一緒にいても正樹さんまで辛く寂しい思いをさせるだけじゃん!」

「いいんだよ。この電車の中だけでも。それに、姿が見えても見えなくても、俺にとっては同じ千夏さんだよ」

「そんなの嘘よ!無理して同情しなくたっていいのよ!」


 電車はどこかの駅に停車し、到着と同時に、千夏は開いたドアから飛び出すように出て行った。


「待てよ千夏さん!同情なんかじゃないよ!俺は、俺は……!」


 正樹は千夏の後を追うようにドアから飛び出していった。千夏は地上に上がる階段を、サンダルの音を立てながら早足で駆け上がっていった。正樹はその姿を見失いように、歯を食いしばって必死に階段を駆け上っていった。

 千夏は階段を駆け上がると、改札を通り過ぎ、さらに走る速度を上げて通路を走り抜けて行った。正樹は額の汗をぬぐいながら、千夏の背中を追った。

 次第に地上が近づき始めたのか、通路の向こう側から明かりが差し込み始めた。するとまるで電波障害で画像がぶれたテレビのように、千夏の身体は徐々に輪郭が無くなり、形を崩して消え始めていた。


「千夏さん……」

「見たでしょ?私の身体……形を失ってるでしょ?外に出たら姿も形も見えなくなるの。こんな自分、誰にも見せたくなかった」


 千夏は息を切らしながら、前方に見える光の指す方向を指さした。


「あそこの階段を上がると、そこが地上への出口へと繋がるのよ。階段を登り切った時、私の姿はもう正樹さんの目には見えなくなるの」


 指を差す千夏の目からは、涙がとめどなく流れていた。


「それでもいい。関係ないよ」


 千夏は後ずさりしながら、少しずつ階段を登り始めた。地上から入る眩しい光に吸い込まれるように、千夏の身体は徐々に形を失っていった。やがて正樹の肉眼では、その姿が全く見えなくなってしまった。


「千夏さん!俺はここにいるよ!まだずっと千夏さんのことを見てるぞ!だから寂しくなんか無いよ!」


 地上に出た正樹は、全く姿が見えなくなった千夏に向かって、大声で叫んだ。


「姿が見えないから何なんだ?俺にとっては同じ千夏さんだよ!俺はずっとそばにいる。千夏さんは独りぼっちじゃねえよ!仕事じゃ全くの役立たずのリストラ候補だけど……千夏さんがいたから、ずっとここまでやってこれたんだ!だから今度は俺は千夏さんを守る。千夏さんを絶対に独りぼっちにはしないから!」


 誰もいない歩道に向かって叫び散らす正樹の様子を、道行く人たちはいぶかしげな表情で遠くから見つめていた。


「あのお兄さん。ちょっとおかしいんじゃない?」

「誰もいないのに大声で叫んで、ヤバいよね。最近通り魔事件が増えてるから、警察でも呼んでこようかな?」


 しかし正樹は周囲の目など意に介すことも無く、ゆっくりとした足取りで歩道を歩きだした。


「千夏さん、一緒に行こう。今日はおばあちゃんのお墓に行くんだろ?」


 正樹はそう言うと、手を前に差し出した。すると正樹は、差し出した手にほのかな温もりを感じた。その温もりは、さっき千夏が自分の胸を触らせようと正樹の手をつかんだ時に感じたものと同じだった。


「やっぱりそこにいるんだね。ありがとう、千夏さん」


 その時、正樹の頬にかすかに触れるものがあった。それは、先日千夏が正樹の頬に押し当てた唇と同じやわらかい唇の感触だった。


「お、おい!ここでキスするなよ。さすがにここでやったら目立つだろ?」


 すると今度は、反対側の頬に何かが触れた。その感触は、さっきと同じ唇の感触だった。


「こらっ!だからここでキスするなって、聞こえないのかよ……グフッ!?」


 突然正樹の唇が、何かに塞がれているかのように感じた。その感触はやわらかく、化粧品の香りがかすかに漂っていた。


「千夏さん、俺の話、聞こえないのか……んぐぐぐ」

『大好き』

「え?」

『大好き、正樹さん』


 正樹の口元から、誰かがささやくような声が聞こえてきた。

 その声は、まぎれもなく千夏の声だった。


「ありがとう。俺も大好きだよ、千夏さん」


 正樹はしばらく唇を塞がれて息苦しかったが、そんな苦しさなど全く意に介さなかった。唇から洩れるかすかな息の音、握られた手から伝わる温もり。真夏の午後、都会の片隅で正樹と千夏の気持ちはしっかり重なり合った。


「さ、行こうか。いつまでもこうしていたら、さすがに俺も周囲の視線がきついからな」


 正樹がそう言うと、片手の温もりはまるで導くかのように正樹の手を強く引き寄せた。正樹はその方向へとゆっくりと歩き出した。


「どうだい?寂しくないだろ」

『うん、全然寂しくない。正樹さんがいるんだもん』


 誰もいない歩道に向かって弾んだ声で語り掛ける正樹を見て、行き交う人達は、正樹を変質者のように見ていた。

 それでも正樹は気にならなかった。

 歩いている途中、正樹の頬には、何度も唇の感触があった。


「千夏さん、やめてくれよ、白昼堂々路上でキスするなんて」

『いいじゃん、どうせ他の人には見えないんだから』


 頬、おでこ、そして唇……千夏は正樹の顔の至る所に口づけているようだ。

 正樹は顔中を押さえながらも、皮膚をとおして伝わる千夏の感触を感じとることで、たとえ姿が見えなくてもすぐそばに千夏がいること、そして千夏との心が繋がっていることへの満足感に浸っていた。

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