第4話 君がいるだけで

 一九九二年夏は、とにかく暑い夏だった。朝から晩までひたすら暑い日が、いつ終わりが来るのかと思える位何日も続いていた。

 朝から蝉がやかましく鳴き続ける中、正樹は男性社員達とともに品出しをしていた。特売品のスイカを箱ごと入口に並べ、箱を開封して値札を付けるのだが、暑い中たくさんの箱を裏の倉庫から入口まで運ぶのは予想以上に体力を消耗した。いくら若いとはいえ、体力に自信のなかった正樹にはこの作業は非常に堪えるものだった。箱を全て並べ終えると、正樹は思わずその場にへたり込んだ。


「おい、大丈夫なのか?たかだかスイカを運んだだけじゃないか」

「そ、そんなこと言ったって、すごく重いんですもん」

「若いんだろ?俺たちより体力もあるはずなのに、情けないなあ」


 そう言うと、社員達は倒れ込んだ正樹を心配そうに見つめつつ、「少し休んで水でも飲んで来いよ」とだけ言い、店内に帰っていった。


「悔しいなあ。レジ打ちや陳列だけじゃなく、品出しも上手くできないなんて……」


 正樹はようやく立ち上がると、汗でびっしょりになった額をぬぐいながら控室へと歩いていった。手すりにつかまりながら何とか控室にたどり着くと、正樹はハンカチで額をぬぐい、自動販売機でカルピスウォーターを買い、一気に飲み干した。


「はあ、美味しい。生き返るなあ……」


 カルピスウォーターを飲んで大きく深呼吸した正樹は、しばらく何も考えずに天井を見つめていた。その時、控室のドアの隙間から店のBGMが耳に入ってきた。


「観月ありさの……『Too shy shy boy』?」


 正樹はハッと我に返った。

 最近、正樹の勤めるスーパーだけでなく、コンビニのBGMでもこの曲を良く耳にする。歌っているのは観月ありさだが、正樹には観月ありさに似ている千夏のことを真っ先に思い出してしまった。

 先日、電車の中で千夏に会った時、正樹は思い切って千夏への気持ちを伝え、連絡先を聞き出そうとした。しかし千夏はそれには応じず、それどころかその後は全く会うことも無くなってしまった。

 正樹はこの曲を聴くたびに千夏のことを思い出し、そしてあの時自分がとった行動への激しい後悔の念にとらわれた。


 帰り道、正樹はいつものように地下鉄のホームで、電車が来るのをずっと待っていた。電車が到着すると、浮き輪を持った小さい子ども達が母親らしき女性とともに正樹とすれ違うようにホームに降り立った。


「今日は楽しかったよ!ママ、またプールに連れてってね」


 嬉しそうに話す子どもの顔を見ると、羨ましくてたまらなかった。今日みたいな暑い日は、プールは最高だろう。

 電車の中は適度にクーラーが効いているが、やっぱりたまにはプールや海で時間を忘れて冷たい水に浸かりたいと思った。出来れば、可愛い彼女と一緒に……。


「こんにちは、大分お疲れのようですね」

「え?」


 聞き覚えのある声が、正樹の真上から聞こえてきた。見上げると、そこには千夏の姿があった。


「千夏さん!」

「元気?正樹さん、ちょっと顔がやつれてるけど」

「だって、今日は慣れない肉体労働してきたから」

「こんな暑いのに?」

「そうだよ。というか、千夏さん、今日はこれから海とかプールにでも行くの?」


 千夏は首の後ろで紐を結ぶホルターネックのワンピースを着こみ、白く綺麗な背中を大きく露出させていた。その上、大きな麦藁帽子をかぶり、籐編みのバッグを持ち、まるでこれから海にでも出かけて行くかのような恰好をしていた。


「ピンポン!プールに行ってきたんです。今日は暑いから気持ち良かったですよ」

「友達と?それとも……彼氏と?」

「……正樹さんって、結構嫉妬深いんですね」

「え?そ、そういうわけじゃないけれど」


 千夏はむくれた表情で正樹の隣に座り込んだ。


「こないだも言ったけど、私、独りぼっちだから。友達も彼氏もいないし」

「……」


 正樹は千夏の答えに首を傾げた。

 彼女はなぜ独りぼっちでいるのだろうか?こないだも、正樹が電車以外の場所で一緒に話をしたいと言うと、頑なに断ってきた。きっと何か理由があるのだろうけど、正樹としては、今は深入りするつもりはなかった。久し振りに千夏に会えたこと、そして千夏と話ができること、それだけで今の正樹の心は満たされていた。


「千夏さんはもう俺に会うのが嫌になっちゃったんじゃないかと思ってたんだ。自分の気持ちが先走って、色々詮索するようなことばかり言ってさ」

「ううん。私こそあんなこと言って、正樹さんをがっかりさせたんじゃないかって、ずっと後悔してたの」


 千夏からの答えに正樹は驚いた。


「正樹さんは私ともっと話したいだろうし、電車以外の場所でも会いたいという気持ち、私もすごく分かる。私だって、もっと正樹さんと話したいし、一緒に出掛けたいって思うもん」

「え?そうなの?じゃあ、どうして電車以外では会えないの?」

「それは……」


 千夏は言葉を濁していた。先日会った時と同様に、これ以上のことは話したくないように感じた。正樹は余計な一言だったかな?と激しく後悔し、慌ててフォローしようとした。


「わ、分かったよ。ま、誰にでも言いたくないことはあるし、色々な事情はあるからさ。でも俺は、たとえ電車の中の短い時間でも、千夏さんと一緒に話が出来るだけですごく嬉しいからさ。だから、気にするなよ!」

「ごめんね」

「それよりさ、どこのプール行ってきたの?俺も今度行ってみようかな?仕事で心も身体もクタクタだから、プールに入って疲れを吹き飛ばしたいからさ」

「神宮プールだよ。知ってる?」

「ああ、名前は聞いたことあるよ」

「私、小さい頃から後楽園のジャンボプールか神宮プールに連れてってもらってた。ジャンボプールが無くなってからは、ずっと神宮プールかな」


 正樹は千夏の口から出てくる場所をテレビで見たことがあるが、実際に行ったことは無かった。ずっと都会で暮らし、テレビで紹介されていた場所に親しみ、懐かしんでいる千夏を羨ましいと思った。

 その時突然、電車が急停車した。車体は進行方向に向かって思い切り引っ張られ、座席にいた正樹や千夏も思わず真横に将棋倒しになった。


「だ、大丈夫か?千夏さん」

「うん……正樹さんは?」

「大丈夫だよ」


 二人とも何とか無事であったが、気が付くと千夏の露出した肩が正樹の肌にピッタリと触れていた。そして、千夏の手は正樹の腕をつかんでいた。千夏の肌の感触が伝わるうちに、正樹の心臓は次第に高鳴っていった。


「あ、ゴメン!つい正樹さんの腕をつかんじゃった」


 千夏は手を正樹の腕から外そうとしたが、正樹は外そうとする千夏の手を強くつかんだ、


「外さなくていいよ。俺、すごく嬉しかったから」

「え?」

「千夏さんに手をつかまれて、すごく嬉しかったから」


 正樹の顔は紅潮していた。そして、普通なら照れくさくて言えないような言葉を、気づかぬうちに口にしていた。


「ヘンなの」

「はあ?」

「手をつかまれて嬉しいだなんて、ヘンなの」


 千夏は笑いながら正樹の腕から手を離した。しかし正樹は千夏の手を再びつかんだ。


「ちょっと!何するのよ?今日の正樹さん、本当にヘンだよ。一体どうしたの?」

「寂しいクセに」

「え?」

「寂しいんだろ?正直になれよ。俺も今、自分の気持ちに正直だから」


 正樹の言葉を聞いた千夏は、横長の目を大きく見開き、驚きの表情を見せていた。


「そりゃ寂しいよ……私だって本当は誰かと一緒に行きたいよ!本当は誰かを好きになり、ずっと一緒にいたいって思うよ!でも、出来ないんだもん!悔しいけれど、出来ないんだもん」


 千夏は早口でまくし立てるようにそう言うと、千夏は正樹から顔をそむけた。

 正樹は握っていた千夏の手をそっと離し、無言のまま千夏の横顔を見つめていた。


「俺は、この電車の中で千夏さんと一緒に過ごす時間があるから、全然寂しくないよ」


 正樹の言葉を聞き、千夏は正樹の方を振り返った。


「バイトで辛い思いをした時に、千夏さんの言葉と元気が嬉しかった。電車で体が触れて痴漢扱いされた時、俺の味方になってくれたことが嬉しかった。ホントは俺、千夏さんと電車以外の場所でも一緒に過ごしたいよ。一緒にプールも夏祭りも行きたいよ。でも、それが叶わなくても、こうして電車で会えるだけで嬉しいって思えるんだ」


 正樹はそう言うと、照れくさそうに額を指で掻くと、苦笑いを浮かべた。


「そのことにやっと今日、気付いたんだ。観月ありさの曲が流れると、また千夏さんに会いたいっていう気持ちが自然にうずくんだよね」

「え?観月ありさ?何で?」

「まあ、その……千夏さんが観月ありさに似てるから、かな?」


 すると千夏は声を上げて大笑いした。


「アハハハ、私、観月ありさに似てるかな?昔、後藤久美子に似てるって言われたことがあるけどね」

「ゴクミ?そう言えばちょっと似てるかな」


千夏は相変わらず笑い続けていたが、やがて次の駅に電車が到着するアナウンスが流れると、籐編みのバッグを膝の上に載せ、下車する準備を始めた。


「今日はありがとう。独りぼっちは寂しいけど、正樹さんのお蔭でちょっと元気になれたかな?そろそろ降りるね」


 そう言うと、千夏は正樹の手をそっと握った。そして、露出した肩を正樹の体に寄せ付けると、チュッと音を立てて頬に口づけた。


「元気をくれたお礼だよ。あ、観月ありさに似てるって言ってくれたことも嬉しかったから、そのお礼も兼ねてね」


 千夏は席を立つと、「またね」と言って手を振りながら開いたドアから出て行った。

 正樹は頬に手を当てたまま、ぼうぜんとした表情でまるで機械のようにぎこちなく手を振った。


「俺……夢でも見てるのかな?」


 千夏が居なくなった電車の中で、正樹はしばらく頬に残った千夏の唇の感触を確かめていた。

 正樹は再び千夏に会えなくなるのを怖れ、自分の気持ちを出すのを控えていた。しかし、思いもよらぬ形で自分の気持ちを伝えることになった。千夏も自分の気持ちを伝えてくれた。しかし、独りぼっちでいる理由や、いつも一緒にいられない理由は教えてくれなかった。

 気が付くと真向かいの席の中には、これから墓参りに行くと思われる百合や菊の花束を持った老夫婦の姿があった。もうすぐ旧盆の時期である。アルバイトに悪戦苦闘し、千夏と出会った今年の夏も、間もなく終わりを迎えようとしていた。


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