一瞬の夏・1992~あの夏、僕の隣に君がいた~
Youlife
第1話 出会いは突然に
一九九二年七月。
東京都心にあるスーパー「サンエイ」は、夕方になると次々と買い物客がかごを片手に陳列棚をあさり、次々と商品をかごの中に放り込んでいった。
BGMには、
「がんばれ!みんながんばれ!」と連呼するこの曲に背中を押されるかのように、客は次々と商品を買い込み、レジの前に続々と並んでいった。
この春上京し大学生になった正樹は、サークルや友達との付き合いであっという間に親からの仕送りを使い果たしていた。情報誌で探し出し、面接を受け、やっと採用してくれたのがこのスーパーだった。
導入されたばかりのスキャンシステムで、商品に付着したバーコードを読み込めば、レジに商品の価格が表示されるのだが、正樹はこのシステムにいまいち慣れなかった。
「いらっしゃいませ」
太めの体型の、ブスッとした表情のおばさんがかごを正樹の目の前に置くと、正樹は早速スキャンを始めた。けれど、何度バーコードにスキャンを当てても、価格を読み込んでくれない。この場合、商品に貼りつけられた値段シールを見ながら、価格を手入力するしかない。
「あれ?これで良かったのかな?」
最後に手入力した価格の合計処理をしたいのに、以前正社員から教えられたはずの手順でやっても合計が「ゼロ」になってしまった。もう一度手入力し直し、もう一度合計処理を行うも、やっぱりゼロになってしまった。手入力が上手くできず、時間がどんどん過ぎ去っていくうちに、正樹は次第に焦りを感じ始めた。
そのうち、おばさんの後ろには次々とレジ待ちの客が並び、その列は店の端にある鮮魚売り場まで繋がってしまった。
「ちょっと、なにやってんのよ!」
おばさんは腰に手を当て、正樹を睨みつけた。
「す、すみません。今すぐ終わりますから」
「今すぐ?何寝言言ってんのよ。私の後ろ、見えるかしら?」
おばさんは自分の後ろに数珠繋ぎになっているレジ待ちの行列を指さした。
正樹はそれを見て、何も言い返せなかった。その原因が自分のレジ処理が遅いからに他ならないからだ。
「私の後ろから『いつまで待たせるんだよ!』って声が聞こえてくるのよ。まるで私が悪いみたいに思われて、すごく嫌なんだけど」
「……すみませんでした」
「ちょっと、店長呼んでくれる?」
「店長?」
「あんたみたいな若いお兄さんじゃ話にならないからさ。さ、早く呼びなさいよ!」
正樹は頭を抱え、隣のレジにいる正社員の
「すみませんでした。私は正社員でこの人はアルバイトなんですが、今後はちゃんと教育して、皆様に迷惑をかけないようにしたいと思います」
おばさんは、何度も何度も頭を下げる真奈美を見て、ため息をつきながら
「ちゃんと教育してよね、正社員さん」
とだけ言い残すと、それ以上は何も言わずレジの前で待ち続けていた。
正樹は胸をなでおろすとともに、真奈美に向かって「ごめんなさい」と小声でつぶやきながら頭を下げた。
「あれほど丁寧に教えたのに……ちゃんと勉強しなくちゃダメだよ。とにかく、これ以上待たせるわけにはいかないから、今日は私が一緒にやるからね」
真奈美はそう言うと、スキャンを手にかごの中の商品の価格を次々と読み取り、あっという間に合計額を算出した。
あれだけ数珠つなぎになった列は、数分もしないうちに跡形も無くなっていた。
夜もすっかり更けた頃、アルバイトが終わった正樹は背中を丸めながら地下鉄へと続くエスカレーターを降り、駅の改札をくぐった。初めて経験したアルバイトで、まさかこんなに大変な思いをするなんて、そして自分自身がこんなにふがいない奴だったなんて、考えれば考えるほど手の震えが止まらなかった。
地下鉄に乗りこむと、正樹は車内を見渡した。
足を組んでスポーツ紙を読み耽るサラリーマン風の男、髪の長い渋谷のチーマー風の少年、ワンレングスの髪をかき分けながら、体にぴったり付着したワンピースを着こんで小さな鏡を覗きこんでいる女性……皆、落ち込んでいる正樹のことなど気にする様子も無く、黙ったまま座り込んでいた。
電車が次の駅に到着したその時、ドアが開いたと同時に、一人の少女が叫び声を上げて駆け込んできた。
「助けて!」
白地に灰色のネクタイが付いたセーラー服を着こんだ高校生らしき少女は、長い髪を振り乱しながら正樹のすぐ隣に座り込んだ。
「ねえ、お願い、助けて!」
「た、助けてって、何を?」
少女は正樹の腕にしがみつくと、そのまま顔を正樹の肩のあたりにうずめていた。
あまりにも突然の出来事に正樹は驚き、どう反応したらいいのか分からなかった。
その時、髪の毛を七三に分け大きなレンズの眼鏡をかけた中年男性が乗り込んで来た。男性は車内を見渡すと、足をふらつかせながら正樹の座っている方向へ近づいてきた。
「そこにいたのかぁ!おいっ!何で逃げるんだよぉ!」
どことなく頼りない張りのない声を上げながら、男性は少女に顔を近づけてきた。
その顔、声、しぐさは、放映中の人気ドラマに出てくる「冬彦さん」を彷彿させる怖さがあった。
「すみません!私には彼氏がいるんです!この人が私の彼氏なんです!」
「はああ?彼氏だあ?」
男性は口を大きく開きながら、驚きの声を上げていた。
「私たち付き合ってもう一年以上なんです。ね?ダーリン」
「ダ、ダーリン?今、ダーリンって言ったよね?ね?ね?」
「そうよ。ダーリンって言ったけど」
すると男性は突然全身を震わせ、正樹を鬼のような形相で睨みつけると
頭を抱えながら「ウワアアアア!」と大声を上げ、全速力で通路を走り去っていった。
「何なんだ、あの人?怖かったなあ……」
正樹はしばらくの間、男性に睨みつけられた恐怖で全身が硬直してしまった。
「あの、大丈夫ですか?」
少女に話しかけられ、正樹はようやく我に返った。少女は相変わらず正樹の腕に手を回したまま、心配そうな表情でじっと見つめていた。
「だ、大丈夫ですけど、一体何があったんですか?それに僕のこと『彼氏』って言ったけど、僕はあなたと初対面なんですけど……」
すると少女も我に返ったのか、顔を赤らめながら腕をそっと外した。
「ご、ごめんなさい、お兄さん。私、あの男の人に付け回されてたんです。そこから上手く逃げるために、お兄さんが彼氏だってウソをついたんです」
少女の口から出た「ウソ」という言葉を聞き、正樹はがっかりしたが、少女はさらに言葉を続けた。
「学校から駅に向かう途中で声掛けられて。あの人、私に気があるみたいでこれまでも通学途中に何度か声掛けられたんです。最近は待ち伏せして、駅まで追いかけてくるようになったから、すごく怖くって……」
少女はそう言うと、口をつぐんだ。
「でも、お兄さんのおかげで助かりました。おそらくこれ以上声はかけて来ないと思います。勝手にお兄さんを利用して、本当にごめんなさい」
そう言うと少女は頭を下げた。
「いや、いいんですよ。こんな出来損ないの僕でも、お役に立てたのならば」
「出来損ない?」
「そうです。今日からバイト始めたんですけど、何もできなくて。それどころか、他の店員さんの足を引っ張ってばかりで、自分が情けなくて」
やや自虐気味に思いの丈を話した正樹に、少女はしばらく無言であったが、やがて軽く笑いながら答えた。
「それは私も同じかも。私もマックでバイトしてるんですよ。最初の頃、ドジばっかりやって先輩に睨まれてばかりでしたよ。でも、いつかできるようになる、いつか見返してやるって思って、スマイルを忘れずにがんばってますから」
「スマイル?ああ、マックはスマイル無料ですもんね」
「そうそう!よくご存じですね」
少女は笑いながら正樹の話に相槌を打った。
二人はお互いのアルバイトの話で盛り上がった。今日のレジでの出来事も、少女は笑いながら耳を傾けて聞いてくれた。
「それはそのおばさんもひどいですよね。どうして待てないんですかね?」
少女は正樹の話を、遮ることも否定することもせず聞いてくれた。
「あ、そろそろ私降りるんで。今日はありがとうございました!」
電車がスピードを落とし、車内に次の到着駅のアナウンスが流れると、少女は頭を下げ、ドアへと向かって歩き出した。
「あの……」
正樹は思わず少女を呼び止めた。
「名前は?僕は添田正樹っていいます」
「私は
そう言うと、千夏は手を振ってホームへと降り立って行った。正樹も軽く手を振った。
電車は次第にスピードを上げ、窓の外のホームの景色は流れるように過ぎ去っていった。そこには、髪をかき分けながら歩く千夏の姿があった。
「千夏さん……か」
長い黒髪、きりっとした眉、切れ長の目、そして長い手足……。最近人気の
千夏との数分間の出来事を思い出すうちに、ついさっきまで正樹の心の中に渦巻いていたもやもやした気持ちは、いつの間にかどこかに行ってしまっていた。
千夏にまた会いたい。また話がしたい……でも、もう会えないだろうな。正樹の生まれ育った田舎町ならともかく、こんなに人がいっぱいいる都会では。
千夏の住所や電話番号とかちゃんと聞いておくべきだったと、後悔の念に駆られながら、正樹はうつむきながら一人電車に揺られ続けていた。
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