第9話 ナルシストパンダは慰める

 どれくらい屋上に座っていたのだろうか。気がつけば太陽が西にずれ、空は赤く変わっていた。あれだけ暑かったはずなのに、風が吹くたびに身体が小刻みに震えるほど空気が冷たくなっている。自分で自分を抱きかかえるように両手を脇に挟む。体操座りのような格好になってしまい、今度はお尻が冷たくなってくる。だけど、立ち上がる気力は残っていなかった。


「静香なら大丈夫だよ」


 僕が凹んでいると思ったのか、成瀬先輩はいつも以上に優しい声で囁いてくる。着ぐるみが僕の頬に張り付くほど距離は近い。普段であれば暑苦しいと文句を言うところだけど、今日は寒いから何も言わないでおいた。


「彼女は強いからね。クラスに馴染めなかったのは残念だが、それも乗り越えられるはずだ。それに、友人ならいる」

「誰ですか?」

「君だ」

「先輩は違うんですか」

「私と彼女は友人にはなれないよ」

「冷たいですね」そもそも僕なんかが虎井さんの友達になれると思わなかったけど、 口にはしない。「僕のほっぺたより冷たいです」

「君の頬は暖かいではないか」


 余計なことを言ったと気づくも、気づいた時には当然手遅れなわけで、両手で顔をがしりと捕まれる。頬をむにむにとされるのがくすぐったく、恥ずかしかった。やめてくださいよ、と言いながら頭をぶるぶると振る。


「人の悩みを解決するというのは難しいのだよ」僕の頬をつまんだまま、先輩は少し真面目な声を出す。口調と行動が伴っていない。

「相手が悩みの解決を放棄してしまうと解決するのは困難を極める。救われようとしている人しか救われないのだよ」

「手厳しいですね。なんか、失敗したのは虎井さんが悪いみたいに聞こえます。責任転嫁です」

「君の方が手厳しいよ」そういう意味ではない、とより強く頬をいじられる。そんなことは分かっていた。「まあ、今回は私が全面的に悪いだろうがな」

「そんなことは」

「完全に見間違えたよ。静香が私に隠し事をするとは思わなかった」

「どういうことですか」

「おかしいとは思わないかね?」

 

 先輩の格好ならおかしいと思っているけど、今回の件でおかしいことは特に思いつかなかった。虎井さんだっておかしくない。たしかに、進学校である肯綮高校で不良のような格好をしているのはおかしいかもしれないけど、別に進学校だからといって不良がいないとも限らない。


「静香はたしかに怖く見える。口も悪いし、雰囲気もそうだ。だが、悪い奴ではない。合う合わないはあるだろうが、敬遠され続けられるタイプでもない」

「合う合わないがあるから、こんなことになってるんじゃないですか」

「そうかもしれないが、だからといって、声をかけられただけで悲鳴をあげるのはおかしいだろう。あれはただ雰囲気で怖がられているのではない。何か別の理由があるはずだ」

「別の理由って何ですか」

「さあな。かつあげでもしたのかもしれない」


 面白くない冗談だ。虎井さんはかつあげなんてしないタイプのヤンキーだろう。もしするタイプだったら、僕なんて真っ先に狙われていたはずだ。


 やっぱり理由なんてない。人を好きになるのに理由はいらないのと同じで、嫌いになるのにもいらないに違いなかった。


 先輩は考えすぎなんですよ、と僕が言おうとしたのと、成瀬先輩が口を開いたのは同時だった。だけど、僕たちは二人とも言葉を発することができない。なぜか。屋上の非常扉が勢いよく開いたからだ。


 心が色めき立つのが自分でも分かった。虎井さんが戻ってきたと思ったのだ。が、現れた影を見て、浮ついた心が一瞬にして奈落の底へと落ちていく。「なんだ」と思わず声に出してしまった。


「なんだ、隈先生か」

「なんだとはなんだ。主役の登場だぞ」


 さっきまで涼しかったのに、先生の姿を見ただけで暑苦しくなる。がに股でのしのし近づいてくる様は野生の熊が餌を求めに町をぶらついているようにしか見えなかった。信じられないほど汗をかき、信じられないほど息を荒らげている。「やっぱり、階段きついわ」とジャージをばさばさと揺するたびに汗が飛び散り、悲鳴をあげそうになった。


「何だよお前ら。せっかく俺が来てやったってのにシケた顔しやがって。なんか嫌なことでもあったのかよ」

「ええ。隈先生に絡まれちゃいました」

「それは大変だな」


 他人事のように笑った隈先生は、「そんなにお前らにプレゼントがあるんだ」とにんまりと口端を緩める。無精ひげで手の甲を掻き、「嬉しいだろ? 嬉しいだろ?」と繰り返し訊ねてくるのはうっとうしく、面倒くさい。


「どうせ、お古の文房具とかですよね。嬉しくないですよ」

「違えよ。今回は多分びっくりするぞ。ほら、出てこい」


 出てこい? いったい何が出てくるのか。身構えていると、隈先生の大きな身体の陰から、ひょこりと一人の女子生徒が現れた。先生の身体が大きすぎて気づかなかった。

 女の子、という言葉がぴったりな女子生徒だった。僕よりも小柄で、何かに怯えるようにおどおどとしている。大きな丸い眼鏡がかちゃかちゃと揺れ、後ろで三つ編みにされた黒い髪がぶんぶんと揺れていた。


「隈先生」


 僕の頭に手を置き、それを杖代わりにして立ち上がった成瀬先輩は、じとっと目を細め、先生を見上げていた。


「さっき、ドブに行っていただろう」

「行ってねえけど、何だよ」

「いやなに。てっきりドブで拾ったのかと思ってね」

「何をだよ」

「誘拐犯の才能」


 成瀬先輩は肩をすくめながら、先生の後ろの生徒を指さした。

「いくら私たちにプレゼントするためといえど、誘拐をしちゃだめだろう」


 元の場所に帰してきたまえ、と先輩はしごく真面目くさった顔で言う。誘拐じゃねえよ、と慌てて手を振る先生が面白く、僕はつい笑ってしまう。憎らしい太陽が、そんな僕たちをさげすむように見下ろしていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る