Living Dead Honey -屍彼女-
春泥
第1話 オトネ(1)
たまには二人で外出したいという彼女を、シゲルはいつもの調子でなだめすかしたが、内心では正直またかとうんざりしていた。可愛いオトネは彼の言うことなら大抵笑顔で受け入れるのに、最近はなにかと反抗的だ。それというのも、彼が彼女の外出を禁止して久しいからで、二人で暮らすマンションに閉じこもっていることが、彼女にとってそろそろ限界に達しつつあるらしい。
「久しぶりに、二人でレストランに行きたいの。映画だって観たいし。ショッピングも」
彼女があまりにもしつこく言い張るので、シゲルは仕方なくオトネの頬を張り倒した。華奢な彼女はどさりと音を立ててリビングの床に倒れ込んだ。
「駄目だって言ってるだろう。お前、俺の言うことは何でもきくと誓ったじゃないか」
オトネは涙に濡れた瞳で彼を見上げ、震え声で「ごめんなさい」と詫びて、しくしく泣き出した。シゲルはたちまち罪悪感に駆られ、部屋の隅にうずくまるオトネの横に腰かけ、彼女の髪を撫でた。
「頼むから、わかってくれよ。君は外に出ちゃいけないんだ。外は、もの凄く危険だからね。君に何かあったら、俺は一人になってしまうんだよ。そうしたら、寂しいからすぐに他の女の子を見つけるだろうな。それでもいいのかい?」
彼の胸に顔を埋め、彼女は二度と我儘を言わないと誓った。彼は彼女を楽々と抱き上げると、寝室に連れて行った。仲直りの仕方は、いつも同じだ。
シゲルが目を覚ますと、ゴーグルが頭から外れかかっていた。不健康に突き出た腹が目に入り、彼は慌ててヘッドセットを装着し直した。
すぐさま視界は、理想的ガールフレンド、オトネのお陰でいつも清潔に保たれているマンションの寝室に切り替わる。あれだけ疲れさせて、すっかり満足して眠っていたのに、ベッドはもぬけの空だった。
彼は舌打ちをして部屋の隅に落ちていたパンツを拾い上げて履く――割れた腹筋と引き締まった長い脚に戻っている――と、オトネが居ることを願って居間に移動した。
居間にもオトネの姿はなく、かわりにテーブルの上にメモが残されていた。
『喉が渇いたのでコンビニに行ってきます。すぐ戻るから、心配しないで。』
シゲルは血相を変え大慌てでズボンとシャツを身に着けると、マンションの外へ出た。夕暮れ時だが、日が沈むまでにはまだ少し時間があった。
オトネが向かったと思われるコンビニは、マンションからほんの数百メートル、徒歩五分もかからない所にある。
しかし、駆け足でそこへ向かう途中、工事現場から落下した鉄骨が歩道に散乱しており、その少し先では、民家の塀に激突しフロント部分を大破させた車が横転し黒煙を上げていた。目当てのコンビニの塀の暗がりに、トレンチコートの襟を立てて顔を隠すようにして立っているのは、疑いようもなく殺し屋だ。
だから危険だと言ったのに!
シゲルはコンビニからぱんぱんのレジ袋を下げて出てきて、ぎくりと体を震わせ、驚きと罪悪感のこもった目で彼を見つめるオトネに大股に歩み寄ると、彼女をきつく抱きしめた。この世界のシゲルは身長百八十七センチ、オトネとは頭一つ分ほどの身長差がある。
「ごめんなさい。あなたはまだ寝ていると思って」
「いいよ、君が無事だったんだから。さあ、早く帰ろう。もうすぐ夜だ」
ナイフを振りかざし襲ってきた殺し屋を長い脚で蹴り飛ばし、シゲルは用心深く周囲を見回してから「走れ!」と叫んだ。
轟音を立てて突っ込んできたダンプカーがコンビニに突っ込んだのを尻目に、彼はオトネの手を引いて走った。先に民家に突っ込んでいた車から立ち上る煙が一層ひどくなっていたので、シゲルは咄嗟に電信柱を盾にしてオトネを抱き寄せると、庇うように車に背を向けた。
どん!
というで爆発音と共に、爆風が通過していくのが感じられた。数秒後、シゲルの腕から抜け出したオトネは、悲鳴を上げた。
「背中に破片が!」
HPが急激に減ったことが感じられたが、シゲルは「平気だよ」と言って、またオトネの手を取り、激しく炎上している事故車が吐き散らす火の粉を避けながら先を急いだ。工事現場からは、ちぎれた先から火花をまき散らすコードが何本もぶら下がり、生き物のように蠢いていた。
「くそっ」
シゲルは背中が破れ血が付いたシャツを脱いで片手に巻き付けると、反対の手でオトネの肩を抱き、襲いかかるコードを振り払いながら、どうにかマンションの前にたどり着いた。エントランスのオートロックを解除しようとして、手が震えて力が入らないために何度か失敗したシゲルは、悪態をついて、オトネに頼もうと振り向いた。
オトネはコンビニのレジ袋から取り出した、ミニ大福(五個入り)の最後の一つを口の中に放り込むところだった。先に入れた四個もまだ口の中に残っているため、リスのように両の頬を膨らませ、目を白黒させている。
「オトネ!」
喉に詰まらせたのだと気付き、シゲルは口の中の物を吐き出させようとした。しかし、粘着性のある餅と餡子が混ざり合って口の中にへばりついて出て来ない。コンビニ袋の中を探したが、スナック菓子やスイーツ、アイスなどで満杯の袋の中にドリンク類は入っていなかった。
飲み物を買いに出かけたんじゃないのかよ! シゲルは絶望的な目をオトネに向けた。
体の前で両手を鍵爪のように曲げてあわあわしていたオトネの体がぐらりと揺れた。完全に眼球が裏返って白目を剥いていた。シゲルは彼女の体を抱き止めようとしたが、力が弱っているせいで彼女の華奢な体は彼の腕をすり抜け、床に崩れ落ちた。
いつの間にか彼らに忍び寄っていた黒い影が、オトネの腕を乱暴に掴んで彼から奪い取った。逃げていく影が一つまた一つと増えて、ぐったりしたオトネの体を運び去るのをシゲルは恐怖の目で見送った。いつの間にか、沈みゆく太陽の残り僅かな光がほぼ消え去っていた。
もう手遅れだ。
彼はどうにかオートロックを解除し、自分の部屋に戻った。リビングのローテーブルの上に、オトネのメモが残っていた。
『喉が渇いたのでコンビニに行ってきます。すぐ戻るから、心配しないで。』
だからあれだけ外に出るなと言ったのに。激しい怒りが沸き上がった。しかし、もう後の祭りだった。彼はがっくりとソファに座り込み、両手に顔を埋めた。
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