第5話 国王の来訪
メリザンドの孤独な新婚生活は、実にひと月半続いたが……。
「今日の夕刻、旦那さまがお帰りになられるそうですよ!」
ある日の朝、身支度の最中に、女中のエメからそう言われた。心から祝福するような、満面の笑みで。
いきなりのことに唖然としていたメリザンドも、エメの笑顔につられて頬を緩めた。一つ年下の彼女は、我が事のように喜んでくれている。
「ようやく、夫婦らしい時間が過ごせるのかしら」
「そうですとも! さあ、たくさんのプレゼントの中から、どのドレスを着て、どの靴を履いて、どのアクセサリーをつけるかを決めましょう!」
「エメったら、張り切っちゃって。着るものは、プルヴェ夫人と相談しましょうか」
「プルヴェ夫人は、今日はいらっしゃらないそうですよ」
「あら、そう……」
夫人に見立てて欲しかったけれど、仕方がない。服飾類の見立て方はたっぷりと教授してもらったし、今こそ彼女の教えを活かすときだ。
***
かくして、とっぷりと日の暮れた頃。
夫との再会を今か今かと待ちわびていたメリザンドだったが、あまりに待ちぼうけをくらいすぎて、自室でウトウトしてしまった。
そのせいで、せっかく美しく整えた髪が乱れてしまった。誰かに直してもらわないと、と慌てて部屋を飛び出したとき、にわかに玄関先が騒がしくなった。
とうとう夫が帰って来たのかと、喜び勇んで階段を降りる。
玄関ホールには、大勢の人間が集っていた。見知った家令や女中だけではない。剣を携えた男たちのことは、まったく見覚えがなかった。妙に物々しい雰囲気を漂わせ、家の者たちを威圧しているようだった。
戸惑いながら人の輪に近付くメリザンド。みながこちらを注視し、わずかなざわめきが起こる。
やがて、人垣が割れた。メリザンドを通すためではなく、奥からやってくる人物を通すためだと、なんとなくわかった。
果たしてそこから登場するのは、夫・リュシアンなのだろうか。それ以外にあり得ないのに、到底そうだとは思えなかった。メリザンドは緊張にごくりと喉を鳴らす。
「メリザンド! おお、わたしのメリザンド!!」
舞台俳優のように仰々しい声をあげながら歩んできたのは、見ず知らずの男だった。
精緻な刺繍の施されたコートを羽織っており、長い黒髪を後ろで一つにくくって、正面に垂らしている。
年の頃は二十代半ばか、もう少し上、といったところ。くっきり
男は優美かつ堂々とした足取りでメリザンドに近寄ると、おもむろに腕を伸ばし、メリザンドを胸元へと抱き寄せる。
「!!」
もしメリザンドが猫だったら、全身の毛を逆立てていただろう。そして、無礼な男の頬にひっかき攻撃を食らわせ、一目散に逃げだしていた。
けれど、鋭い爪も、しなやかな体躯も持たないメリザンドは、されるがままになるしかない。
「やっと会えたな、愛しのメリザンド!」
男の腕の力が強まる。誰かと勘違いしているのだろうか。でも男は、メリザンドの名前を呼んでいる。
周囲の者たちは、遠巻きにこちらを見ているだけ。どうして誰も助けてくれないのだろう。
「
ようやく聞き覚えのある声が響いた。たった一言だけ、ひと月半前に聞いたっきりの声だけれど、よぉく覚えている。
夫・リュシアンの美しい声。しかし、彼はなんと言った? こくおうへいか、と?
「国王陛下、そのなさりようはあまりに突飛過ぎます。この娘は、まだなにも知らないのです」
そんなリュシアンの言葉と共に、メリザンドはようやく見知らぬ男の腕から解放された。呼吸を整えながら、ゆっくりと視線を巡らせる。
険しい顔をした、銀髪のリュシアン。悠然たる態度でメリザンドの前に立つ黒髪の男。どちらも非常に見目麗しく、正視していられない。思わず数歩後退していた。
「おお、まだなにも聞いていなかったのか。道理で、いたずらに掴まれた小鳥のように固まっていたわけだ」
男の
「怯えさせてすまないメリザンド。いやしかし、怯えた顔もかわいらしい」
にわかに男の表情が柔らかくなる。手が伸びてきて、メリザンドの頬をするりと撫でた。
「なんと、お前が身に着けているものは、髪飾りから靴に至るまで、すべてわたしが選んで贈ったものではないか。わたしの見立てに狂いはなかった。可憐なお前によく似合っている」
「……え?」
疑念にまみれた声が喉奥から飛び出した。この男性は、一体なにを言っているのだろう。
「国王陛下……どうか一旦、客間の方へ。この娘には、今から言って聞かせます」
リュシアンは眉間に深い
「任せたぞ。……それで、今夜はここに泊まってもいいのか?」
「ご随意になさいませ。可能な限り、『ご要望』に沿えるようにいたします」
リュシアンの言葉を聞いた瞬間、男の口元に深い笑みが刻まれた。
「よし、忠義を見せてみよ」
「……尽力いたします」
リュシアンが深々と頭を下げると、男は
──震えが止まらない……。
メリザンドは
──あの男性が、『国王陛下』ですって? わたしが身にまとっているものはすべて、あの
考えれば考えるほど、血の気が引いていく。
しかし一番ショックだったのは……リュシアンがメリザンドのことを、『この娘』と呼んだことだった。数えるほどしか顔を合わせてないとはいえ、あまりに他人行儀ではないだろうか。
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