第12話 ジニアと彼と ――娘と父と――
「無事か」
それだけ言って出迎えたものだ、父、ユンシュはジニアとマーチを。あてがわれた、石とレンガ造りの部屋、監獄のように窓の無い部屋で、煙草をくわえたまま。
マーチは小さくうなずき、ジニアは自分の腕をさすった。床から壁から底冷えがして、上着を持ってこなかったことを後悔した。
エレベーターを下りた先は、石造りの円柱が建ち並ぶ重厚な造りの廊下だった。真っ白い蛍光灯が天井のずっと先まで並び、辺りは真昼のように明るかった。エレベーターを出た両側には、武器を手にした――棍、槍、剣、柳葉刀、骨董屋から持ち出したような銃剣付き小銃、真新しい拳銃――男たちが両側に居並び、一斉に礼をして出迎えた。
奥にいた、リーダー格らしい男が顔を上げる。頭の両側を刈り込んだ、口髭のある男。
「お客人。ようこそ、
無表情に口上を述べた後、肩をそびやかしてマーチの方へと歩く。
「よお兄弟。ずいぶん顔色がいいじゃねぇか、え? そんなんなってまで縁があるたぁ、嬉しくって泣けてくるぜ」
あからさまに顔をしかめ、続ける。
「手前勝手に商売抜けたと思や、死体になって今度は客か。大層なご身分だなオイ」
マーチは男に目をやったが、その表情は変わらなかった。
男は、けっ、と喉を鳴らす。
「そのまま死んでりゃせいせいしたが……まあいい。腐り切る前に出てきやがれ、うちは共同墓地じゃねえんだ」
男は背を向け、周りの者にあごをしゃくる。
部下らしきその者らがジニアたちの荷物を取り、部屋へと案内した。そこで父と会ったのだった。
父によればここは、
にこりともせず、部屋で父はマーチに言った。
「追手は」
マーチは無表情に、首を横に振る。
「妙だな」
マーチも小さくうなずいた。
とにかくそうして、零地址での生活が始まった。
あてがわれたのは牢屋のようにいくつも並んだ部屋の一つ。錆の浮いた分厚い鉄扉のある、自宅の居間くらいの部屋。中にあるものは鉄のベッドが三つにテーブルと椅子。子供が匿われたことでもあったのか、ペンキのはげた小さな木馬が一つ。黴臭い空気を大きな
入口には交代で見張りがいて、建物内にも十人からの男たちがいる。トイレとシャワーは室外に共同のものがある。建物内は自由に移動できたが、二十分程で飽きた。食事は三食とも部屋に運ばれ、必要な買い物があれば頼むこともできた。が、当然すぐにとはいかないようだ。お陰でジニアは同じ雑誌を二日ほど、広告の端まで何度も読む羽目になった。
ジニアが中をうろついても、護衛がついてくるというわけではなかった。中にさえいれば安全と考えていいほどの立地、ということなのだろう。
ただ。どこに行こうと、常に大きな足音がついて回った。十歩ほど後ろをつかず離れず。一歩歩けば足音も一歩、二歩歩けば足音も二歩。三歩歩いて二歩下がれば、足音は三歩歩いたまま。
廊下の端、小さなホールのような場所で、ジニアは勢いよく振り返った。足を踏み鳴らし、両手を下へ払いながら。
「も、マーーチ! 何なのマジで、ってか何! こンの狭っ苦しいとこでデッカいのについてこられたら、ビックリするぐらいうっとうしいんですけど!」
マーチはわずかに目を見開いた後、うつむき加減に目をそらした。
ジニアは腰に両手を当てる。
「聞いてんの、うっとうしいって言ってんの。ってかクサい」
マーチはうつむいたまま、ごく小さく何度かうなずく。そして離れていった。自分の体に鼻を寄せた後、ジニアの方を振り返りながら。その大きな肩は、何だか小さくなって見えた。
ホールの外、石柱の陰で足音が止まる。マッチを擦る音がして、煙草の煙が細く上がるのが見えた。
ジニアは肩を落とし、大きくため息をついてみせる。
「……分かった、分かったって。守ってくれてる、んだよね」
大股に柱の陰へ歩き、マーチの顔を見上げて言う。
「いいから、もうこっち来て。そうだね何か、お話しよ。暇だし」
マーチは濁った目だけを動かしてジニアを見る。何度か目を瞬かせた。それから、こつり、と柱を叩く。
「一回。『はい』だね」
マーチの手を取ろうとして、それが灰色じみた土気色なのに気づいた。袖の端を指先でつまみ、ホールの隅へと引っ張った。ごつごつとした石壁にもたれ、並んで座る。体三つ分は離れて。
「……なんか、ごめん。心配してくれてんのにさ」
マーチは前を向いたまま、間を置いて首を横に振る。ごく小さく。
音も無く空気をかき回す、古い天井扇を見ながらジニアは言った。
「あのさ。……や、そうだ。マーチってパパと同門なんでしょ、知り合って長いんだ」
こつ、とマーチが床を叩く。
「じゃあさ。ママのことも知ってるよね」
長く間が空いて、床が一つ叩かれた。
「良かった。ママのこと聞いていい? パパに聞いてもさ、あんま話したがらないんだよね。写真もないしさ」
煙草をくわえたままのマーチが、ジニアの顔を見る。
ジニアは笑った。
「ああ、別に寂しいとかじゃなくて。ただ、どんな人だったのかなあって。でも……ま、生きてたらどうだったのかな」
マーチの顔をのぞき込んで続ける。
「ね、どんな人だった? ……って、答えようがないよね。どう、キレイな人だった?」
マーチの顔に表情はなかった。ただ、床が、こつり、と音を立てる。
「そう。あたしに似てる?」
床が一度音を立てるのを聞いて、ジニアは笑った。
「それ、あたしもキレイってことだね?」
濁った目が真っすぐにジニアを見る。少し間が空いて、床が一つ叩かれた。
ジニアは思わず口を開け、目をそらした。
「あー……ありがと。……あたしって、そう、ママに似てるんだ。金髪で」
床が一つ叩かれる。
「肌は白くて」
床が一度音を立てる。
「目は灰色」
なぜだか、ずいぶん間が開いて、それからようやく、マーチは床を一度叩く。ごく小さく。
ジニアは息をつき、天井を見上げる。
「あのさ。前、どうしてそこまでして助けてくれるか聞いたけど。答えてもらってないよね」
返事はなかったが続けた。
「当ててあげようか」
マーチの唇がわずかに動き、煙草の先から灰が落ちるのが横目に見えた。それきりマーチは、石像みたいに動かなかった。
「もしかして。違ったらごめんね、もしかして……マーチはあたしの――」
不意に下から、マーチの顔をのぞき込む。今にも煙草を落としそうに口を開けた、間の抜けた顔を。
「――ママのことが好きだった! とか?」
マーチは同じ表情のまま、何度か目を瞬かせる。
ふふ、と声を立ててジニアは笑う。
「当たり、当たり? そっか、いけないんだー、横恋慕だね。それかパパの方が後から来て、かっさらわれちゃった? ざーんねん」
長く息をついて続けた。
「でも、だとしたら。ママのために、あたしを守ってくれてるんだ? そんなんなっても」
マーチは何度か目を瞬かせ、煙草をくわえなおす。それから前を向き、うなずいた。その後小さく、また何度かうなずく。
肩を揺らしてジニアは笑う。胸の奥からじわじわと、温かな笑いが湧いてくる。
「それにしても。二人から好かれるなんて、よっぽどステキな人だったんだね……あ、でも色々引っかけて遊んじゃってる人、だったりして」
マーチがすぐに首を横に振るのを見て。また笑えてきた。
「ふうん、ずいぶん早く返事してくれるね? ……好きだったんだ」
マーチは何も答えなかった。ただゆっくりと床に煙草をにじり、新しい煙草に火をつけた。
ジニアはしばらく、立ち昇る煙が
「ね、あたしの声、ママに似てる?」
マーチはわずかに首を傾げた。首を横に振る。
「……ま、いいや。あの、マーチが守ってくれるんならさ、お礼に、って。あのね……ママだと思って聞いて」
喉の奥で小さく咳をする。立ち上がって真っ直ぐ向き直り、姿勢を正す。大人っぽい声色を出そうと思って喉がかすれ、消え入りそうな細い声になる。
あのね。
ジニアがそう口を開くと、マーチは顔を上げていた。濁った目と口を見開き、ジニアの顔をじっと見ていた。口の端で落ちかかっていた煙草をつまみ、ジニアを見たまま床の上に置く。
ジニアはまた口を開く。
マーチ。ありがとうね。守ってくれていて。
マーチは身じろぎもせず、ジニアを見ていた。
ジニアは微笑み、続ける。
マーチ、この子のことをね。お願いね。
それだけ言って、ジニアは息をつく。
「どう、ちょっとは似てた?」
にまにまと笑ってみせたけれど。マーチは変わらぬ表情でジニアを見上げたままだった。
ジニアの顔がわずかに引きつる。
「な、何、そんな似てたの?」
マーチの口が動く。誰かを呼ぶように、おそらくは、エイミア、と。瞳孔の開き切った白い目を大きく見開いて。
その、瞬いた目の端がかすかに濡れていたのに、ジニアは気づいて。さらに顔を引きつらせる。
「ちょ、あ~その、そんなんならないでもさ……オッサンなんだから、その」
長い間視線を泳がせ、未だ固い顔のまま。マーチの頭へ手を伸ばした。ごわごわとした髪に指が触れ、反射的に一度引っ込めて、もう一度手を伸ばす。
小さなジニアがぐずったとき、父がよくそうしたように。今では好きなわけでもないけど、父がよくそうしたがるように。撫でた、マーチの頭を。骨を揉むようにごりごりと。マーチの肌には何の体温もなく、むしろ温度を吸い取られるようだったが。弾力のない皮膚を、分厚い骨を揉んだ。
しばらくそうしていると、マーチは立ち上がった。冷たい両手の指先で、ジニアの手を包むように取って。その後すぐに手を離す。肉と骨をさらした手を恥じるように、上着のポケットに突っ込んだ。
その手の冷たさと、ぶより、と固い感触が嫌だったけれど。ズボンに手をこするのは、マーチが向こうを向くまで我慢した。
マーチの固く冷たい腕に、服の上から、ひたり、と触れた。知らないけれど母ならきっと、そうした気がする。
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