第12話  ジニアと彼と ――娘と父と――


「無事か」

 それだけ言って出迎えたものだ、父、ユンシュはジニアとマーチを。あてがわれた、石とレンガ造りの部屋、監獄のように窓の無い部屋で、煙草をくわえたまま。


 マーチは小さくうなずき、ジニアは自分の腕をさすった。床から壁から底冷えがして、上着を持ってこなかったことを後悔した。


 エレベーターを下りた先は、石造りの円柱が建ち並ぶ重厚な造りの廊下だった。真っ白い蛍光灯が天井のずっと先まで並び、辺りは真昼のように明るかった。エレベーターを出た両側には、武器を手にした――棍、槍、剣、柳葉刀、骨董屋から持ち出したような銃剣付き小銃、真新しい拳銃――男たちが両側に居並び、一斉に礼をして出迎えた。


 奥にいた、リーダー格らしい男が顔を上げる。頭の両側を刈り込んだ、口髭のある男。

「お客人。ようこそ、御出おいで下さいやした。此処ここは番地も何も無き、存在せぬ土地、零地址リンディズゥ。浮世の如何いかなしがらみも、如何いかな追手も追っては来れぬ。どうぞ此処ここにおられる限りは、ゆるりゆるりとお過ごされやし」


 無表情に口上を述べた後、肩をそびやかしてマーチの方へと歩く。

「よお兄弟。ずいぶん顔色がいいじゃねぇか、え? そんなんなってまで縁があるたぁ、嬉しくって泣けてくるぜ」

 あからさまに顔をしかめ、続ける。

「手前勝手に商売抜けたと思や、死体になって今度は客か。大層なご身分だなオイ」


 マーチは男に目をやったが、その表情は変わらなかった。


 男は、けっ、と喉を鳴らす。

「そのまま死んでりゃせいせいしたが……まあいい。腐り切る前に出てきやがれ、うちは共同墓地じゃねえんだ」

 男は背を向け、周りの者にあごをしゃくる。

 部下らしきその者らがジニアたちの荷物を取り、部屋へと案内した。そこで父と会ったのだった。


 父によればここは、黒蓮ヘイリァン城市シティの元の元――百年以上前の城塞――を改修したものだろう、ということだった。軍事施設としての役目を失った城に流民が入り込み、辺りへ無節操に違法な建築物を建て増していくことで現在の黒蓮は形作られてきた。その過程で埋もれていった城塞の一部、あるいはその地下部分だろう、と。


 にこりともせず、部屋で父はマーチに言った。

「追手は」

 マーチは無表情に、首を横に振る。

「妙だな」

 マーチも小さくうなずいた。





 とにかくそうして、零地址での生活が始まった。

 あてがわれたのは牢屋のようにいくつも並んだ部屋の一つ。錆の浮いた分厚い鉄扉のある、自宅の居間くらいの部屋。中にあるものは鉄のベッドが三つにテーブルと椅子。子供が匿われたことでもあったのか、ペンキのはげた小さな木馬が一つ。黴臭い空気を大きな天井扇ファンがかき回す。


 入口には交代で見張りがいて、建物内にも十人からの男たちがいる。トイレとシャワーは室外に共同のものがある。建物内は自由に移動できたが、二十分程で飽きた。食事は三食とも部屋に運ばれ、必要な買い物があれば頼むこともできた。が、当然すぐにとはいかないようだ。お陰でジニアは同じ雑誌を二日ほど、広告の端まで何度も読む羽目になった。


 ジニアが中をうろついても、護衛がついてくるというわけではなかった。中にさえいれば安全と考えていいほどの立地、ということなのだろう。

 ただ。どこに行こうと、常に大きな足音がついて回った。十歩ほど後ろをつかず離れず。一歩歩けば足音も一歩、二歩歩けば足音も二歩。三歩歩いて二歩下がれば、足音は三歩歩いたまま。


 廊下の端、小さなホールのような場所で、ジニアは勢いよく振り返った。足を踏み鳴らし、両手を下へ払いながら。


「も、マーーチ! 何なのマジで、ってか何! こンの狭っ苦しいとこでデッカいのについてこられたら、ビックリするぐらいうっとうしいんですけど!」


 マーチはわずかに目を見開いた後、うつむき加減に目をそらした。


 ジニアは腰に両手を当てる。

「聞いてんの、うっとうしいって言ってんの。ってかクサい」


 マーチはうつむいたまま、ごく小さく何度かうなずく。そして離れていった。自分の体に鼻を寄せた後、ジニアの方を振り返りながら。その大きな肩は、何だか小さくなって見えた。

 ホールの外、石柱の陰で足音が止まる。マッチを擦る音がして、煙草の煙が細く上がるのが見えた。


 ジニアは肩を落とし、大きくため息をついてみせる。

「……分かった、分かったって。守ってくれてる、んだよね」

 大股に柱の陰へ歩き、マーチの顔を見上げて言う。

「いいから、もうこっち来て。そうだね何か、お話しよ。暇だし」


 マーチは濁った目だけを動かしてジニアを見る。何度か目を瞬かせた。それから、こつり、と柱を叩く。

「一回。『はい』だね」


 マーチの手を取ろうとして、それが灰色じみた土気色なのに気づいた。袖の端を指先でつまみ、ホールの隅へと引っ張った。ごつごつとした石壁にもたれ、並んで座る。体三つ分は離れて。

「……なんか、ごめん。心配してくれてんのにさ」


 マーチは前を向いたまま、間を置いて首を横に振る。ごく小さく。


 音も無く空気をかき回す、古い天井扇を見ながらジニアは言った。

「あのさ。……や、そうだ。マーチってパパと同門なんでしょ、知り合って長いんだ」

 こつ、とマーチが床を叩く。


「じゃあさ。ママのことも知ってるよね」


 長く間が空いて、床が一つ叩かれた。


「良かった。ママのこと聞いていい? パパに聞いてもさ、あんま話したがらないんだよね。写真もないしさ」


 煙草をくわえたままのマーチが、ジニアの顔を見る。


 ジニアは笑った。

「ああ、別に寂しいとかじゃなくて。ただ、どんな人だったのかなあって。でも……ま、生きてたらどうだったのかな」

 マーチの顔をのぞき込んで続ける。

「ね、どんな人だった? ……って、答えようがないよね。どう、キレイな人だった?」


 マーチの顔に表情はなかった。ただ、床が、こつり、と音を立てる。


「そう。あたしに似てる?」


 床が一度音を立てるのを聞いて、ジニアは笑った。

「それ、あたしもキレイってことだね?」


 濁った目が真っすぐにジニアを見る。少し間が空いて、床が一つ叩かれた。

 ジニアは思わず口を開け、目をそらした。


「あー……ありがと。……あたしって、そう、ママに似てるんだ。金髪で」

 床が一つ叩かれる。


「肌は白くて」

 床が一度音を立てる。


「目は灰色」

 なぜだか、ずいぶん間が開いて、それからようやく、マーチは床を一度叩く。ごく小さく。


 ジニアは息をつき、天井を見上げる。

「あのさ。前、どうしてそこまでして助けてくれるか聞いたけど。答えてもらってないよね」

 返事はなかったが続けた。

「当ててあげようか」


 マーチの唇がわずかに動き、煙草の先から灰が落ちるのが横目に見えた。それきりマーチは、石像みたいに動かなかった。

「もしかして。違ったらごめんね、もしかして……マーチはあたしの――」


 不意に下から、マーチの顔をのぞき込む。今にも煙草を落としそうに口を開けた、間の抜けた顔を。

「――ママのことが好きだった! とか?」

 マーチは同じ表情のまま、何度か目を瞬かせる。


 ふふ、と声を立ててジニアは笑う。

「当たり、当たり? そっか、いけないんだー、横恋慕だね。それかパパの方が後から来て、かっさらわれちゃった? ざーんねん」

 長く息をついて続けた。

「でも、だとしたら。ママのために、あたしを守ってくれてるんだ? そんなんなっても」


 マーチは何度か目を瞬かせ、煙草をくわえなおす。それから前を向き、うなずいた。その後小さく、また何度かうなずく。


 肩を揺らしてジニアは笑う。胸の奥からじわじわと、温かな笑いが湧いてくる。

「それにしても。二人から好かれるなんて、よっぽどステキな人だったんだね……あ、でも色々引っかけて遊んじゃってる人、だったりして」


 マーチがすぐに首を横に振るのを見て。また笑えてきた。

「ふうん、ずいぶん早く返事してくれるね? ……好きだったんだ」


 マーチは何も答えなかった。ただゆっくりと床に煙草をにじり、新しい煙草に火をつけた。


 ジニアはしばらく、立ち昇る煙が天井扇ファンの風に揺れて消えるのを眺めていたが。マーチの方を向いて言った。

「ね、あたしの声、ママに似てる?」


 マーチはわずかに首を傾げた。首を横に振る。


「……ま、いいや。あの、マーチが守ってくれるんならさ、お礼に、って。あのね……ママだと思って聞いて」

 喉の奥で小さく咳をする。立ち上がって真っ直ぐ向き直り、姿勢を正す。大人っぽい声色を出そうと思って喉がかすれ、消え入りそうな細い声になる。


 あのね。


 ジニアがそう口を開くと、マーチは顔を上げていた。濁った目と口を見開き、ジニアの顔をじっと見ていた。口の端で落ちかかっていた煙草をつまみ、ジニアを見たまま床の上に置く。

 ジニアはまた口を開く。


 マーチ。ありがとうね。守ってくれていて。


 マーチは身じろぎもせず、ジニアを見ていた。

 ジニアは微笑み、続ける。


 マーチ、この子のことをね。お願いね。


 それだけ言って、ジニアは息をつく。

「どう、ちょっとは似てた?」

 にまにまと笑ってみせたけれど。マーチは変わらぬ表情でジニアを見上げたままだった。

 ジニアの顔がわずかに引きつる。

「な、何、そんな似てたの?」


 マーチの口が動く。誰かを呼ぶように、おそらくは、エイミア、と。瞳孔の開き切った白い目を大きく見開いて。


 その、瞬いた目の端がかすかに濡れていたのに、ジニアは気づいて。さらに顔を引きつらせる。

「ちょ、あ~その、そんなんならないでもさ……オッサンなんだから、その」


 長い間視線を泳がせ、未だ固い顔のまま。マーチの頭へ手を伸ばした。ごわごわとした髪に指が触れ、反射的に一度引っ込めて、もう一度手を伸ばす。

 小さなジニアがぐずったとき、父がよくそうしたように。今では好きなわけでもないけど、父がよくそうしたがるように。撫でた、マーチの頭を。骨を揉むようにごりごりと。マーチの肌には何の体温もなく、むしろ温度を吸い取られるようだったが。弾力のない皮膚を、分厚い骨を揉んだ。


 しばらくそうしていると、マーチは立ち上がった。冷たい両手の指先で、ジニアの手を包むように取って。その後すぐに手を離す。肉と骨をさらした手を恥じるように、上着のポケットに突っ込んだ。

 その手の冷たさと、ぶより、と固い感触が嫌だったけれど。ズボンに手をこするのは、マーチが向こうを向くまで我慢した。


 マーチの固く冷たい腕に、服の上から、ひたり、と触れた。知らないけれど母ならきっと、そうした気がする。


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