第3話 彼は蘇る、娘を護りに腐れた体で
マーチを死体に変えた後、サイキは小指で耳をほじる。
「嫌ンなるぜ、建物ン中で銃とかよ。アッタマ痛ェ。あー、あー聞こえるかテメェら、オレの声聞こえてっか? 今回の件、他のチームにゃ漏れてねェだろな」
血溜まりも構わず、死体の前を歩き回りながら続ける。
「いいか、速攻だ。つけ入る隙なんかやらねェ、速攻かっさらってボスに直《ちょく》で報告。許可が出たならその日のうちに、速攻
不意に黒服の一人がうめくような声を上げ、サイキは顔を歪めた。
「ンだよテメェは人が話してっとこによ」
黒服は視線をさ迷わせながら言う。
「いえ……その。動いたように見えたんで。死体が、なんか、喋るみたいに」
「へえ。そっか。教えてくれて助かるぜ」
サイキは黒服に歩み寄り、満面の笑みを浮かべた。黒服が愛想笑いを浮かべたそこへ、拳を振りかぶって殴る。
「オメェがガチで使えねェってのをよ。オラ、行くぞテメェら」
明かりが消され、男たちが立ち去った後。暗闇の中、蛍光灯の光が仄白く残る下。
灰色の瞳をした死体が、再び唇を震わせた。
――二日後。
ジニア・スオンは息を切らして駆けていた。路地のぬかるみに足を取られ、曲がり角で壁に何度も肩をぶつけ、幾度も振り返って灰色の瞳を後ろへ向ける。その度に、頭の後ろでくくった蜂蜜色の髪が跳ねた。
路地の奥からは幾つもの足音が響き、追ってくる黒服の男たちの姿が薄闇の中に見えた。おそらくは十人近く。
スニーカーの底を鳴らし、勢い余ってぶち当たりかけた壁に手をつき。走りながら、なんで、なんで、と、彼女は幾度も自分に問うた。
東洋の魔窟、犯罪の温床、
そして、ジニアはそれに踏み入った覚えなどない。いつものように学校へ行き、帰り道で友人と別れた後で、男たちが追ってきたのだった。
幾度も角を曲がり、建物へ飛び込み、廊下を駆けて階段を上る。階下から追いかける革靴の音にせかされるように、上の階へと飛び込んだ。薄暗い明かりの下、コンクリートの壁に足音を響かせ、黴臭い廊下を走る。足を滑らせながら角を曲がったところで。
行き止まりにぶち当たった。とっさに出した両手から先に、勢い余って体ごと。倉庫か何かか、両開きの古びたドアに。
元きた方から足音がして、顔が引きつった。祈るような気持ちでノブを回し、全力でドアを押す。鍵は意外にかかっておらず、つんのめりながら中へと入る。
嫌なにおいのする部屋だった――真っ暗で奥がどうなっているかは分からなかったが、そんなことはどうでもいいほど――嫌なにおいのする部屋だった。日の経った生ゴミのような臭気が充満していた。いや、もっと濃くずっと塩辛いにおい。生肉の塊を放置して汁が融け出るほど放置して、その汁にも肉にも虫がたかるまで放っていたなら、きっとこんな感じになる。これが服に染み付くなら、死んだ方がマシに思える。それでもジニアは扉に手をかけた。目をつむり、外に顔を向けて大きく息を吸う。息を止めたまま一気に閉めた。
はずだった。ドアは外から、力任せに押し開けられた。部屋の中になだれ込んだ何人かの男、その一人が肩をつかむ。
「手間取らせやがって。お前、ジニア・スオンだな」
震えてジニアは口を開いた。意識して大きく、はっきりと声を上げる。
「違うよ? あたしはエリザベス、学校の友だちはエリーって呼ぶの。……ジニアって、誰?」
「お前だ、クソガキ。間違いない」
黒服の男は片手で写真を取り出し、ジニアの顔と見比べる。
ジニアが盗み見たそれは集合写真、学校の子供たちとの。その中で、ジニアだけに円く印がつけられている。確か二ヶ月ほど前のものだ。どこかの慈善団体が子供へ健康診断をしてくれたとき、記念にと撮ってくれたもの。そういえば無料だというのに、妙に入念に診てくれた気がする。
他の黒服が顔をのぞき込む。その男がジニアの腕をつかむ。別の者が裾をつかみ、また別の者がベルトに手をかける。
遅れて廊下を駆けてきた者たちが尋ねる。
「そいつか、ジニア・スオン」
「ああ、写真と同じだ。早くサイキさんとこに――」
そう言ってジニアを見下ろす黒服たちの顔は、廊下からの逆光でいやに黒かった。その目はまるで、骨董でも品定めするようだった。ただの物を見る目だった。
呼吸が速まるのを感じながら、ジニアは両手を一つ叩いた。押し留めるようにその手を男たちへ向ける。突き動かされるように喋った。黙っていればそのまま、ただの物になってしまいそうな気がした。
「オーケー。オーケー、いいよ、いいよおじさん、あたしはエリーだけどその、ジニアって子に用があるんだね、あたしに似た、そうスッゴクそっくりな。……その子、何したの?」
「黙ってろ」
無理に笑ってみせたのに、彼らの答えはそれだった。
男の一人が折り畳みナイフを取り出し、軽い音を立てて刃を伸ばした。ジニアの目には巨大に映った、手もナイフも。男の手首と刀身の根元には同じ、三又になった矢印の紋が刻まれているのが見えた。
「調子には乗るな。指の二、三本は落としてもいいって言われてんだ」
「何それ、言われたって誰に何で、だいたい――」
ひたり、と刃が頬に触れる。それを冷たいと感じる間もなく、男は素早く手を引いた。火のような熱さが頬を走り、そこから血がにじみ出す。
「いっ――」
痛い、という声を潰しながら、太い指が両頬に食い込む。むき出した歯を鼻先に突きつけて男が喋る。
「だ・まっ・て・ろ」
目を大きく見開いて、ジニアはただうなずいた。目の端が震えて、視界の下がわずかににじんだ。
死ぬんだ。そう思った。それ以外は考えつかなかった。殺される理由なんて分からなかったが、何か言ったところで聞いてくれそうにもなかった。だから、ただ思った。
パパ。助けて、パパ。
遊んでて遅くなったときみたいに迎えに来て、小言ならいくらでも聞く。手をつないで連れて帰って、もう嫌がって離したりしない。何とかって拳法をやってたんでしょ、こんな奴らブッ飛ばしちゃって、家出したあたしを一度だけブン殴ったみたいに。あんな痛かったんだから一発でしょ? ああでもウソ、やっぱ来ないで、拳法なんてずいぶんやってないんだから、絶対かなうワケないんだから。
そう思い、きつくつむった目の片方から、涙がこぼれた。唇だけを小さく動かす。
パパ。
黒服の一人が笑う。
「しっかし、因果なもんだなコイツも。こんなとこで捕まるんだからよ」
他の黒服も声を上げて笑った。
「そういやここだったな、あいつを
「誰も始末してねえのかよ、ひでえニオイしてんぞ」
「どら……ご対面させてやるか」
言って、一人が足元を探りながら奥へと向かった。
にたにたと笑いながら、別の男が顔をのぞき込む。
「父ちゃんが助けてくれるといいな、え? 嬢ちゃん」
ジニアは顔を歪める。
「ホントそう思う、パパが来たらアンタら全員死ぬから。葬儀代先に出しときなよ……パパ、殺し屋にだって勝ったんだから、若い頃」
強がりに過ぎなかった、そんな与太話を町の噂に聞いたことがあるだけだった。言いながら、鼻にかかった声はぐずぐずと低くくぐもっていった。今はもう、両方の目から涙がこぼれていた。
男たちの嗤い声がジニアを押し包む。
そのとき、床が揺れた。地震ではなく、何かを叩きつけたみたいに鋭く一度、音を立てて。同時に男の声がした。悲鳴ではなく、叩き潰されたかのような短いうめき。
男たちの声がやむ。
「……何だ、どうした」
部屋の奥から返事はなく、二人の男がそちらへ向かう。その姿が闇に溶け込み、ほどなくして。再び床が揺れる、二度。
そしてすぐに静かになる。
黒服の一人が声をかける。
「おい……おい?」
返事はなかった。誰もが奥へと目を向けていたが、ただ闇があるだけだった。
不意に、うめくような声が聞こえた。
おそらく、三人のうち誰かの声。ジニアがそう思ったとき、音を立てて床が揺れる。何かがへし折れる音柔らかいものが潰れる音溺れるような悲鳴が短く、それら全てが同時に聞こえた。
音が再び消えた後、むわり、とにおいが漂った。腐れたにおいにはっきりと混じる、真新しい血の香りが、甘臭く。
黒服たちは皆動きを止めていた。闇の奥を見つめていた。ジニアをつかんだ男の手も、固くこわばっているのが分かった。何人かは懐から拳銃を取り出していた。
ゆらり、と闇に何かが動く。見えたというより、においで分かった。淀んでいた空気がゆるりゆるりと揺らぎ、埃を巻き上げ、においを運ぶ。引きずるような足音と共にそれは、腐れたにおいの元は、ジニアの方へと近づいていた。
ぼやり、と人の姿が見えた。
とたん、黒服の一人が引き金を引く。つられるように他の者も。爆竹のように響く音の中、銃口から上った火で男の姿が浮かび上がった、コマ送りのように切れ切れに。身をのけぞらせ、踊るように身を揺らし、足をもつれさせる。銃声はそこで途切れ、男の姿も闇に消えた。
最初に引き金を引いた男が、安堵したように息をついた。何か言おうとしたか、笑って口を開けたとき。
再び、引きずる足音がした。
口を開けた男の顔が引きつる。闇の方を見たまま言った。
「おい……電気つけろ。どっかあったろ、はや――」
言い終わるより早く、何かがその男へと躍りかかる。暗闇から突き出た拳が、その顔を豚のようにひしゃげさせた。
鼻血を吹き散らしながら黒服が倒れるのと、鈍く明滅して明かりがつくのと同時だった。
明かりの下に、男がいた。ひどくにおう男だった。うつむけた顔は、ドブに浸かったまま乾いたような髪が張りついて見えなかった。使い古されたジャケットの下で肩はたくましく盛り上がり、胸板は分厚い。そんな体を折り畳むように、ひどく背を丸めていた。
その男の体格も服も、ジニアには見覚えがあった。けれどジャケットはあんな風じゃなかった、あんなに穴は開いていなかったし、血に浸かったみたいに赤黒くもなかった、それに、それに――
ジニアの思考がまとまるより先に、黒服の一人が口を開く。
「馬鹿な……あいつ、あいつは、死んでたはず」
ジャケットの男は顔をうつむけたまま、その男へと向き直る。流れるような動きで姿勢を変えた。左掌左脚を前に出して右脚は軽く曲げ、右掌を腰に添えた構え。
「あいつは……あいつは……!」
悲鳴にも似た声を上げ、黒服たちは引き金を引く。
構えた男は銃弾を浴びる。ジャケットには焦げ跡のある穴が増え、狙いを逸れた弾は頬を抉った。男は大きくよろめいて、それでも床を踏みしめた。
男は倒れていなかった。構え直した左掌、自然に伸ばしたその指先が、先ほどの黒服に向けられる。
「てめえ、何で……?」
黒服の悲鳴を聞きながら、男は笑った。乱れた髪の下、サングラス越しに相手を見据え。不精ひげの生える頬を見せ、唇の片端を吊り上げて。反対側の端は弾丸にちぎり取られたか、歯の列を丸ごと剝き出しにして。
目を見開いたまま瞬きもせず、黒服が後ずさる。
歯を剝き出した男は、それより速く跳んでいた。腰から振り上げ、打ち下ろす右掌。それが黒服の頭を捉え、そのまま床へと叩きつける。骨がかち合う音が硬く響いて、黒服はそれきり動かなかった。流れ出した血が、タイルに走った亀裂へと染み込み始めていた。
誰もが動きを止めた中、男は大きく脚を上げる。一息に、黒服の首へと踏み落とした。枝を折るような音を立て、あり得ない角度に曲がった首を、脚を震わせ踏んでにじった。
言葉を忘れたかのように、黒服たちは口を開けていたが。やがて一人が銃を構え直した。
「野郎……死ね、今度こそ、死ねっ!」
銃声が二度響き、左肩、右胸に風穴が開く。撃たれた男は表情を変えず、両手を上げた。その指を勢いよく、傷口へと突っ込む。ぐちゅり、ぐちゃりと音を立てて。抜き出した指は血肉にまみれ、その間には小さな銃弾がつままれていた。それを親指で弾き捨て、男はゆっくりと歩み寄る。
泣くみたいに顔を歪めた黒服が、でたらめに引き金を引く。いくつかが壁へ床へと外れ、
しかしその一つは、男の眉間を確かに捉えた。額の真ん中に穴を開け、頭の後ろから脳髄の花をぶちまけて、男は大きくのけぞった。
黒服が震えながら、大きく息を吐き出す。
天井を仰いでのけぞった男は、ゆっくり元の姿勢に戻った。張りついた髪をかき上げ、ひしゃげたサングラスをかけ直した。こつ、こつ、こつ、と音を立て、傷口の開いた額を叩いてみせる。歯を剝き出した笑い顔で。脳髄を垂らしながら。
黒服は背を向けて逃げた、それより男は速かった。一足に跳び、肩からぶつかって跳ね飛ばし。よろめいたそこを片手でつかみ、引き戻しながら逆の手は拳を固め。ぶち折るような一撃を背骨へ。
悲鳴が響いた、銃声が続けて響いた、男は変わらず笑っていた。風穴を増やしながら駆け、跳び、男たちへと次々に、ぶち抜くような拳を腹へ、金槌のような掌打を頭へ、丸太のような脚を倒れた者の首へ。
ジニアは黒服の一人に肩をつかまれたまま、口を開けていた。震えていたのはジニアか、黒服の腕か分からなかった。
拳を振るう男の体格も服も、ジニアには見覚えがあった。けれどジャケットはあんな風じゃなかった、あんなに穴は開いていなかったし、血に浸かったみたいに赤黒くもなかった、それに、それに。何より。
ひどくにおうあの男は、腐れていた。繰り出す拳は蠟のように白く、けれど所々が赤黒く膨れていた。皮が剝けて肉ののぞく箇所もあった、薄茶けた灰色をした骨が見える箇所もあった。歯を剝き出した顔も同様だった、膨れ、ただれ、黒く腐った血を垂らしていた。父親の、葬儀屋の仕事場で見たことのある死体と同じだった。発見が遅れて腐れた死体。
なんで、なんで、とジニアは幾度も自分に問うた。なんで。あの人が死んでいるんだろう。マーチが。パパの、古い友人が。そしてなんで、生きているんだろう。腐ったまま。
不意に、叫び声が響いた。
「動くな! 動くなっ、動くな、こいつが死ぬぜ!」
ジニアを捕らえていた男が、ナイフを喉元へ突きつけていた。ひどく震える手でどうにか。
荒い息の下から男は言う。
「チクショウ、チクショウ、てめえ、寄んなよてめえ! 動くなよ来んなよ絶対に!」
見ればその男の他、立っている黒服はいなかった。うめき声すら聞こえなかった。
マーチは構えを取っていたが、やがて両手を下ろす。うなだれるように顔をうつむけた。
黒服は乾いた声で笑う。
「そうっ、そうだ、それでいいぜいいぜ……こいつが大事だろ、な、な?」
ジニアを引っ張り後ずさる男。マーチは顔をうつむけたまま、思い悩むように手を額に当てた。
マーチ。そうジニアが言いかけたとき。
マーチはそのまま、額に当てた指を弾いた。
「がっ!」
男が何か悲鳴を上げ、ジニアから手を離す。
すぐにジニアは男から離れた。見上げれば、男が手で押さえた目の辺りに何かどろりとしたものが見えた。黒くただれた桃色をした、泥のようなもの。マーチが額から垂らしているのと同じ、流れ落ちた脳髄。
叩き割るような音を立てて床を踏みしめ、マーチが跳ぶ。
「ひ……」
目を拭った男が、悲鳴と共にナイフを突き上げる。その切先はマーチの振り下ろす左掌を捉えていた。
ナイフに掌を貫かせたまま、マーチは男の手をつかむ。指から鈍く軋む音がした。握った左手をそのまま引き、右手は逆に、拳を男の腹目がけ突く。親指の方を上にした縦拳で、体重の全てを打ち込むように斜め下へ。引きつける後足が床を踏み割る。勢いを乗せた右の拳が、腹の奥へめり込んだ。何か柔らかいものを、破裂させたような音を立てて。
声も上げずに男はこと切れ、物のように床へと落ちた。口から鼻から血をこぼして。
指を肌に食い込ませ、ジニアは自分の腕を握り締めていた。何を言えばいいか分からないまま口を開く。
「ぁ……あの……」
ゆっくりと、マーチが振り向く。真新しい血に濡れた、黒服たちの折れ飛んだ歯が白く刺さった拳を開く。ジニアへと手を差し伸べた。腐れた手を。
ジニアはただ、口を開けていた。目を見開いていた。痛いほど腕を握り締めていた。
「ぁ……あ、ぁ……」
こちらを向いた拍子に、ひしゃげたサングラスが床に落ちた。マーチの目は、じっ、とジニアを見つめていた。白く濁った瞳、もはや何色だったか判らない、腐った目で。
そして額の穴から、とろり、と脳髄が流れ落ちる。
自分でつかんだ腕の軋みを感じたのを最後に。ジニア・スオンの意識は、いったん途切れる。
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