Rotting March
木下望太郎
第1話 彼は死ぬ、鍛え抜いた拳法も活かせずに
なんで今思い出すかね、別れた女の
銃弾に肺を貫かれながら、マーチはそう思っていた、今まさに――ひび割れたコンクリートの壁に響く撃発音二回、気のせいか、ちくりと胸の表面に違和感、感じたかと思えば弾丸は杭のように釘のように生娘を犯すはちきれそうな
その一瞬に、マーチの頭に女の姿がよぎっていた。蜂蜜のような金髪、
マーチは膝から崩れ落ちかけたが、壁にもたれて踏みとどまる。
胸の傷の中を、今頃になって熱が走り抜けていく。額に皺を寄せ、不精髭の生えた頬を脂汗にまみれさせ、歯を噛み締める。背中は赤い花が咲いたように熱い。だがそれも、端から端から温度を失っていく。手足の指先も同様に、使い古したジャケットが赤く濡れていくにつれて。
天井で古い蛍光灯が切れかけ、ぢぢ、と虫の羽音に似た音を立てる。マーチに向けられた幾つもの拳銃、それらが明滅に合わせて黒光りするのが、サングラス越しにでも分かった。そしてなんとも嫌なことに、銃を構える黒服の男たちは、跳びかかろうとも届かない距離にいた。
それでも壁を支えに身をよじり、震える膝に力を込め、痺れたような背骨を伸ばし。構えた。左掌左脚を前に出し、右脚は軽く曲げる。右掌を腰に添えた、三体式と呼ばれる構え。もはや体の芯にまで染みついた構え。
決して届かない距離にいる男たちへ向け、口を開く。
『てめェら、
「て……あ、ガ、ェ出……っ……」
溺れたような呟きを残し、震えながら膝をつく。
押さえた手の下、分厚い胸板の上で、血があぶくを立てていた。擦り切れたような呼吸に合わせ、泡は音を立てて膨らみ、割れた。背中からも同じくあぶくが立つのを感じ、歯を噛みしめる。口の端から
黒服たちの間で、小さく笑い声を上げた者がいた。ストライプのスーツを着た男。
その男が前へ出る。蛇革の靴がタイル敷きの地面に硬く音を立てた。オールバックの黒髪に整髪料の跡をてらてらと光らせながらマーチを見下ろし、煙草を口の端でくわえる。同時に近くの黒服が駆け寄り、火をつけた。
男は一つ紫煙を吐き、喉を鳴らしてまた笑う。腰を折り、耳に手を当ててマーチの胸へ向けた。
「イイ音だ、肺か、肺だなァ、あ? なァ拳法家サンよ、アンタ煙草は
言うと身を起こし、勝手に何度もうなずく。
「当たりだな、鍛えられてしかも健康なのじゃなきゃ、そんなイイ
マーチの顔が歪む。音を立てて噛んだ歯が軋む。
男は手の甲で、マーチの頬を優しくはたいた。
「怒んなよ、おーこーんーなーよ。わっかんねェなァ、なぁんでそんなツラするワケ。人助けだぜ? 普通教えっだろ子供によ、困ってる人がいたら助けてあげなさいって――」
男は顔をのぞき込み、口の端で煙草を揺らした。
「――アンタの子の
言葉の終わりは、マーチの耳には入らなかった。強く吸い込む呼吸、胸の傷が一瞬だけ流血を止める。強く吐く息、肺は血飛沫を散らしながら、つむじ風のように鋭く鳴った。
男のスーツ、高級そうだが品の無いそれに血が飛び散る。男が顔をしかめるより早く、マーチは立ち上がりざま左掌を振るった。それが煙草を跳ね飛ばし、男は反射的に目をつむる。そこへ。
右足を小さく前へ踏み込む。引きつける後足が床を揺らす。その反動は真っすぐに、突き上げる右拳へと走る。掌を上へ向けた拳が、男の顔を打ち抜こうとしたところで。
マーチの胸が背が、肺が、血を大きく吹き上げた。
「がッ……ァ……!」
踏みとどまろうとした足に力がこもらず、背を丸め崩れ落ちる。
そこへ男の蹴りが飛んだ。革靴の先が傷口をえぐる。もはや声も上げられず、わずかに残っていた息を吐き出してマーチは地面へ転がった。横向きに倒れながら、武骨な大きさをした体が
男は歯を剝き、痙攣したように頬を引きつらせた。
「あ? あ? ぁあ? あぁおいテメこら何してくれてンだクソがぁッ!」
男はまるでフリーキックのように、足を大きく後ろへ振り上げた。そのまま先程と同じ箇所に爪先を突き立てる。穴の穿たれた胸骨に、音を立ててひびが入る。
「ぁぁあテメェナメてンのかナメてンのかナメてンのかダボが、
男が力任せに蹴りを入れる、その度に
さらに何度も蹴った後、息を切らして男は離れる。近くにいた黒服が駆け寄った。
「サイキさん、怪我は――」
男の顔がさらに引きつる。
「あ? アホかテメェ食らっちゃいねェンだよ、どけ!」
黒服を殴りつけ、サイキと呼ばれた男は唾を吐いた。尾を引くような音で舌を鳴らす。
「もういい、終いだ」
男が手を上げると、黒服たちは銃口をマーチへ向ける。
マーチは血溜まりに頬を浸したまま、ひび割れたサングラス越しにその光景を眺めていた。立ち上がろうにも、自分の足がどこにあるのか分からなかった。目の前に投げ出されている腕が自分のものだと感じられなかった。どんなに拳を握ろうとしても、指の一本も動くことはなかった。もはやどうやって動かしていたのか思い出せなかった、かつては来る日も来る日も振るっていた拳だというのに。
嘲るように、眉根を寄せてサイキが言う。
「じゃあな、お父サンよ。しーんぱいすンなって、娘は丁重に扱うさ……大事な出世のタネだ。ま、すぐにあの世で会えるさ。邪魔立てすンなら、今のお
サイキが手を振り下ろすと同時、黒服たちの銃が乾いた音を上げた。
幾つも穴を穿たれて、マーチの体は小刻みに震える。横たえていた頭が小さく跳ね上がる。
その衝撃を無感動に、マーチはただ受け入れていた。心の内でつぶやく。
エイミア、エイミア。お前の言ったとおりだ、父親になんぞ俺はなれない。
跳ねた頭が、ごとり、と落ちて、マーチの視界は白くなった。白く白く、まぶしくはなく、くすんだ白へと染まっていった。遠く遠く、貫くように呼ぶように、鼓膜の奥から耳鳴りが響いた。もはや声は出ず、唇だけが娘の名を呼ぶ。
ジニア。
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